第二話:やがて希望となる涙
【ヴァルミールの姫エリオノーラ・フィーリスが決めたこと】
和らいできた日差しと涼風が、窓から秋の気配を運ぶ頃。
エリオノーラがメレディスのサロンに招かれた。サロンは温かく、上品な雰囲気が漂う。まるでサロンの主の人格を宿しているかのように。
エリオノーラが席に着くと、侍女がお茶を淹れ始める。エリオノーラもすっかり慣れ親しんだ、薬草茶の香りだった。
テーブルの上にお茶の準備がなされた。メレディスは侍女に、サロンの外で控えるよう伝えた。
メレディスとエリオノーラの二人きりになった。メレディスは微笑みかけた。
「エリオノーラ姫、この国に留学してみて、今日までいかがだったかしら?」
「はい、とても貴重な経験でした。自分の視野が広がったと感じますし、たくさん学びがございます。特に、文化や貴族社会の違いが面白いです」
メレディスは頷きながら、エリオノーラと雑談の花を咲かせる。
エリオノーラは話している間に、今飲んでいるこの薬草茶が、カレスト公爵領の名産品であることを思い出した。そして一度思い出してしまえば、口に出さずにはいられなかった。
「カレスト公爵はご立派な方です。女性でありながら、政治家としての立場に対する自覚も、責任感もおありで……ラグナル様を支えるのは、あのような女性でなければ務まらないと、思わされました」
エリオノーラの言葉に、メレディスは少し目を細めて微笑む。
「ふふ、アデルがそうなったのは、実は婚約破棄の経験があったからこそね」
その言葉に、エリオノーラは目を丸くした。
「婚約破棄……?」
エリオノーラは、アデルに対して理知的で冷静な印象しか持っていなかった。そんな過去があったとは想像もしていなかったのだ。
メレディスは声を潜めるように続けた。
「ええ。婚約破棄による失恋のせいで一ヶ月近く泣いていたらしいわ。でも父君の言葉で立ち直って、女公爵の道を選んだのだそうよ」
「カレスト公爵にそんな過去が……」
――あの気高く美しく、誰の目も惹きつけるような女性が、まさか失恋することがあるなんて。それ以上に、失恋なんかで泣くことがあるなんて。
エリオノーラが衝撃を受けていると、メレディスは更に言葉を続けた。
「実は私も、子どもの頃、実家の執事に恋をしたことがあったの。旦那には秘密だけどね」
その言葉に、エリオノーラは驚き、目を大きく見開いた。
「えっ、執事様に?」
思わず口をついて出た言葉に、メレディスは軽く微笑みながら、頷く。
「ええ。あの頃、私はまだ幼かったから、彼が私に優しくしてくれることが嬉しくて、純粋に慕っていたのよね。だけど、彼にとっては幼いお嬢様でしかないと気づいたときには、すっかり失恋してしまっていたわ」
エリオノーラは、興味津々で耳を傾けていた。メレディスは優しく語りかける。
「でも、失恋したおかげで、私は強くなれたの……今では国王を手玉に取ってるわ」
メレディスが冗談めかして言う。エリオノーラはつい目を丸くした後、メレディスと笑い合った。それは女同士の秘密の笑い声だった。
メレディスは少し間を置いて、穏やかに言葉を繋いだ。
「エリオノーラ姫。初恋は上手くいかなくて当然よ。失恋を知る女ほど、強く美しい生き物はいないわ。だから、失恋の苦味と痛みを味わい尽くしなさい。無理して笑ったり、聞き分けの良いふりをしなくて良いの」
その言葉は、エリオノーラの胸にじわじわと広がっていった。乾き切った大地に降ってきた雨のように。一度広がってしまえば、エリオノーラは目を背けることができなくなった。我慢しようとしていた痛み、苦しみ、悲しみ。
「あ……」
大粒の涙が、ぽろぽろと頬を伝って落ちる。そして言葉にならない嗚咽もまた、止められなかった。
涙に霞む視線の先で、メレディスがエリオノーラを見守っていた。抱擁するような目に、エリオノーラはますます泣きじゃくった。
エリオノーラは自分の涙と嗚咽の中で、新たに決意する。
――泣いて、泣いて、ちゃんとこの恋を終わらせよう。そしてラグナル様を祝福しよう。ヴァルミールにいた時ですら、祖国を思い続け、心を痛めていたラグナル様の幸せを、祝福しよう。
