第三話:核心に迫る
【過去の人間模様】
冬の昼下がり、王都のカレスト公爵邸。
この日は珍しく、アデル自ら、ロザリンドをお茶会に招いていた。
暖炉には黄金の炎が灯されている。王都の乾いた寒さも忘れるような暖かさの中、薬草茶の優しい香りが部屋を満たす。
「どうしたの? 貴女がわざわざ私を呼ぶなんて、何か特別な理由があるんでしょう?」
アデルはティーカップを手に取り、少し間を置いてから口を開いた。
「オクタヴィア様から、婚約の命題をいただいたの。ラグナルの過去を知るようにって」
その言葉に、ロザリンドは瞠目する。
「婚約の命題、ですって? まさか、『過去を知らない限り婚約は認めない』ってこと?」
「そう。しかも、彼に助けてもらうのは禁止されてるのよ」
それを聞いたロザリンドは、少しの間を置きながら言葉を選ぶ。
「オクタヴィア様って面白い方ね。でも……この先の嫁姑関係が心配だわ」
「私も同感よ……」
アデルがため息をつく。その息は重く、床に沈むようだった。
しかしアデルは顔を上げ、決意のこもった瞳で続けた。
「だけど、彼の過去を知らないまま伴侶になるのも、確かに不誠実ではあるわ」
ロザリンドは、優しげに目を細めた。アデルは身を乗り出す。
「ロザリンド、ヴァルミールに出発する前のラグナルについて、何か知ってることがあれば教えて」
ロザリンドはしばらく考え込んだ後、指を一本立てた。
「じゃあ、まずは一人目。クラリッサ・マール侯爵夫人ね」
「クラリッサ・マール?」
アデルは名前に聞き覚えがあった。社交場で度々見かける、明るいご夫人だ。
「そうよ。彼女、若い頃はラグナル殿下の追っかけみたいなことをしてたの。舞踏会で彼の行く先々に現れては、『二曲目も私と踊ってくださいませぇ』なんてしつこく頼んでたわ」
二曲続けてのダンスは、恋仲か伴侶を意味する。それを女性から求めるのは、随分熱烈なアプローチだ。
「それで、ラグナルはどうしたの?」
アデルが尋ねると、ロザリンドは肩をすくめた。
「丁重にお断りしてたわ。『お相手するのは光栄ですが、次の方が待っていますので』なんて言ってね。でもそれが逆に彼女を燃え上がらせたみたいで、どんどんしつこくなったのよ」
アデルは思わず小さくため息をついた。
「全く、らしいわね……」
「次に印象的なのは、既婚者のフリーダ・ヴォルター」
ロザリンドは指を二本立てながら語り続けた。
「彼女、ラグナル殿下にかなり大胆に迫ったのよ。晩餐会で隣に座ったと思ったら、いかにも意味深な視線を送って……その上、手紙まで出してきたわ」
「手紙?」
「そう。『あなたにお会いしてから、夜も眠れなくなりました』なんて書いてあったらしいわ。もう大胆なんてもんじゃないわよ」
「ラグナルはどう対応したの?」
アデルが尋ねると、ロザリンドは吹き出しそうになりながら答えた。
「完全に無視。それどころか、彼女の旦那に知られる前にそっと距離を取ったらしいわ。あれで騒ぎにならなかったのは、彼の冷静な対応のおかげね」
「さすがね」
アデルは小さく笑った。
「最後に、これが一番笑える話かもしれないわ」
ロザリンドは指を三本立てて話し始めた。
「ある貴族令嬢――パメラ・レインハートが、実家の力を使って婚約を取り付けようとしたの」
「無理矢理?」
アデルが眉を顰める。
「そうよ。晩餐会で、彼女の父親が『我が娘をラグナル第三王子殿下に捧げます』なんて突然宣言したのよ。場の空気が凍りついたそうよ」
「それで、ラグナルは?」
アデルの声が少し低くなる。
「淡々と言ったのよ。『感謝しますが、私にその意思はございませんし、今どき人身御供は流行りません』って。あの場にいた全員が笑いを堪えながら震え上がったとか」
アデルは思わず吹き出し、ロザリンドと笑い合った。
一頻り笑ったあと、ロザリンドは首を傾げた。
「でも、ここまで熱烈にアプローチされても結婚しなかったのよね。ラグナル殿下はどうしてそんなに結婚を避けたのかしら」
ロザリンドは不思議そうな顔で言う。アデルはため息をついた。
「フォルケン家のせいね」
「フォルケン? また懐かしい名前だけど、どういうこと?」
「ラグナルが結婚を避けたのは、フォルケン家が王位継承に横槍を入れたせいよ。次代に同じ問題を持ち越す可能性を避けたのよ」
アデルがそう説明すると、ロザリンドはさすがに驚き、「そんな事情があっただなんて……」と痛ましげに口を抑えた。
ロザリンドは神妙な面持ちで続ける。
「私たちの世代の貴族にとって、フォルケン家の横暴はトラウマね。私のお祖父様もかの家での晩餐のあと、原因不明の病になって……。でも、そんなフォルケン家を断罪した前王陛下は、あの事件で一気に人気が鰻登りだったわよね」
アデルはつい最近、謁見したばかりのノイアスの姿を思い浮かべた。彼の穏やかで落ち着いた声や表情が蘇る。気品溢れる優しさが漂う佇まい。それが、血で染まる苛烈な指揮を執った人物とは思えなかった。
――あの穏やかさの裏に、苛烈さをひた隠しにしていたのだろうか。フォルケン家が馬脚を現すまで、虎視眈々と。
そのとき、アデルの頭に、ふと閃きが走った。
――違う。むしろ、目的のためならどこまでも大胆不敵になれる、自分がよく知る「ラグナル」の手口ではないか?
