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第一話:次代の胆力シンデレラは王子様に告白する

【お城の舞踏会】


 十六歳の少女がダンスを終える。その一礼の瞬間、既に紳士たちの関心と劣情の贄となった。


 王国歴一六〇年の節目となる建国記念日の祝宴。そのめでたい舞台で、セレーネ・ルーシェは一世一代の賭けに出た。ただしそれは背後に刃を突き立てられるまま、崖下へと飛び降りたようなもの。

 養父の命令に従い、王弟ラグナルに自らダンスを申し込むという、常識ではあり得ない行動だった。


「お疲れさまでした、セレーネ嬢」

 ラグナルとのダンスを終えた後、貴族男性たちがセレーネに声をかける。しかしセレーネは軽く会釈するのみだ。

 ラグナルとのダンスは、彼女の神経を極限まで張り詰めさせていた。手のひらには汗が滲んでいる。

 

 ――こんな無茶、二度とやりたくない……。


 セレーネの魂が摩耗する。しかし周囲は気づくこともなく、彼女を囲んだ。「なんて胆力のあるご令嬢だ」「まさに社交界の新星」と口々に囁かれる。セレーネは、実像を超えて噂が広がりゆく様に、膝が震えていた。

「先ほどのダンス、見事でした。ぜひ次のお相手として、私にその名誉を」

「お嬢様、この後お時間はございますか? 新作歌劇の話などいかがでしょう。あちらで、二人きりで」

 男たちが次から次へと手を差し伸べる。セレーネには、その手がサーベルに見えていた。

 セレーネは沈黙の微笑に留めた。それが却ってミステリアスな雰囲気を醸し出す。

 そんなやり取りをしばらく続けていたものの、パーティが進む内に限界を感じたセレーネは、その場を離れた。


 時同じ頃、王太子レオン・アヴェレートも人混みに揉まれていた。彼を取り囲むのは、高位貴族の令嬢たちだ。

「レオン殿下、今宵はどなたと踊られるのですか?」

「こんな華やかな夜に、殿下と踊れたら素敵な思い出になりますわね」

 令嬢たちが甘い声をかける。未来の王妃の座を夢見て。

 レオンはその端正な顔立ちに、穏やかな微笑みを浮かべた。

「いえ、皆さまの優雅な舞を見ているだけで幸せです」

 彼の紳士的な対応に、令嬢たちはさらにときめく。しかし、レオンにとってはこれが精一杯の防御策だ。


 ――そろそろ婚約を考えないといけないのは分かっている。でも、まだ僕にはどんな相手がパートナーにふさわしいのか見えていない……。


 レオンは父王アーサーより申しつけられていた。「次代王の伴侶は、自ら見つけ出せ」と。それは王太子として、最初の選択と責任の試練だった。

 今、レオンの目の前にいる令嬢たちを、彼は改めて観察する。どのご令嬢も、身分、美貌、教養を持ち、王妃候補として申し分ない――ただ、つい最近まで叔父の追っかけをしていた者たちばかりのような……と、レオンは首を若干傾げたが、その違和感は飲み込んだ、次代の王として。

 とにかく、将来有望な令嬢たちばかりだというのに、レオンは王妃として迎えるべき相手を、未だ思い描けていなかった。ゆえに、レオンも慎重になっていた。


 群がる令嬢たちに囲まれ続け、レオンの疲労が最高潮となった頃。彼は隙を見つけて、その場を抜け出した。

 

 宴会場の喧騒をよそに、廊下は静まり返っていた。その静寂の中、レオンは異変を感じ取る。角を曲がった先に、一人の令嬢が壁にもたれかかっていた。苦しそうに肩で息をしている。

「大丈夫ですか!」

 駆け寄ると、その令嬢は見たことのないほどの美しさを湛えた少女だった。黒檀色の髪と瞳を持ち、悲しげで儚い、ミステリアスな雰囲気を纏っている。

「……すみません……息が……」

 過呼吸になりかけていると察したレオンは、落ち着いた声で彼女を導いた。

「深呼吸です。ゆっくりと、僕の真似をしてください」

 その言葉に彼女は頷き、レオンの示す通りに呼吸を整え始めた。彼女は徐々に落ち着きを取り戻す。

 レオンは胸をなでおろす。そしてエスコートの手を伸べた。

「ここでは気が休まらないでしょう。休憩室に案内します」

 レオンの声かけに、彼女は顔を強張らせながらも、その手を取った。


 休憩室に着くと、レオンは部屋の扉を少し開けたまま、彼女を椅子に座らせた。

「ありがとうございます……」

 彼女の声は掠れていた。

「いえ、こんな場所で貴女が苦しんでいらっしゃったなんて……すみません、僕がもっと目を配っていれば防げたかもしれません」

 レオンは真摯に、誠実に、彼女を慮る。

「僕はレオン・アヴェレートです。あなたのお名前をお伺いしても?」

「セレーネ・ルーシェと申します……」

 そう名乗った彼女は、安堵の笑みを浮かべた。先ほどの苦しげな気配も、鳴りを潜めている。

 その笑顔が、レオンの胸に小さな印象を刻み込む。


「何があったのか、よければ教えていただけますか?」

 問いかけるレオンの真摯な瞳に、セレーネは迷いながらも、口にした。

「私は、元は男爵家の生まれなのですが、実家の領地経営が傾いて、ルーシェ公爵が資金投入してくれたのです。そのかわり、私はルーシェ公爵の養女となり……王弟殿下に近づくよう命じられたんです……」

