第一話:手紙が運ぶ新たな日常
【王族達の静かなる夜】
夜の帳が下りた王城は静けさに包まれていた。昼間の賑わいを忘れさせるような寂寞だ。
広大な城内で灯るのは、いくつかの部屋のランプと月光のみ。そのひとつ、王の私室では兄弟二人が向かい合っていた。
アーサーは、椅子にゆったりと腰掛け、陶器の杯を静かに揺らしている。ラグナルは対面に座り、同じく杯を手にする。
二人だけの時間――そこには立場を超えた、兄弟としての空気が流れている。
「この発泡ワインというものは、大変趣深いですね。爽やかで刺激的だ」
ラグナルが静かに呟くと、アーサーが口元に笑みを浮かべた。
「そうだろう。南部の若い奴らが、産んだ新しいワインでな。技術を受け継ぎながらも革新的な味わいになっている。気に入ったなら何よりだ」
アーサーの声には、王としての誇りが滲んでいる。
ラグナルは発泡ワインを何口か味わった後、ぽつりぽつりと、国内の状況について報告を始めた。各地の豊作、物流の改善、北部の不便さへの対応――そのどれもが、要点を的確に押さえていた。ラグナルが帰国して2ヶ月半。その彼が、これほど広範な情報を掌握している。
「さすがだな。お前の洞察も、お前を支える部下たちも」
「ありがとうございます。兄上が褒めていたと、部下たちにも伝えておきますよ」
アーサーは小さく息をついた。
「国内は順調だな。これでようやく、安心してレオンを王太子に指名できそうだ」
その言葉に、ラグナルの顔が明るくなる。
「それは何よりです。レオン殿下も、来年で成人ですからね」
ラグナルの声には、心からの安堵と祝意が込められていた。
アーサー王――長男である彼が、王太子として正式に認められたのは10年前。それまでの道のりは長く、険しかった。国内の政情不安、貴族派閥の対立――それらが彼の立太子を遅らせた。
ラグナルは、自分たちの世代の苦悩が、次の世代に引き継がれなかったことを心から安堵していた。
「……あれから、随分遠くに来ましたね」
「そうだな」
アーサーの声は静かだった。そこに込められた複雑な心を、ラグナルは察する。
ラグナルの脳裏には、もう一人の兄弟――腹違いの次男の姿が浮かぶ。彼は政局に敗れ、南部地域の塔に幽閉されている。もう長いこと、その顔を見ることは叶わない。
――せめて、次の世代には、そんな思いをさせてはいけない。
その決意が、ラグナルの胸を締め付ける。室内にしんと静寂が広がった。
その空気を破るかのように、アーサーが少し意地悪な笑みを浮かべた。
「ところで、カレスト公爵とはずいぶんまめに手紙のやり取りをしているそうじゃないか。もはや文通相手だな」
唐突な言葉に、ラグナルは思わず顔を上げる。
「……兄上、どこからその話を?」
ラグナルの問いかけに、アーサーは杯を揺らしながら笑う。
「文書管理室から報告があったからな。お前と北部のやり取りが増えていると。随分熱心な文通だな」
「ただの政務連絡です。貴族同士の当たり前のやり取りを過大評価なさらないでください」
ラグナルは表情を崩さずに答えた。しかし、微かにはぐらかすような気配が漂う。その気配を、兄は見逃してくれなかった。
「政務連絡ねぇ。それ以上の含みを持たせるような態度を見せれば、噂は火に油だぞ?」
アーサーが楽しげに言う。ラグナルは肩をすくめた。
「今まさに、その火種に薪をくべていらっしゃるのは兄上ですけどね」
ラグナルの皮肉に、アーサーは大きく笑う。
「安心しろ、弟よ。貴族どもが好き勝手噂しても、最終的に誰もお前には勝てんさ。それに――」
アーサーは少し間を置き、声のトーンを落とした。
「そういう雑音を気にしすぎる必要はない。お前が自分の思いに正直になれるだけの状況は、王としても兄としても、築いてきたつもりだ」
「……兄上は、随分とお優しいですね」
ラグナルは、兄の配慮を感じ取る。しかしラグナルは、そっとしておいてくれることを切に願っていた――彼女との関係は、今はまだ潜伏させるべきだ。王政安定のための、繊細な政局バランスの上に成り立つ距離感。それを、王自ら薙ぎ倒そうとするなど、笑い話にもならない。
しかし、アーサーは意に介さず、微笑を浮かべながら肩をすくめた。
「友を持つのはいいことだ。時に、それが何より心を支えるものになるからな」