「ロザリンド」
アデルは口を開いた。
「貴女のおかげで、手がかりを掴んだかもしれない」
ロザリンドは満足げに笑った。
「それなら良かったわ。あとは慎重にね、アデル」
「もちろん」
アデルは微笑み、再び薬草茶を口に運んだ。心の中では、次の一手を練り始めていた。
【歴史を知る者】
夕暮れ、王都のダモデス公爵邸。暖炉の火が黄金色に勢いよく燃える。
その前に座るダモデス公爵は、顰めっ面をしていた。
「まったく、こんな寒い中、あのカレスト公爵が何をしに来たかと思えば――」
ダモデス公爵は薬草茶を飲みながら言葉を放つ。
「どうせまた儂を困らせる話なんだろう?」
アデルは神妙に頷いた。
「さすが、よく分かっていらっしゃるわ」
「ほら見ろ!」
ダモデス公爵はティーカップを置き、大きく嘆息した。
「この儂を何だと思ってるんだ。暇つぶしの相手か?」
「いいえ。私にとっては北部の頼れる長老よ」
アデルはさらりと応じた。
「口が減らん小娘だ」
ダモデス公爵は憎まれ口を叩きながらも、どこか満足げに腕を組む。
「で、今度は何をしでかそうとしているんだ? 東部の元聖女の引き抜き、西部の石炭の大規模交易、南部との関税無税――次は隣国へ出兵でもするのか?」
「まあ。発想が物騒すぎますわ。話を聞きたいだけですのに。フォルケン家断罪の件です」
アデルが真剣な表情で答えると、ダモデス公爵は眉間に深い皺を寄せた。
「ほう……そいつは妙な話だな。なぜそんな古い話を掘り返してるんだ?」
「オクタヴィア様から、ラグナルの過去を知るようにと命題をいただきました」
アデルが告げる。すると、ダモデス公爵は眉を上げた。
「オクタヴィア様の命題だと? この厄介事の元凶は『蒼玉の賢妃』ってわけか」
ダモデス公爵が、かつてのオクタヴィアの二つ名を称した。アデルが意味深に口角を上げた。
「その通り。この国の激動時代を具に見てきたダモデス公爵なら、何かご存知かと思いまして」
「それでフォルケン家の断罪とは。しかし儂が知っているのは、お前ももう耳にしているようなことばかりだ」
「それでも構いません」
アデルが促すと、ダモデスは少し黙り込んだ後、語り始めた。
「フォルケン家の断罪――あれは、前王陛下のご決断だと公には言われている。だがな」
ダモデスは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げる。
「前王陛下は、もともと苛烈な判断を下すようなお人じゃなかった」
「やはり、そうですよね?」
アデルは思わず問い返した。
「ああ。陛下は穏やかで慎重だった。正直、儂は『陛下がフォルケン家を断罪する』なんて話を聞いた時、耳を疑ったくらいだ」
ダモデス公爵は再び背筋を戻した。そして眉間に皺を寄せて続ける。
「あの時、何か――いや、誰かが動いていたとしか思えん」
「誰か、ですか?」
「勘だがな」
ダモデス公爵が声を低くした。
窓の外では日没を迎え、夜が這い寄る。
ダモデス公爵は椅子から身を乗り出した。
「儂の記憶に残っているのは、あの青の瞳だ」
「青の瞳?」
アデルが促すように聞き返す。ダモデス公爵が頷き、続けた。
「儂が王城の廊下で見たのは、ラグナル殿下の瞳だ。まだ未成年の頃だ。あの深い青の瞳が、まるで敵の首を欲しているように暗く滾っていた」
アデルはその言葉に息を呑んだ。
「ラグナルが……」
ダモデス公爵は周囲を見まわした。自邸であるにも関わらず。
そして、アデルにだけ聞こえる声で告げた。
「儂の勘が正しければ、フォルケン家断罪の裏には殿下が深く関わっていたはずだ」
外では、木枯らしが吹きつけていた。窓を叩くように。
そこまで語ると、ダモデス公爵は椅子に再び深く腰掛けた。
「だが、殿下がどこまで手を伸ばしていたか、それは儂にも分からん」
アデルはしばらく黙り込んだ。ダモデスの話から浮かび上がるラグナル像は、彼女が知る彼と同時に、未知の彼を映し出していた。
「ありがとうございます、ダモデス公爵」
アデルは立ち上がり、深く一礼した。
「礼なんていらん。それよりも、一つ忠告だ。この先に待つ真実が、想像以上に厳しいものであっても、目を背けるなよ」
「その覚悟はできています」
アデルは毅然とした表情で応じる。ダモデス公爵は満足げに頷いた。
「お前も、あの殿下と似ているな。妙な覚悟を背負い込むところが……」
アデルは薄く微笑み、その場を後にした。
背後から聞こえてきたダモデス公爵の小さな呟きが、彼女の耳に届いた。
「この国の未来を担う奴らは、変わり者ばかりだ……」
暖炉の火がパチパチと音を立てる中、ダモデス公爵は一人、思案げに薬草茶を啜った。