 彼女の告白にレオンは言葉を失う。セレーネの語る姿が痛々しかった。

「私には過ぎた命ですが……それでも、ルーシェ公爵に借りがある以上、やらなければ……」

 課された重圧から逃げない彼女に、レオンは共感する。しかし同時に、違和感も覚える。


「その重圧に耐えることは、本当に貴女の信念なのですか?」

 レオンは誰よりも理解していることがある。それは、彼の父母や叔父のように、王国のために重圧に向き合う大人達のこと。彼らは自分たちの正義と信念、覚悟を胸に、戦っている。

 しかしセレーネは違った。ルーシェ公爵への負い目のままに、命をすり減らしているようだった。

 レオンの問いかけに、セレーネははっと目を見開いた。そして、堰を切ったように涙が頬を伝う。

「信念なんてありません……ただ、ルーシェ公爵の不興を買うことが怖かった……!」

 レオンはハンカチを差し出した。家族以外の女性の涙を見たのは初めてだった。「紳士の対応として間違ってないかな!?」と内心で慌てつつ、「この人の涙に寄り添いたい」という気持ちが、水面の泡のように生まれていた。

 レオンは、彼女が泣き止むまでそばにいた。


 セレーネの涙がやがて途切れた。先ほどまでの様子から一転し、穏やかな笑みを浮かべる。

「ありがとうございました、レオン殿下。おかげで落ち着きました」

 その声には感謝と安堵が混ざり合っていた。彼女の笑顔は儚げで、しかし芯の強さを秘めているように見える。レオンはその表情に、思わず見惚れた。


 ――この笑顔が、さっきまで泣いていた人と同じだなんて……。


 レオンの胸の奥に、温かく不思議な感情が芽生える。しかし、それはまだ水面に顔を出しては沈む葉のようなもの。レオンはその正体を掴めなかった。

「そうですか。それなら、よかったです」

 そう答える彼の声は、自然と優しさを帯びていた。


 ところで、レオンとセレーネは全く気付いていなかった。休憩室の外で、ラグナルが壁にもたれながら聞き耳を立てていたことを。

 ラグナルは、アデルとの痴話喧嘩を終えて休憩室を出ようとした直後、二人が隣の部屋に入るのを見つけたのだ。

「何があった?」

 ただならぬ様子の二人を見て、状況を伺うことにした。レオンの紳士的なマナーのおかげで、会話が外まで聞こえた。

 二人の会話が進むにつれ、ラグナルの顔に笑みが広がった。それは、普段の王国紳士然とした穏やかな笑顔ではない。策略家の本能を剥き出しにした、悪い、わるーい笑顔だった。


 ――アデルの怒りの原因を一つ減らせるかもしれないな。


 ラグナルはその場を離れた。その背中から不穏な気配すら漂っている。彼の頭の中では既に、いくつかの計画が形を成し始めていた。


【ときめきのダンス】


 後日。王城の広間では、またしても煌びやかな装飾と貴族たちの笑い声が満ちていた。

 今年の王城でのパーティは例年よりも多い。レオンの婚約者選定がその目的だ。

 この日のパーティに、アデル・カレスト公爵の姿はなかった。ラグナルとの痴話喧嘩後、本格的に拗ね、体調不良という名の社交拒否を始めた。

 ラグナルはアデルの屋敷を訪れても入れてもらえず、パーティでも会えない。彼の精神はジワジワと削られていたが、まだ正常な判断力は保っていた。


 広間にダンスの楽曲が流れ始める。ラグナルはすかさず、姪のマルガリータに声をかけた。アーサーの長女である彼女は今年十六歳。美貌と利発さを備えた、王国が誇る王女だ。

「マルガリータ、今宵のダンスをお願いできるかな?」

「あら叔父上、私をどなたかの代わりにするなんて。他の皆様は私とダンスしたくて、せっせと贈り物をお持ちになられるというのに」

 そう告げるマルガリータに、ラグナルは苦笑いを浮かべた。

「わかったマルガリータ。君に相応しい贈り物を用意しよう」

「流石ですわ、叔父上。エテルニタのジュエリーが良いですわね」

 最近マルガリータが懇意にしているジュエリー店だ。ラグナルは、「君にはかなわないな」と軽く頭を下げる。

 そんな王族同士のやり取りを、周囲の貴族も微笑ましく眺めるのだった。


 一方、セレーネはその光景に、焦燥と安堵を同時に抱いていた。今日もまた、養父にラグナルへの接近を言いつけられていた。その命を実行できないことへの焦りと、この前のような緊張を強いられずに済んだことへの束の間の安堵。

 セレーネは深呼吸をし、視線を遠くに移した。その先には令嬢に囲まれたレオンの姿があった。彼は穏やかに、令嬢たちと交流している。遠目に見てもわかる、温かな空間。

 セレーネは、先日の一件が頭を過ぎる。あのレオンとの優しい時間を、帰宅してから何度も思い返した。セレーネにとっては宝石のような出来事。

 しかしレオンにとっては日常の一幕に過ぎなかったのだろうか――彼の平等な優しさに、セレーネの胸が痛む。

 そんなセレーネのもとに、ダンスを終えたラグナルが近づいてきた。

「セレーネ嬢、次は私と踊りませんか?」

 突然の誘いに驚いたものの、セレーネは即座に礼儀正しく応じた。

「喜んでお相手させていただきます」


 ラグナルのエスコートで、二人は優雅に舞い始める。ラグナルの手のひらがセレーネの手を軽やかに導き、その動きは人目を引くほど洗練されていた。

 ダンスの途中、ラグナルが微かに口を開く。

「セレーネ嬢、レオン殿下とのお茶会にご興味は?」

 その低い声に、セレーネは思わず動きを止めかけた。まるで自分の心を見透かすような誘いに、セレーネは心臓が一際脈打った。しかしセレーネは赤面しながら、迷いなく頷く。

「……ぜひ」


 その仕草に、ラグナルは内心で頭を抱えた。

 