その声は、兄としての優しさと励ましに満ちていた。しかしラグナルには、その裏にある意図が見え隠れしているように思えた。
――友、か。
ラグナルの脳裏に浮かぶのは、知的で美しい彼女だった。最後に言葉を交わしたのは、あの夏の丘の上。あの日以来、書簡のやり取りが続いている。彼女の優美な筆跡で、彼女らしい知性と皮肉が綴られた手紙。そのやり取りが重なるごとに、記憶の中の彼女の輪郭が濃くなるような気がしていた。その内心を否定することを、彼もとっくに諦めていた。
ラグナルは自然と口元に笑みを浮かべ、静かにワインを飲み干した。
秋の夜は更けていく。王族二人の静かな夜は、穏やかな余韻を残して幕を閉じた。
【アデル・カレスト公爵領主の日常】
秋――カレスト公爵領は、まさに実りの季節を迎えていた。黄金色に輝く小麦畑、たわわに実った果実、収穫を待つ豊かな野菜。領地中が穏やかな喜びに満ち、秋の風がその豊かさを優しく運んでいた。
アデル・カレスト公爵にとっては、これからが一年で最も忙しい時期である。
彼女は公爵領主として、政策を指揮していた。市場の規制緩和、執政部の組織改革。
同時に、毎年恒例の収穫祭の準備にも追われていた。収穫祭は年に一度の祭典だ。素朴さはありながらも賑やかで、領民たちも毎年楽しみにしている。
アデル自身もこの祭りが大好きだったが、主催者となれば話は別だ。今年も協議事項が山のように積み重なっていた。公爵邸では執事や使用人が忙しく走り回っている。
「今年の小麦は良い出来だと報告が上がっています。各村々での分配についてはこちらの案で……」
「市井で値上がりしている果物は、中央市場にて価格調整を行います。露天商にも通達を」
アデルは次々と報告書に目を通し、冷静な判断を下していく。その意思決定の速さは、部下たちの尊敬を買うと同時に、彼らにも同じスピードでの仕事を求めた。「カレスト公爵家に仕えたら、他領の10年分の経験を半年でできる」と言われる所以である。
しかしどんなに忙しい日々でも、アデルにはひそかな癒しがあった。それは――ラグナルから届く手紙である。
彼女の書斎には、様々な文書や報告書とともに、山と積まれた手紙が届いていた。親戚や旧友、貴族間の連絡、そして領地に関わる業務の手紙。その中から、一通の手紙が目に留まる。その青い封蝋を見つけた瞬間、アデルは真っ先にそれを取っていた。
もはや彼女自身にも、ためらいや疑問はなかった。言い訳をする必要もない。ただ、この一通が、彼女にとって最も楽しみなものだということだ。
「さて、今度はどんなことが書いてあるのかしら」
小さく笑みを浮かべながら、アデルは封を切る。手紙は、いつものように端正な筆跡で綴られている。
『どうしても直接お会いして、お伝えしたいことがあります』
アデルはその一文を見つけた途端、目を細めた。
「……どうしても直接、ですか」
珍しく内容がぼかされている。普段であれば、政治の情勢、王都の様子、ついでに個人的な出来事について、具体的かつ率直に書かれている。しかし今回は随分と含みを持たせた書き方だ。
一見すると、まるで愛の告白のようにも取れる――が、アデルはすぐに現実的な考えに戻る。
「重要な話でしょうね」
彼女の目は少しだけ鋭くなる。
恋文に見せかけて重要機密を伝えるというのは、貴族の間では朝飯前の手法だ。もし手紙が傍受されていたとしても、そうした書き方であれば気づかれにくい。
その上、わざわざ「会って伝える」と書かれていた。ただのお茶会で済む内容ではないと、アデルは直観した。
アデルは手紙をそっと机に置き、窓の外を見つめた。秋の風が木々を揺らし、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえる。
平和で豊かな領地――それは彼女が全身全霊で守り続けてきたものだ。そして、その平和を守るために、この先に待っている「会談」にも、しっかりと臨まなければならない。
アデルは深く息を吐き、椅子に座り直す。手紙を空に透かすように、再度眺めた。
「王弟殿下がわざわざお越しになるとは……何のご用件かしら」
その言葉の裏には、少しだけ――ほんの少しだけ、楽しみな気持ちが隠されていた。
そして、ラグナルが手紙でほのめかした「直接会って伝えたい内容」が、彼女の日常にまた新たな波を起こす。それを知るのは、もう少しばかり後のことだった。