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挿話:大輪の薔薇の開花

 王国歴一四九年。

 カレスト公爵家の屋敷は、夏の光が差し込むにもかかわらず、どこか暗く沈んでいた。公爵の一人娘であるアデルが、婚約を破棄されてから一ヶ月が経とうとしている。

 アデルは広い部屋の片隅で一人、窓の外に目を向けていた。視線の先には庭園が広がり、色とりどりの花々が風に揺れている。その美しさを目にしても、彼女の心は少しも動かなかった。

「お嬢様、お茶の用意が整いましたが……」

 メイドの声に、アデルは小さく頷いただけだった。その表情は生気が薄れているように見える。

 部屋を訪れた従妹のロザリンドは、その様子を見て思わずため息をついた。

「アデル、気分転換に外へ出ましょう? 庭でお茶を楽しむのもいいわ」

 ロザリンドの提案にも、アデルは小さく首を横に振るだけだった。ロザリンドはその痛ましさに顔を伏せる。しかし、それを振り払うかのように首を振った。

「アデル、あなたはこんなところで歩みを止める人じゃないわ」

 ロザリンドは彼女の手を握り、強い眼差しで言った。

「婚約破棄なんて関係ない。あなたは強い人。私は信じてるわ」


「……アデルはまだ立ち直れそうにないな」

 廊下からその光景を目にしていたタリオン・カレスト公爵は、重い口調で呟いた。父として、娘の痛みに何もできない自分を悔やんでいた。

 今回の婚約破棄に、アデルの非は一切ない。王家に次ぐ権力を持つ公爵家が、アデルの婚約者の家を取り込んだのだ。自家の影響力を拡大するためだ。

 同じ公爵家でありながら、かの家とカレスト家の間には、大人と子どもほどの力の差がある。カレスト公爵家は過去にも、この公爵家によって苦渋を舐めさせられていた。

 公爵は娘のために新しい縁談を探そうと奔走していたが、一度婚約破棄された娘に対して世間の目は冷たかった。表向きは申し分のない縁談でも、内情を探ると、アデルの幸せを考えれば到底受け入れられるものではなかった。

 それでも、アデルにはまだ未来がある。そう信じたい父の心の奥に、ふと過去の記憶がよぎった。


「お父さま、冬でも領民の皆様が暖かく過ごせるように、西部のヴァルターお兄さまのお家から、今から石炭をいっぱい買っておけば良いのでは?」

 幼いアデルの問いは、まるで大人顔負けの知識と発想に裏付けられた提案だった。西部地域の石炭鉱山の存在を知り、北部地域の冬の厳しい領民生活を理解して心を砕いていた。でなければ、その言葉は出てこない。

 それをタリオンと共に聞いていた第三王子も、珍しく驚いている様子だった。タリオンは苦笑いを浮かべながらも思ったものだ。

「この子が男子だったら、名領主になっただろうに……」

 そして今、父としての確信に至った。


 ――アデルには、為政者としての素質がある。この家と領地を守れるのは、あの子しかいないのではないか……。


 それはあまりに常識はずれな発想。王国史を振り返っても前例のないことだったが、タリオンは一つの確信をもった。


 翌朝、タリオンはアデルを自室に呼び出した。彼の表情には決意が宿っていた。

「アデル」

「はい……お父様?」

 静かな声で応じたアデルの姿には、以前の彼女の活気が感じられなかった。公爵はその様子に胸を痛めつつも、まっすぐ彼女を見つめて口を開いた。

「私は、お前に新しい道を提案したい」

 アデルの瞳にかすかな驚きが浮かぶ。

「お前を、次期カレスト公爵に指名したいと思う」

 一瞬、彼女は何を言われたのか理解できず、父の言葉を反芻した。次第にその意味が胸に落ちてくると、アデルは顔を強張らせた。

「……次期公爵、ですか? 私が?」

「そうだ」

 公爵の声は揺るぎない。

「お前にはその素質がある。そして、この家を守れるのはお前しかいない」

 アデルは息を呑み、目を伏せた。彼女の中でさまざまな感情が交錯する。

「でも、私にそんなことが……」

「アデル」

 父親は優しく、けれど力強い口調で続けた。

「私は父として、お前の幸せを願っている。だが、お前が何者であるべきか、どの道を歩むべきか、それを決められるのはお前だけだ」


 その後、アデルは自室で一人、父の言葉を思い返していた。

 父タリオンの提案は、あまりにも突飛なものだった。王国史の中で、爵位を継いだ女性は過去に三人しかいない。そして公爵位は常に、男性のものだった。

 しかしその提案に、アデルは久々に、自身の心音を聞いた気がした。

 アデルは鏡台の前に座った。鏡に映る自分の顔には、かつての輝きが失われている。


 ――私は、このままでいいのだろうか?


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが燃え上がるような感覚がした。かつて幼い頃に感じた、「自分ならやれる」という確信。それが朧げながらも蘇ってくる。

 彼女はメイドを呼び出し、化粧道具を用意させた。鏡に向かいながら、これまでの清楚な装いを捨て、真紅のリップを唇に引く。

「これでいい」

 鏡の中には、以前とは全く違う女性がいた。目元は鋭く、唇は力強い赤で彩られている。まるで大輪の薔薇のように咲き誇る美しさだった。


 八月末、カレスト公爵家は王都で開催される夏の会議に出席した。

 そこで公爵は、アデルを次期公爵として紹介した。会場は大きくざわついた。「娘が次期公爵?」「カレスト公爵はとち狂ったのか?」という声が広がる。

 しかしその嘲りにも怯まず、アデルは堂々と父の隣に立った。彼女の美しさと気品、そしてその内に秘めた決意は、次第に貴族たちの言葉を変えた。

「この空気の中で、動じていないだと……」

「未成年の女性でありながら、この堂々たる風格とは……」

 嘲りから、驚きへ。驚きから、感服へ。議場はアデルただ一人に、圧倒されつつあった。

 その中でアデルが宣誓した。

「私はカレスト公爵家の次期当主として、新しい未来を切り開いていく覚悟でございます。例えそれが、荊の道であったとしても」

 その言葉に、議場は静まり返った。

 誰もが理解していた。その荊の道は誇張なく険しいことを。

 誰もが想像してしまった。それでも尚、この娘が道を切り開いていく姿を。


 会場の王族席では、一人の青年がその様子を見つめていた。第三王子ラグナル・アヴェレートである。


 ――あの日の幼き才媛が、その華を咲かせたか。


 彼の瞳に映るアデルは、一人の女性としても、為政者としても輝いていた。

 ラグナルが目を細めると、アデルがふと彼に気づき、視線が交錯した。彼女の瞳には、幼い頃と変わらない、未来を見据える光が宿っている。

 ラグナルは微かに微笑みながら、未来の女性公爵の誕生を静かに歓迎した。


 アデル・カレスト。後の政治史・経済史・文化史にその名を刻む女。その栄光の道は、この瞬間から始まった。

ここまで閲覧いただきありがとうございました。

面白かったら評価・感想等をいただけると嬉しいです。

明日以降は第二章を更新します。

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