 ――誤解されるじゃないか! ポーカーフェイスの訓練が足りていないな……。


 広間のあちこちで二人を見ていた貴族たちはざわついていた。「ラグナル殿下が口説いているのでは?」という憶測が瞬く間に広がり始める。ラグナルはこの噂が、アデルの耳に入らないことを心から……心から! 神に祈っていた。

 

 ダンスを終えたセレーネは、広間の一角で休憩を入れる。頬にほんのりと残る赤みが、ダンス中の熱気を物語っている。

 そのとき、不意に声をかけられた。

「セレーネ嬢、お元気そうですね」

 振り向くと、そこにはレオンが立っていた。茶髪、黒目に、人々を安心させるような微笑み。

 セレーネは驚きと期待、そして「そんなわけない」という冷静さが心に押し寄せる。

「レオン殿下……」

 セレーネが戸惑い気味に名を呼ぶと、レオンは穏やかに続けた。

「あのときのことが気になっていました。ですが、元気そうなあなたを見て、安心しました」

 彼の言葉はまっすぐで、どこまでも優しい。セレーネの胸に温かさが広がり、それは次第に甘いときめきへと変わる。

「ありがとうございます。あの日も含めて、心から感謝しています」

 セレーネは小さく微笑んで答えた。ほんのりとした赤みを頬に携えながら。

「もしよろしければ、一曲踊っていただけますか?」

 レオンがそう言って手を差し出した。彼の声には、気遣いとともに、少しだけ勇気を振り絞ったような響きがあった。

 セレーネは迷いなくその手を取った。

「はい、喜んで」

 そう答えると、レオンの顔に安心した笑みが広がった。


 舞台の中心で、二人は音楽に合わせて踊り始めた。レオンの手のぬくもりと、彼の落ち着いたリードに、セレーネは自然と身を委ねられた。それはラグナルとは全く違うものだった。

 

 ――どうしてかしら。彼とダンスをしていると、まるで心が繋がるような感覚になる……。


 セレーネは胸の内は、会場の灯火を映し出す鏡のように、煌めいていた。


「ルーシェ公爵令嬢、ラグナル殿下に続いてレオン殿下とも踊られているわ」

「王家がルーシェ公爵家と近づこうとしているということか」

 周囲の貴族たちが囁きを始めた。

 レオンが立太子してから、初めてのダンスのお相手。それは本来なら、王太子妃候補として最も注目される一手。

 しかしセレーネだけは例外だった。

 彼女は今、表向きにはラグナルへのアプローチをしている。そのため、レオンが彼女と踊っても、「王家がセレーネに目をかけている」以上の意味には取られにくい。

 更に、セレーネを最初のダンスの相手に据えたことで、レオンが今後他の令嬢と踊ったとしても「次期王妃の本命」とは見なされにくい。

 政治的に最も波風を立てず、穏当な空気を作る技。それはレオンが生まれ持った天賦の才だった。

 なお、当の本人はといえば……「セレーネ嬢の人となりをもっと知りたいなぁ」と思っただけなのだが……しばしば身内の策略家すら唸らせる一手を打つのだから、才能とは恐ろしい。


 ダンスが終わり、二人はお互いに軽く礼を交わす。

「素晴らしいダンスでした、セレーネ嬢」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 二人の間に交わされた言葉は、周囲のざわめきとは別の世界に存在するようだった。


【秘密のひととき】


 パーティの翌朝。

 セレーネのもとに届いたのは、ラグナルからの手紙だった。

『レオン王太子殿下とのお茶会へご招待いたします。内容はご内密に。封筒だけを父君にお見せください』


 セレーネは指示通り、ルーシェ公爵に封筒のみを差し出した。封蝋には、王弟ラグナルの個人印――繊細な竜の紋様が刻まれていた。それを見たルーシェ公爵は、まるで宝物のように封筒を受け取り、満足げに頷いた。

「王弟殿下から直々のご招待とは。セレーネ、お前は本当に私の誇りだよ。さあ、存分に行ってくるがいい!」

 喜び勇むルーシェ公爵は、「王弟殿下とのお茶会」と勘違いしているようだった。しかしセレーネはそれを訂正せず、素直に頷いた。


 翌日、セレーネは王城へと向かった。期待と緊張が入り混じる中、指定された部屋の扉を開ける。

 部屋の中には誰もいない。

「……あれ?」

 確かに時間通りに到着したはずなのに、そこにお茶会の賑わいはなかった。用意された椅子やテーブルだけが、置き去りにされたように並んでいる。

 セレーネが立ち尽くしていると、足音が近づいてきた。レオンだった。彼は申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「セレーネ嬢、申し訳ありません。叔父上が貴女に時間を間違えて案内したようです。皆さんはもう帰られた後でした」

