第四話:アデルの仮説
【夜の語らい】
アデルが自宅に着く頃には、小粒の雪がしんしんと降り始めた。
馬車が門の前で止まると、出迎えに立つ執事が一礼した。
「お帰りなさいませ、アデル様」
執事の声が、冷たい夜気の中に響く。
「実は王弟殿下が先ほどいらっしゃいまして、中でお待ちです」
「ラグナルが?」
アデルは一瞬驚いたものの、すぐに笑みを浮かべた。
「そう。ありがとう。通してくれて助かったわ」
邸内に入ると、応接室にラグナルがいた。
ラグナルは椅子に腰掛け、窓越しに音もなく降る雪を見つめていた。
「ラグナル」
アデルが声をかけると、彼は振り向いて微笑んだ。
「お帰り、アデル」
その声は穏やかで、アデルの心をほっとさせる。
「こんな時間にどうしたの?」
「君が帰る頃だと思って、様子を見に来たんだ」
ラグナルは立ち上がり、彼女の肩を抱く。
「わざわざ来てくれるなんて、嬉しいわ」
アデルは明るく笑いながら、彼の顔を見上げた。
部屋の暖炉が、黄金の炎を盛らせる。
二人はソファに、並んで腰を下ろした。ラグナルがアデルの肩に手を回す。
「どうかしたの?」
ラグナルはアデルを見つめ、微笑んだ。その微笑みの中に、アデルは心許なさを感じ取る。
「君が無理をしていないか、それが気になってね」
「私が無理をしているように見える?」
ラグナルは静かに首を振る。
「正直に言えば、君の覚悟には感謝している。でも、僕の過去を知ることで、君がどれほど心労を抱えることになるのか、それが一番怖い」
アデルは彼の言葉に耳を傾け、そっとラグナルの手を取った。彼の指先は冷たい。
「ラグナル、貴方は本当に心配性ね」
アデルは、ラグナルの肩に頭を預けた。
「私が貴方の過去を知らなければ、伴侶になる意味なんてないわ」
アデルの声音は、直接ラグナルの心臓に囁くようだった。
「それに、私は知りたいのよ」
アデルがラグナルの顔を見上げ、互いの視線が交差する。
「どんな過去を持っていたとしても、それを乗り越えてきた貴方を、もっと誇りに思いたいから」
ラグナルはしばらく黙り込んだ。そして、アデルの頭上に自分の頭を傾けながら、彼女の髪を優しく撫でる。
「君には、本当に救われてばかりだな……」
「それはお互い様よ」
アデルはラグナルの半身に身を預けた。ラグナルは目を伏せ、囁いた。
「アデル。僕は君に、どれだけ救われたかわからない。本当に……君と出会えたことが、僕の人生で最も幸運なことだ」
「これからもっと幸せになるわ、ラグナル」
ラグナルがアデルの額にキスを落とす。アデルはくすぐったく笑った。
窓の外では、雪が降り続けている。
【フォルケン家断罪の裏側】
深夜の強風が、王都の安眠を脅かしていた。
カレスト公爵邸の執務室では、まだ主人が机に向かっていた。暖炉と蝋燭の炎を煌々とさせながら、アデルは集めた資料を広げていた。フォルケン家の末路に関する報告書だ。
フォルケン家の断罪は、王国中に大きな衝撃を与えた。税務調査により、フォルケン家が巨額の脱税を行っていたことが明るみに出た。当代夫妻と次期後継者は連座で首を刎ねられ、公爵家としてのフォルケン家は取り潰しとなった。
しかし、アデルはその簡潔すぎる説明に違和感を覚えていた。これほど大規模な不正が、ただの外部調査で明るみに出るだろうか、と。
フォルケン家は、長らく権勢を誇ってきた名家だ。その歴史は建国とともにある。アヴェレート王家が東西南北の小国を統一した際、忠臣として行動を共にした。それ以来、百年を超えて血と富を繋いだ。
そんな家が築き上げた財務の防御網を、外部の者が簡単に突き崩せるとは、考えにくかった。裏がある――そう考えた瞬間、アデルの脳裏にある出来事がよぎった。
交易幹路の工事計画を巡り、北部の貴族たちと対立していた時のことだ。
ラグナル直轄の間者たちが、アデルを助けてくれた。彼らは秘密裏に情報を集め、不正の決定的な証拠を提供してくれたのだ。その働きぶりには目を見張るものがあった。
しかしそれ以上に、彼らがラグナル個人に見せた態度が印象的だった。ラグナルの印章を見せた途端に、彼らの態度が変わった。
「殿下のお心に従い、ご依頼されたものをお持ちしました」という言葉が、違和感をアデルに残した。彼らは王家ではなく、ラグナル個人に仕えているのではないかと。
――あの間者たち……まさか、フォルケン家の件でも?