静かなサロンの中で、エリオノーラの啜り泣く声が響く。メレディスはその心を包むように、エリオノーラの側に寄り添った。
【王妃メレディス・アヴェレートが予感していたこと】
エリオノーラの涙は、しばらく止まることなく続いた。メレディスはその涙を見守り、何も言わずにその場を温かい気持ちで包み込んだ。
やがてエリオノーラの涙が収まると、彼女はハンカチで顔を拭いながら、震える声で言った。
「カレスト公爵に改めてお詫びしなくてはいけません。私は、ヴァルミールの姫として、相応しくない振る舞いをしました」
その言葉を聞いたメレディスは、少し驚き、そして笑みを浮かべた。
「アデルはそれを望んでいないでしょう。それに、姫という立場を考えるなら、尚のこと簡単に謝罪なんてしてはならないわ。それも他国の公爵ごときに」
メレディスの言葉に、エリオノーラは目を大きく見開いた。
「え、でも……」
「それが外交というものよ」
メレディスは断言した。その言葉に、エリオノーラは言葉を飲み込む。
「もしもアデルに思うことがあるなら……謝罪ではなく、愛を与えなさい。それが女の王族のやり方よ」
それを聞き、エリオノーラは真剣な表情で頷いた。
メレディスはふと、自分自身の言葉によって、過去のことを思い出した。
アデルからの信頼を獲得するために、寵愛を与えながら奮起していた頃。旦那であるアーサーに「いつか彼女の理解者が現れる」と話したことがあった。その予感は見事に的中した。
――あの時はまさか、それが自分の義弟だとは思ってなかったけども……。
しかしメレディスは知っている。二人とも孤高な戦いをし続けた者同士であることを。ラグナルはこの国のために苛烈な道を選んだ。アデルもまた、領地のため、女公爵という先人のいない道を選んだ。その道中で傷つきながらも、道の果てを目指した者にしか理解し合えない境地があるのだろう。それに気付いてしまえば、これ以上の組み合わせはないように思えた。
だから、メレディスは、エリオノーラの初恋を応援することはできなかった。ただせめて彼女の心に寄り添ってあげることを、当初から決めていた。
「メレディス様、私の恋を、ちゃんと失恋にさせてくださって、ありがとうございました」
エリオノーラは、泣き腫らした目で微笑む。
メレディスは目を細めた。エリオノーラが失恋の痛みを乗り越えようとしている。そのことが、メレディスにとっては何より嬉しかった。
その時、部屋の扉が軽くノックされ、ラグナルが入ってきた。日頃、メレディスがお茶会を開くと、たまに彼が挨拶しにくることがあった。
ラグナルはメレディスに挨拶をすると、穏やかな笑みを浮かべてエリオノーラにも声をかけた。
「お邪魔いたします、姫。お元気そうで何よりです」
ラグナルは、エリオノーラの泣き腫らした顔に気づいたようだった。しかし、彼はあえてそれを指摘しない。
エリオノーラもまた、先ほどまでの涙は気にしないかのように、穏やかな笑みを浮かべた。
「ラグナル様。言いそびれてましたが、カレスト公爵とのこと、おめでとうございます。ヴァルミールでもずっと祖国のことを思い、心を痛めている様子だったラグナル様が、こんなにもお幸せそうなお姿に、私も嬉しく思います」
完璧な淑女の会話を交わすエリオノーラの姿に、ラグナルは優しく微笑み、眩しげに目を細めた。
「ありがとうございます。姫も、すっかり大人になられましたね。昔から貴女を知る身としても、喜ばしい限りです」
その言葉に、エリオノーラは少し照れながら答える。
「ええ。いつまでも少女ではいられません。私はこの国で学びを深め、ヴァルミールに還元しなくてはなりません。ヴァルミールの王女として」
その宣言を、メレディスは微笑みながら見守った。エリオノーラの言葉には、確かな決意が込められている。
メレディスの子どもたちの時代になった頃、エリオノーラもまた活躍していることだろう。両国の未来が明るいものであること、そしてエリオノーラが今日という日を「甘酸っぱい思い出」として穏やかに思い出せるような未来であることを、メレディスはそっと祈った。