 その言葉に、セレーネの心は大きく揺れた。

「そう……ですか……」

「ですが、もしお嫌でなければ、私と二人でお茶を楽しんでいただけませんか? 叔父上の不手際のお詫びとして」

 レオンの申し出に、セレーネは喜びに目を見開いた。彼の配慮に満ちた態度に触れるたび、彼女は惹かれていく。

「ぜひ、ご一緒させていただきます」

 セレーネが微笑むと、レオンもまた微笑みながらテーブルへ案内した。


 窓から差し込む陽光が、テーブルに並んだティーセットを輝かせる。薬草茶の香りが漂い、自然と会話が始まった。

「セレーネ嬢は、普段どのようにお過ごしですか?」

「礼儀作法の稽古が多いですが、その合間に中庭の植物を観察をするのが好きで」

「ルーシェ公爵家の中庭は素晴らしいと聞いております。どのような植物の観察をされているのですか?」

 今、ルーシェ公爵邸中庭に咲くのは、ダリア、黒薔薇、カラドンナ。その危険な魅力を放つ花々は、セレーネの心を留めなかった。


「苔なんです」


 セレーネは何の臆面もなく言った。そのもの珍しい答えに、レオンは――目をキラキラとさせた。

「わかります。僕も苔、好きです」

「まあ!」

 二人は破顔し合う。同士を見つけた、と。

「苔、素敵ですよね。静かに生えていて、健気で、他の植物と調和するのが好きなんです」

「そうそう。あの控えめなところが実に良い。だけど雨の翌日になると元気なんですよ。触ると、ふわふわしてて」

 レオンの言葉に、セレーネは小さく首を傾げた。

「苔を触られるんですか?」

「はい。いけませんでしたか?」

「私はいつも、目で見るだけだったので。なんだか、すごく距離が近いなと思って……」

 セレーネの指摘に、レオンは顎に手を添えて考え込んだ。

「なるほど……たしかに、少し馴れ馴れしかったかもしれませんね。謝っておきます」

「苔に?」

「はい。次に会ったとき、謝っておきます」

「……ふふっ」 

 二人の話題はさておき――会話のテンポは穏やかで、言葉の一つひとつが自然だった。レオンの実直な人柄と、セレーネの落ち着きが、心地よいリズムを生み出していた。


 お茶会の終わりが近づいた頃、セレーネは名残惜しそうにカップを置いた。レオンもまた、彼女との時間を惜しむような表情を浮かべていた。

「本日はお招きいただき、ありがとうございました。とても素敵な時間を過ごせました」

「こちらこそ、セレーネ嬢とお話しできて楽しかったです。また、ぜひご一緒させていただきたいです」

 二人は微笑みを交わし、別れを惜しみつつお茶会を終えた。

 

 セレーネの帰宅後も、レオンはしばらく考えていた。彼女の笑顔と言葉が、心から離れない。


 ――それにしても、あの叔父上が時間を間違えるなんて、珍しいこともあるものだ。いつも完璧な人なのに……。


 しかしそのおかげで温かく有意義な時間を過ごせたことに、レオンは感謝の念を抱いていた。


【突然の停止命令】


 ある日の朝。セレーネは、ルーシェ公爵の書斎に呼び出された。

「セレーネ、お前に新たな指示だ」

 その鋭い声に、セレーネは自然と背筋を伸ばした。

「これまで王弟殿下との接触を命じてきたが、今後はその任を外れるように」

 セレーネは一瞬、耳を疑った。これまで公爵の命に従い、どれほど神経をすり減らしながら社交に臨んできたことか。それが突然「やめろ」という。

「かしこまりました。ですが、理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 おそるおそる尋ねると、公爵は一瞬だけ目を細めたが、すぐに視線を逸らした。

「お前が理由を知る必要はない」

 その冷淡な返答に、セレーネは言葉を失った。セレーネの内に湧く、理不尽への怒り、無力感、そして安堵。


 ――もう、王弟殿下に近づかなくてもいい。


 その事実が、彼女の重荷をいくつか軽くしてくれる。

 あの鋭い目、並外れた存在感、何を考えているのか分からない微笑み――王弟ラグナルは圧倒的な人物であり、彼の近くにいるだけでセレーネは消耗する。

 同時に、セレーネの頭に浮かんだのは、穏やかで温かい笑顔だった。


 ――レオン殿下。


 初対面のこと、パーティでのダンス、お茶会。レオンとの交流が増える度、セレーネの心が花開く。


 ルーシェ公爵は机の上の書類に視線を落とした。その仕草を見たセレーネは軽く一礼し、部屋を出た。

 廊下を歩く彼女の足取りは軽やかだった。まるでここから、新しい未来に向かい始めたかのように。


【王家の日常】


「アデルと結婚するので、ご祝儀がわりに北部の薬草茶と南部産ワインの関税免除を認めてほしい」と、突拍子もないことを兄王に伝えたことで、王家内でラグナルとアデルの関係がめでたく認知された。

 ちなみにこの時、ラグナルはまだアデルにプロポーズさえしていなかった。しかし彼の中では確定事項だった。


 夏の真っ白な日差しの午後。

 ラグナルは姪マルガリータとの約束を果たすべく、王家御用達のジュエリー店を訪れた。店内には華やかで繊細なジュエリーが並ぶ。

「叔父上、あれがいいですわ」

 マルガリータは目を輝かせながら、展示台を指差した。その先には、豪華なルビーが嵌め込まれたブローチが鎮座している。

「さすがマルガリータだ、選ぶものが一級品ばかりだ」

「当然ですわ。では、あちらのネックレスも追加で!」

「欲張りだな」

 そう言いながらも、ラグナルは店主に品物を手配するように指示を出した。

 姪の買い物を見届けながら、ラグナルの視線はふと別の展示台に移った。そこに飾られていたのは、シンプルながら美しい輝きを放つ、クリスタルの髪飾り。それが彼の中で妙な引っ掛かりを生んだ。

「これを追加で」

「叔父上、そちらも買われるのですか?」

 マルガリータが不思議そうに尋ねる。ラグナルはふっと微笑んだ。

「少し面白い予感がしてね。今後の役に立つかもしれない」

 マルガリータは意味を理解しかね、「一体叔父上には何が見えてるのやら」と肩をすくめた。


 購入した品々を包んでもらった後、ラグナルは特注品の注文書を店主に手渡した。それは細部まで徹底して吟味された注文内容。目にした店主も、「これは一筋縄では行かない」と緊張した表情を見せた。