アデルは息を呑んだ。
あの間者部隊の運用について「ラグナルに全権がある」理由が、「ラグナルが組織編成したから」だとすれば――その閃きに、アデルは確かな手触りを感じた。
アデルはそれを足がかりに、更に思考を進める。
間者がフォルケン家の膨大な財務資料にまで手を伸ばし、脱税の証拠を掴むには、それが許されるだけの権限を獲得しなければならない。
アデルは自家を例に考える。間者が内部に入り込み、核心的な資料を持ち出せる役職に着くまでに、十年はかかる。
そう考えたとき、アデルはダモデス公爵の言葉を思い出す。
『儂があの王城の廊下で見たのは、ラグナル殿下の瞳だ。まだ未成年の頃だ。あの深い青の瞳が、まるで敵の首を欲しているように暗く滾っていた』
フォルケン家断罪が行われたのは、ラグナルが二十五歳の頃である。その、十年前ならば――ダモデス公爵の証言と一致する。
手繰り寄せた思考の欠片が、音を立てるように噛み合っていく。
ラグナルが十代の頃――王国歴一三〇年代後半から一四〇年代前半――に、フォルケン家絡みで何があったのか、アデルはさらに逡巡する。
その頃はフォルケン家が増長していた頃であり、枚挙にいとまがない。
フォルケン家から融資を受けて破産する、低位貴族たち。
フォルケン家と敵対的だった、複数の高位貴族の不審死。
宗教との癒着による権威の過集中。
その中でも直接王家に関わるものと言えば、フォルケン家の横槍による、当時の第一王子アーサーの立太子妨害だ。アーサーが成年する十八歳のときに、ファルケン家を中心に議会で立太子の反対がなされた。
それは王国史上、異例中の異例だった。その背後では、王家とフォルケン家の間で次期王位を巡る熾烈な政争があったと、アデルも父から聞いていた。
――アーサー王が立太子されなかったその時、ラグナルは十三歳……!
全ての欠片が一つの仮説を組み上がらせる。
『ラグナルは、十三歳のときに間者部隊を設立してフォルケン家に送り込み、十二年後の断罪の布石を打っていた』
甲高い風切音が窓の外で吹き荒れた。邸宅を切りつけるかのように。
アデルは驚愕に目を見開き、口を手で覆った。
その策略は、王家と領地の信頼を崩壊させるもの。それだけに、強力な策だ。敵の首を確実に落とすための一手。それを、僅か十三歳のラグナルが構想していた可能性。
狂気じみた執念、禍すらもたらしかねないほどの策略の才。
アデルでさえ、その悍ましさにたじろいだ。しかし同時に、彼女は別の評価も下した。
この仮説が正しければ、幼き日のラグナルの行動は、この国を守るためにどこまでも苛烈であることを選んだ証だ。
祖国と家族への純粋な愛、そして未来を守るために自らの手を汚す覚悟。
その気高さを、アデルは否定できなかった。
アデルは更に真実を突き止めるため、報告書にもう一度目を落とす。
一連の断罪劇の中で唯一処刑を免れ、幽閉処分となった者がいる。第二王子、コーネリアス・アヴェレート。彼はフォルケンの血を引く側室の子として生まれた。
アデルも、王城で開かれたパーティで挨拶を交わしたことがあった。そのときの彼は、長身で端正な外見をしていたが、目立たない存在だった。
――ラグナルは、自分の兄弟をも断罪したのかもしれない。
その重さに、アデルは思わず眉根を寄せた。
だとすればラグナルはこの決断をどのような思いで下したのか――その覚悟に、改めて心を震わせる。
「彼は今どこにいるのかしら……」
コーネリアスの幽閉先は、どの資料にも記載がなかった。王家により秘匿されているということだ。
アデルは資料に目を落としながら、再び思考を巡らせる。
フォルケン家が断罪された後、元フォルケン家領地は王家の直轄地となった。南部地域の中心に位置する。一方で、今この南部地域は、ルーシェ公爵家がその地を代表する顔役となっている。かの家の台頭は、フォルケン家の断罪後のことだった。
アデルは席を立ち、大きく息を吐いた。
「ルーシェ公爵に会いに行くしかないわね」
少しでも可能性があるなら、足を運ぶことに躊躇いはない。その行動力こそが、アデルを名公爵へと押し上げた原動力だ。それが今もなお、彼女を突き動かしている。
年末が近づき、貴族たちは王都に集まりつつある。ルーシェ公爵もまた例外ではないと、考えられた。
アデルは手元の資料を閉じ、明日の行動に備えて立ち上がった。アデルの新たな決意が固まった瞬間だった。
いつの間にか、風は止んでいた。




