第五話:その灰を振り払え
【若き女公爵】
ラグナルのヴァルミールへの出国が、正式に決まった。王国での最後の仕事として、年末会議を見届けることになった。
その日の朝、ラグナルが王城の中庭を歩いていた。この国の風景を、少しでも目に焼き付けておきたかったのだ。
すると、中庭の端に、一人佇む女性を見つけた。
アデル・カレスト――王国史上初の女性公爵。まだ十九歳の彼女は、顔を強張らせながら立っていた。時折、深呼吸をしたり、姿勢を正したりと、忙しない様子だ。
思わず、ラグナルは苦笑した。その、初戦を前にした将軍のような姿に。
そしてラグナルはすぐに察した。八月に前カレスト公爵が急逝し、アデルが正式に公爵位を引き継いだばかり。彼女にとっては、この年末会議が公爵として初の大舞台であり、戦場だ。
アデルの硬い表情から、この国の未来を背負う重圧が感じ取れた。その面持ちが、ラグナルにとって他人事に思えなかった。
ラグナル自身も、祖国を離れる喪失感で、心が重く沈んでいた。しかしせめて彼女には心の重みを和らげてやりたい――そんな思いが胸に浮かんだ。
ラグナルは足を止め、微笑んで声をかけた。
「……どうされましたか?」
アデルは驚いたように顔を上げた。ラグナルの姿を認めると、すぐに表情を整える。
「……お見苦しいところをお見せしてしまいました」
「いいえ、むしろ感嘆しておりますよ」
ラグナルの穏やかな問いかけに、アデルは一瞬目を伏せた。そして頷いた。
「いえ……ただ、緊張していただけです。しかし、逃げるわけにはいきません」
その毅然とした言葉に、ラグナルは微かに口元を緩めた。自分自身の不安や葛藤を押し隠して、彼は言葉を紡いだ。
「貴女がここまで誠実に準備されてきたのなら、あとは希望の女神に託せば良いのです。そして希望の女神は、笑顔のもとに訪れるものです」
自分で口にしながら、その言葉にどれほどの真実味があるのか、ラグナル自身もわからなかった。むしろ、自分が誰かに言って欲しかった言葉なのかもしれない。
「……希望の女神は、笑顔のもとに訪れる」
アデルはその言葉を噛み締めるように考え、やがて覚悟を決めたように目を上げた。そして微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下。そのお言葉、胸に刻みます」
彼女の茶色い髪が冬の風に揺れ、黒い瞳が真っ直ぐラグナルを見つめていた。それは、この国の民の多くが持つ、王国を象徴する色彩でもあった。
アデルの立ち姿は、王国の未来を担う者たちの代表のようだった。丹念に引かれた赤い口紅が、若さの中に凛々しい強さを加えていた。
その姿が、久しぶりにラグナルの目に、鮮やかな色として映った。
【ヴァルミールでの灰色の日々】
アヴェレート王国の東方に位置する、ヴァルミール。
この国は、「水の国」の異名で知られている。国境を跨いで広がる、大きな湖を擁しているのだ。その湖面は、晴れた日には鏡のように空を映し出す。神秘的で、壮大な自然美だ。
その美しさは、母が語った故郷の思い出そのものだった。見たことないはずの風景を前にして、ラグナルは郷愁を抱く。
ラグナルは湖面を覗き込む。湖面が風に揺れ、自身の輪郭がぼやけた。
「かつてのアヴェレート王国の文化は荘厳だった。しかし今や見る影もない」
「建国以来の文化的権威を担った家が取り潰されるなど。我が国では考えられない」
ヴァルミールでの生活は、王国文化の断絶を痛感させた。ヴァルミールの貴族たちの間で、「王国はもうかつての輝きを失った」と囁かれていた。
歌劇を筆頭に、様々な芸術が花開くヴァルミール。貴族たちの嗜みのレベルも非常に高い。そのような国で、文化を失った国に対する評価は、極めて厳しかった。
「オクタヴィア様も、随分と貴国に馴染んでいらっしゃるようですね――文化棄損も恐れず英断を後押しされるとは」