 側で見ていたマルガリータが呟く。

「重すぎる……あの方の困惑顔が浮かぶようだわ」

 その言葉に、ラグナルは思わず苦笑いした。

「彼女にはこの程度では足りないさ」

 ラグナルは楽しげに答える。その目に深い愛情を宿して。


 その日の夜、ラグナルの書斎には上品な酒の香りが漂っていた。

 琥珀色のワインが、陶器の杯に注がれている。ラグナルの向かいに座るのはレオンだった。

「なぜ、叔父上はカレスト公爵を選ばれたのですか?」

 レオンが問いかけたのは、酔いが回り始めた頃だった。ラグナルは一瞬だけ目を細め、杯を揺らした。

「理由なんてあってないようなものだ。次代の後継者争いの心配がないとか、彼女の知性に惹かれたとか、それらしいことはいくらでも言える。ただ……」

 ラグナルは言葉を切り、杯をテーブルに置いた。その表情はいつになく真剣だった。

「どんな言葉よりも、彼女を心から愛しているという事実が先に来る」

 その率直な答えに、レオンは驚きを隠せなかった。普段の王国紳士然とした叔父からは想像もつかない情熱的な一面だった。

「わぁ……かっけー……」

 レオンの無防備な若者言葉に、ラグナルは思わず吹き出した。

「レオン。君もいつか、頭で考えるより先に心が動く相手が現れる。そして将来の王としての責務に誠実であれば、その心の動きに間違いはない。安心しなさい」

 その言葉に励まされ、レオンは自然と微笑んだ。彼の心にはセレーネの姿が浮かんでいた。


 ふと、ラグナルは机の引き出しから小箱を取り出した。

「これを君に贈ろう」

「それは?」

「魔法の髪飾りだよ。心が動いた相手に渡しなさい。その相手を一夜にして物語の主人公にしてくれる髪飾りさ」

 ラグナルの言葉には、いつもの茶目っ気が漂っている。

 レオンは箱の中の髪飾りを、しげしげと眺めた。

「どういうことだろう?」

 そう言いながらも、レオンはラグナルの言葉を信じることにした。


【新たな政略】


 ルーシェ公爵邸の一室で、セレーネが座っていた。彼女の視線の先には、書類の山を前にしたルーシェ公爵の姿があった。

「この男も条件が良いな」

 ルーシェ公爵の手に握られていたのは、ある男性貴族のプロフィールだ。

 セレーネは密かにため息をつく。

 ルーシェ公爵が検討しているのは、セレーネの新たな見合い相手。いずれも四十代以上の男性で、経済的にも政治的にも安定した地位にある者ばかり。しかし全員、各者各様の理由で再婚を検討している。

 セレーネは顔を暗くする。

 そんなセレーネの内心を、ルーシェ公爵は気にも留めない。彼は、次々と見合い相手のリストを精査している。その姿に、彼の近視眼的な思考が透けて見えるようだ。

 短期的な利益を重視するあまり、無謀な選択を厭わない――それがルーシェ公爵の最大の欠点であり、セレーネにとっての悩みの種でもあった。


 目の前の鬱屈とした現実から逃れるかのように、セレーネは思考を切り替えた。レオンの穏やかな微笑みと、真摯な眼差しが記憶の中で鮮明に蘇る。


 ――レオン様に会いたい。でも、どうすれば……?


 今のセレーネは公爵家令嬢。上から数えた方が早い身分だ。それでも王太子を気軽に誘うことなどできない。王家と貴族の間には深い溝がある。

 ルーシェ公爵に事情を話して味方につける、という手も考えてはみた。しかしあの見合い候補を見る限り、「未来の王妃」という長期的な価値を、ルーシェ公爵が認めるか疑わしかった。

 もう一つセレーネが気にすることがあった。最近までラグナルに迫っていた自分が、突然レオンに接近した場合、社交界では冷ややかに見られるのではないかと。


 ――次の王城でのパーティ……あれは良い機会かもしれない。


 セレーネは目を閉じ、深呼吸をした。レオンへの想いが募るごとに、養父の操り人形となる運命を変えたい気持ちもまた、色濃くなっていく。


 尚、セレーネは自覚していなかった。つい最近まで男爵令嬢だった者が、ここまで高位貴族の社会を把握し、立ち回りを思い巡らせられること。それ自体が恐るべき資質だということを。


【満月の約束】


 朝、王城の執務室。レオンのもとに、一通の手紙が届く。


 ――セレーネ嬢からか……。


 レオンは即座に封を切る。

 流麗な筆跡で、お茶会のお礼が丁寧に綴られている。最後の一文に、レオンはしばし目を留めた。

「次の舞踏会は、満月の夜に開かれるのですね。中庭の花々が月明かりに照らされる風景は、さぞ幻想的なことでしょう。私は、そうした自然の静けさに心惹かれます」

 レオンはその詩的な一節に感心し、穏やかな笑みを浮かべた。彼女の知性と感性に、心動かされる。

 そしてすぐにペンを手に取る。彼もまた暗喩を交えた一文を添えた。

「満月の夜の中庭は特別な魅力があります。特に、踊りの一曲目が終わった頃には、月明かりもいっそう鮮やかに映えるかもしれません。もしお時間があれば、ぜひご覧いただきたい景色です」

 

 七月の満月の夜。

 舞踏会は、王城の広間を華やかに彩っていた。音楽と笑い声が広がる中、セレーネは広間の片隅で喧騒から逃れるように佇んでいた。

 一曲目が終わると、彼女はそっと扇子を閉じ、中庭へと向かった。月明かりに照らされた石畳が輝き、夜風が心地よく頬を撫でる。

「お待たせしました、セレーネ嬢」

 振り返ると、そこにはレオンが立っていた。穏やかな笑顔を浮かべながら、彼女に歩み寄る。

「殿下……!」

 セレーネの顔がぱっと輝き、その黒檀色の瞳が驚きと喜びを映し出す。

「満月の中庭での景色、美しいですよね。……この静けさを貴女と共有できることが、嬉しいです」

 レオンの言葉に、セレーネの心が浮揚する。それは胸の鼓動へと変わりゆく。

「殿下、私も同じ気持ちです」

 レオンの微笑みが、月明かりに縁取られた。セレーネは経験したことのない感覚に包まれた。まるで、自分たちだけが絵画の中にいるような。

 夏の夜風が、木々や花々を揺らした。

「少し、真面目な話をさせてもらっても良いでしょうか」

 レオンが切り出した。その言葉に、セレーネは否応なく期待で高揚する。しかしそれは小さく裏切られることになる。

「今僕たちの間にある平和と安寧の気持ち……この気持ちを、国民の誰もが当たり前に享受できる。明日もまたこの平和と安寧が続くのだと、誰もが信じられる。そんな国にしたいと思っています」

 レオンが穏やかに語り始めた。セレーネは面食らった。もう少しロマンチックな話かと思っていた。

 しかし、それ故に、その語りに耳を傾けた。レオンが真面目に語るなら、自分も誠実でありたい、と。

「今、王家は行政機能再編と国土開発、経済発展を進めています。僕が王位を継ぐ頃には、それらの課題は解決されているでしょう。物理的に豊かになった社会で、僕の時代の役目は、国民生活の成熟と安定をもたらすことだと考えています。医療、教育、福祉――安全な国土の中で、人々が安心して暮らせる『安寧国家』を目指したい」