社交場で投げかけられる皮肉。ラグナルはその笑顔の下で、相手の胸ぐらを掴みたい気持ちを抑えた。
「ええ。王妃オクタヴィア陛下は、いつも本質を見抜く方です。大貴族の資金力で圧倒することが文化ではないと考えられたのでしょう。例えばクリスタルの髪飾り一つで、四十年近く貴国の歌劇脚本が生まれ続けているように」
――貴国の文化資産は、我が国の影響を大いに受けていらっしゃいますね。
ラグナルの皮肉返しに、その男は笑った。
「いやはや。ラグナル殿下は随分と、我が国の文化にもお詳しい。今度、ぜひ我が家の文化サロンにお越しください。歌劇や詩文について語り合おうではありませんか」
そう言って男は手を差し出す。ラグナルもまた、その手を取った。
社交場での悪意の数を、握手の数へと変えていく。ただその悪意の数は、途方に暮れるほどにある。
それでもラグナルは向き合った。まるで、かぶった灰を振り払おうとするかのごとく。
その日々の中で、ラグナルにとって癒しとなった時間がある。ヴァルミールの姫君、エリオノーラとの交流だった。まだ幼い彼女は無邪気で明るく、貴族社会の暴力とは無縁だった。
「ラグナル様、今日も貴国のお話を聞かせてください!」
彼女の澄んだ声は、王宮の中に風をもたらすように響く。ラグナルは微笑みながら、彼女に向き合った。
「では、今日は王国の湖について話そう。そこには、ヴァルミールの湖と同じように美しい水と、豊かな自然が広がっているんだ」
ラグナルが語るたび、エリオノーラは目を輝かせながら聞き入った。その純粋な姿は、ラグナルにとって微笑ましいものだった。
しかし、彼が忘れることはなかった。処刑された命の重み、退廃した祖国、そして祖国と家族から離れている今。その全てが、ラグナルの世界から色彩を奪う。
そんなある日のことだった。
祖国の使者から報告書が届けられた。これは、彼の直属の間者部隊によって作成されたものだ。祖国の動向を把握するため、ラグナルは間者たちに定期的に報告をさせていた。
その報告書の中に、知った名前を見つけた。アデル・カレスト公爵だ。
彼女の領地で、金山開拓が行われた。それによって取引が活性化、北部地域に好景気をもたらしているという。
「前カレスト公爵の立地調査を引き継いで、ついに金鉱脈を発掘したのか……」
フォルケン家の過去の搾取や横暴により、多くの領地は再建途上。その中で、カレスト公爵家は王家の手を借りず、自立経営していた。その明るいニュースは、ラグナルに印象を残した。
アデルの名は、その後も度々見かけることとなる。好調だった金山開拓事業から、彼女は早々に手を引いた。代わりに力を注いだのは農業――土壌改良、新肥料開発、そして薬草スフィリナの農地栽培。山間部でしか採れないはずの薬草だ。それを平地で栽培したという。
ラグナルは察する。この転換は偶然ではない。あらかじめ計画されていた、と。
――金山開拓は労働災害が多く、資源も有限だ。だから彼女は必要な分だけ金を掘ったあと、迷いなく手を引いた。
そして次の一手は、持続可能な農業へ。
その戦略に無駄がない。読みが早い。視野が広い。彼女の思考は、報告書の裏側に、確かに息づいていた。
「アデル・カレスト……。まだ若いのに、これほどの戦略と成果を」
ラグナルは報告書を見つめながら、小さく呟いた。その声には、久しぶりに感じる希望の色が滲んでいた。
報告書の続きには、アデルの領地経営が注目され、王国全体に好影響の兆しがあるとも書かれていた。
「彼女が……希望の光を灯しているのか」
ラグナルはその報告書を何度も読み返した。その度に、一筋の光が差し込んだ。彼の灰かぶった世界の中心に。
ある日、ラグナルは湖のほとりに立った。湖面には彼の姿が映されていた。確かな輪郭で。
「この国でできることを成し遂げよう。王国が再び尊厳を取り戻す日まで」
その言葉と共に、ラグナルは歩き出した。灰色の日々の中で見つけた、希望の光を胸に抱きながら。