 最近まで男爵令嬢だったセレーネにとって、王政の論理を聞くのは初めてだった。その彼女のペースに合わせるように、レオンは少しの間を置いてから、もう一度口を開いた。

「そしてその世界の中で、貴女には笑顔であって欲しい。もう理不尽に耐え忍んで泣くことのないように」

 この王国全体さえも包まんとする、偉大な優しさ。その世界で、幸せに笑っている自分の姿。セレーネの心が、そんな未来を軽やかに描いた。

 彼が目指す政策の全てを、セレーネが理解したわけではない。しかし直観できた。この方は、その優しさで民を安んじ、必ずや数多くの幸せをもたらすだろう、と。

 数十年後には実現される未来に、セレーネは彼の隣で歩む自分を望んだ。

「私も、貴方が作る世界を見たい。そして私もその世界の中でお役に立ちたい。その時の私はきっと、心に一点の曇りなく、笑顔でいるはずです」


 ――彼の隣で、彼を支えるための重圧なら、喜んで受けて立とう。


 セレーネは微笑む。次代の王への敬意と慈愛を込めて。その様に、レオンの声がもう一段、穏やかになる。

「セレーネ嬢、貴女と話す時間は本当に心が落ち着きます。初めてなんです、その……会話を終わらせるのが、名残惜しいと思うことが」

 レオンの言葉の末尾が、空気に溶け出すようだった。セレーネの頬がほのかに赤く染まる。

「私も同じ気持ちです……次お会いできたら何話そうかな、って、いつも考えてしまって」

 セレーネのその言葉を聞き、レオンはしばらく硬直した。そして顔を赤らめながら、咳払いする。

 レオンはそっと内ポケットから小さな包みを取り出した。それを開けると、月光を反射してきらめくクリスタルの髪飾りが現れた。

 その輝きに、セレーネも思わず息を呑んだ。

「これは、叔父上からいただいたものです。『魔法の髪飾りだ』と教えてもらいました。一夜で主役になれる髪飾りとか……」

 レオンの言葉に、セレーネは思わずくすりと笑った。

「なあにそれ……王弟殿下らしくない、不思議なお話ですね」

「叔父上の冗談かもしれませんね。でもそんな魔法があるなら、僕は貴女に受け取って欲しい」

 セレーネは髪飾りをそっと手に取った。

「ありがとうございます。大切にします。主役になれるかはわかりませんが……でも、レオン殿下が私に贈ってくださった気持ちに、相応しくありたいと思います」

 セレーネの感謝の言葉に、レオンは小さく微笑みを返した。満月の下、二人の間には、絆が確かに生まれていた。


【乗り越えるべき相手】


 ルーシェ公爵邸の応接室には重い空気が漂っていた。

 セレーネの前に座るのは、養父であるルーシェ公爵。

「セレーネ、次の見合い相手が決まった。東部のザルムート公爵の弟だ」

 淡々とした声が部屋に響く。

 その男は現役政治家として名を馳せている人物。王族ではないが、地位と影響力は極めて高い。それゆえ、ルーシェ公爵の目に留まるのも無理はなかった。

「彼は既に婚姻を経験しており、妻を亡くしている。だがその経験を活かして家庭を支える力もあるだろう」

 セレーネは、意を決した。ルーシェ公爵を真正面から見据えた。いや、睨みつけた。

「私は、その方との縁談をお受けするつもりはありません」

「なに?」

 ルーシェ公爵の目が鋭く細まる。

「私は既に、レオン殿下と良い関係を築いております。将来の王妃となること以上に、政略的価値を持つ婚姻が他にありますか?」

 公爵の顔に驚きの色が浮かぶ。数瞬の沈黙の後、彼は低い声で問い返した。

「嘘をつけ。一体何の証拠がある?」

 セレーネは、一瞬答えに詰まった。これまでレオンと交わした手紙は、一見すると形式的で礼儀正しいもの。彼との特別な関係を証明するものではない。

 セレーネはクリスタルの髪飾りを外した。彼女の黒檀色の髪が流れるように落ちる。

 髪飾りを手のひらに乗せ、そっと公爵の前に差し出す。

「レオン殿下から直接いただいたものです。そのメッセージを読み違えれば、王家に対して恥をかかせることになりませんか?」

 どれだけ説得力があるか、信じてもらえるか、セレーネも自信はなかった。しかしそれを、虚勢と勢い、そして社交の論理で繕った。

 公爵はその輝きを前にして瞠目する。

「こ、これは……! まさか、王家がそこまで本気とは」

 彼はわかりやすく狼狽した。その後、公爵は大きく息を吐き、セレーネに目を向けた。

「よし、分かった。ならばお前に課す使命は一つだ――確実に王妃の座を掴み取れ。そのために必要な援助は惜しまない」

 想像以上にあっさりとした決着に、セレーネは一瞬呆気に取られた。しかしほっと胸を撫で下ろした。

「ありがとうございます。必ず、ご期待に応えてみせます」

 そう答えると、公爵は満足げに頷いた。


 その夜、セレーネは自室で窓の外を見つめながら決意を固めた。

 

 ――次の王城の舞踏会で、すべてを決める。


【王子様を迎えに行くシンデレラ】


 王城の大広間は前代未聞の熱気に包まれていた。その日の舞踏会は、歴史に刻まれるような特別な夜だった。

 広間の中心で、王弟ラグナルがカレスト公爵への愛を宣言した。彼女もそれに応えた瞬間、場内は歓声で満たされた。

 その光景を、セレーネは見守っていた。彼女の瞳は、その二人の絆の強さに惹きつけられ、自然と微笑みが浮かぶ。


 ――素敵……。あの方たちのように、自分の想いをまっすぐに伝えられたら……。


 そんな願いが心の中に芽生える。そして、セレーネは行動を開始した。

 周囲の視線が二人の告白に集中している間に、セレーネはレオンの元へと駆け寄った。

「セレーネ嬢?」

「レオン殿下。少し、外の空気を吸いませんか?」

 セレーネの提案に、レオンは一瞬戸惑いを見せた。しかし彼女の真剣な表情を見て、共に広間を抜け出した。

 月明かりが石畳を照らし、夜風が心地よく吹き抜けている。広間とはまるで別世界。

 レオンが何かを口にしようとした。しかしそれよりも先に、セレーネが告げた。


「レオン殿下、お慕いしております。私の心は、既に貴方のもとにあります」


 セレーネの真正面からの愛の告白。いや、宣誓。そこには、気後れも、恥じらいも、一切なかった。彼の愛と二人の未来を決めに来た女の、純粋な覚悟。

 レオンは目を見開き、数秒間固まった。

「まさか……僕のセリフを取られるとは思いませんでした」

 レオンの顔は真っ赤だった。しかし優しい月明かりが、それを隠した。

「僕はずっと、理想の王妃像を探していました。でも、貴女と出会って……初めて、探すものではなく心で感じるものだと気づいたんです。貴女はともに未来を分かち合える人。僕はこれからの未来を、あなたと共に歩んでいきたい」

「レオン殿下……」

 月明かりが二人を照らし出す。中庭の片隅で、彼らの運命が新たに交差した。


【王家の決断】


 翌日の夜、王城の一室で、国王アーサーと王弟ラグナルが向かい合っていた。手元にはワインが注がれた杯が並ぶ。

「レオンが、婚約を望む相手がいると言ってきてな」

「それはおめでたいことですね」

 ラグナルは一見何も知らない風を装う。

「相手はセレーネ・ルーシェ。南部のルーシェ公爵家の養女だが、もともとは男爵家の出だ」

「なるほど」

 アーサーが杯の中のワインを見つめた。回され、表面が揺れる。

「レオンには、成人した王族として選択を委ねるつもりだ。ただ、いささか懸念が残るのも事実だ。彼女が男爵家の出身という点もそうだが、その責務を果たすだけの資質を備えているのか……」

「兄上」

 ラグナルは穏やかに口を開いた。

「王妃に必要な礼儀作法や教養は、これから教育することができます。しかし、胆力だけは後天的に身につけられるものではありません。そして、その点において、あの世代の令嬢の中で、彼女以上の者はいないでしょう」

「ほう、そこまで言い切れる理由は?」

 アーサーは驚きと興味を込めて弟に問う。ラグナルは不敵に笑う。

「簡単なことです。何せ、私をダンスに自ら誘える女性ですから」

 アーサーは一瞬ぽかんとした表情を見せたが、すぐにその意味を理解し、微笑んだ。

「建国記念日のときか。確かにあれには度肝を抜かれたが……」

「はい。その一歩を踏み出す勇気と、状況を見極める聡明さは、王妃の資質として十分です」

 アーサーはしばらく黙り込んだ。ラグナルはその様子を窺い、更に付け加える。

「それに、レオン殿下と彼女の婚約がなされれば、兄上が頭を悩ませていた南北特定商品関税無税の東西地域への説明の件も、ダブルご祝儀としてより説得力が高まりますよ」

 追い討ちでラグナルが冗談めかして言うと、アーサーは呆れながら笑った。

「分かった。息子の選択を信じるとしよう」

 アーサーは杯の中のワインを飲み干した。

「良い決断だと思いますよ、兄上」

 ラグナルは微笑み、再び杯を傾けた。


【次世代を牽引する者たち】


「この国の千年先の未来を紡ぐため、私は人生の伴侶とする女性を決めました。その女性とは――セレーネ・ルーシェ公爵令嬢」

 八月上旬の舞踏会での、電撃発表。王太子レオン自らが、婚約者の宣言を行なった。

 その発表に会場はどよめく。暗い囁きと共に。

「レオン殿下の婚約者がセレーネ嬢だなんて! どうして?」

「ラグナル殿下を誘っていたって話じゃなかったか? 節操がないと言われても仕方がない」

 広間のあちこちで、セレーネの批評や憶測が飛び交う。

 そこに、レオンが続けた。

「彼女は、私が目指す『安寧国家』の理念を、誠実に受け入れ、役立ちたいと言ってくれた。私は確信しています。次代の王妃として、彼女がこの国に安らぎをもたらすことを」

 レオンの確固たる宣言。それは貴族たちを黙らせた。レオンが公に、これだけ明確な意志表明をしたのは初めてだ。

「おいで、セレーネ」

 レオンの優しい誘いに、セレーネも壇上へと向かう。まっすぐに彼を見つめ、迷いなく歩み出す。その堂々とした姿に、思わず貴族たちも目を奪われる。

 そこにいるのは、儚く妖艶な彼女ではなかった。静謐の中に覚悟を決めた、王国を背負いし者の風格。未熟ながらも、それが彼女に宿りつつあった。

 彼女が歩く度、クリスタルの髪飾りが光をこぼすようだった。そしてそれに気づいたのは、ある高齢の貴族夫人。

「あれは……まさか……!」

 セレーネが壇上に上がり、レオンの隣に立つ。すると、貴族たちの目は確信に変わった。

「そうよ! あの逸話の再来だわ!」

 貴族夫人の興奮が、空気を変えた。

「前王ノイアス陛下がお若い頃のことよ。王国に訪れていたオクタヴィア様が、舞踏会で落としたクリスタルの髪飾りを拾い……それを、隣国ヴァルミールまで自ら届けたの!」

「それだけではなくてよ。そのまま婚約が成立して、オクタヴィア様を連れて帰国した……愛の逸話として国内中が沸いたのよ!」

 一定年齢以上の貴族の間では、王家のロマンスとして誰もが知る話。国境を超えた愛の物語は、当時の若い貴族たちを熱狂させた。社会現象、社会問題を引き起こすほどに。

「ノイアス陛下がヴァルミールからオクタヴィア様を連れ帰ったように、レオン殿下がラグナル殿下からセレーネ嬢を連れ去ったのかしら」

「セレーネ嬢の行動は、ルーシェ公爵の差金なのは明らかだったわ。そんな悲しい運命から、レオン殿下が救い出してくれたのでしょうね」

「まだあの騒動から一ヶ月だというのに、セレーネ嬢の凛とした姿。目を見張るような成長ですわ。まるで若かりし頃のオクタヴィア様のよう」

 女性たちを中心に、広間はその話題一色に染まっていった。セレーネへ向けられる視線は温かいものへと変わっていく。まるでサクセスストーリーの主人公のように。


「そんなお話があったなんて……」

 セレーネが驚きと共に呟く。レオンは、周囲の反応を見ながら眉を少しだけ上げた。

「叔父上の狙いはこれだったのか。さすがだな、恐ろしいくらいに」

 その声には、叔父であるラグナルへの深い敬意と、軽い恐れが混ざっていた。


 その後、壇上から降りたセレーネとレオンのもとに、ラグナルとアデルが歩み寄ってきた。

「ご婚約、おめでとうございます」

 ラグナルが祝意を述べると、アデルも続いて言葉を紡ぐ。

 セレーネはアデルに向き直った。

「カレスト公爵……これまでのことで、ご迷惑を……」

 セレーネが慎重に言葉を選びながら謝罪を口にしようとした。しかしアデルは視線を遠くの喧騒へと向け、言葉を重ねた。

「この会場を見ていると、興味深いですわね」

 アデルは穏やかな口調で話し始めた。

「誰もが思惑を隠してホールに立っている。でも、滑らかなステップの下でどれだけ足を踏まれても、微笑みを崩さないのが貴族というもの」

 心地よいほどの声音にも関わらず、セレーネは思わず姿勢を正す。

「そして本当に重要なのは、どれだけ踏みつけにされても、己の立つ場所を揺るがせないこと。自らその場所を壊そうとするなどもってのほか。そう思いませんこと?」

 アデルは軽く首を傾げて微笑む。その黒い目はセレーネを捉え、決して直接的な非難を含まない。

 セレーネはアデルの言葉の意味を悟り、一礼する。

「……勉強になります」

「あら、ただの雑談ですわ。お勉強だなんて、そんなつもりはありませんのに」

 アデルは扇子を広げながら笑った。無邪気さすらあった。

「でも、もし何か得るものがあったなら、貴女が賢いからでしょうね。吸収力が高いのは素晴らしいことですわ。これからも、たくさん学んでいってくださいな」

 アデルは涼しげな声でそう言うと、セレーネの側を軽やかに通り抜けた。その背中は、どこまでも気高い。セレーネは自然と恍惚のため息をついた。

 ラグナルとアデルはそのまま人波の中に消えた。


 セレーネとレオンは二人を見送り、次に互いの顔を見合わせた。

「君なら大丈夫。それに、君が覚悟を示してくれたからには、僕もそれに相応しい覚悟で応えたい。この国と共に、君を幸せにしてみせる」

 レオンが優しく微笑みながら囁いた。

「私の幸せは、殿下が作る王国の未来を、隣でお支えすること。そのためにも、私は笑顔であり続けます」

 セレーネもまた、微笑みを返した。


 こうして、次代を担う二人は、新たな一歩を踏み出していく。

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