第十話:愛しいあの子に両手で抱えられないほどのクッキーを
【貴族たちの瀟酒な噂話】
王都の噂は、日々形を変える。
「セレーネ・ルーシェがラグナル殿下へのアプローチをやめた」
セレーネに失恋の影が差したと、囁かれ始めた。
一方、エリオノーラは、控えめながら着実にラグナルとの距離を縮めているとの評判だ。
「ラグナル殿下は実利よりも夢幻がお好きなのか」
「もしくはぽっと出の者よりも、昔からの絆の勝利とか」
そんな中、体調不良を理由に、アデルが社交の場からしばらく姿を消していることも知られていた。
「失恋に耐えかねての引きこもりだろうか。閣下も意外に乙女であらせられる、年齢の割に」
「二人の円満な関係も終わりだろうか。彼らが描く王国の未来は見たかったがな……残念だ」
しかし毎日のように、家紋のない馬車がカレスト公爵家の屋敷に現れるという。
アデルとラグナルの恋を勝手に応援する勢力は、こう熱弁していた。
「殿下のエリオノーラ姫への態度なんて、ただの社交辞令ですわ! 公の場では誰にでも優しく振る舞う紳士ですもの!」
「家紋のない馬車が毎日現れるなんて、どう考えてもアデル嬢を愛するどなたかですわ。きっとアデル嬢が、殿下の真意を信じて砦から出てくるかどうか、今が愛の試練なのですわ!」
彼女たちの口元を彩る扇子には、「雪の女神が閉じる扉、蒼珠の愛が鍵となる」と刻まれていた。
二人の噂は、王都の空気をますます熱狂させていく。まるで物語のように。
噂の中心人物でありながら、最も振り回されている男、ラグナル。
彼は件の怒涛の一日以降、再びカレスト公爵家への訪問を許されていた。ただし、条件付きで――「決して人払いはしない」。
「密室政治は良くないことだと、お若い姫からお叱りを受けまして」
アデルが片頬に手を添え、ため息をつきながらそう告げる。
ラグナルは顔を青ざめさせ、それ以上何も言えなかった。
言外に伝わるメッセージ――「エリオノーラ姫のことは、そちらで何とかしてください。それまでは指一本触れないでいただきたい」。
それでもふとした瞬間、ラグナルの手が彼女に伸びそうになる。それに自身が気づいて、ティーカップへと方向転換する。
「ラグナル様、随分と薬草茶をお気に召していただいてますのね。そんなにお飲みいただけるなんて」
アデルのおどけた微笑と皮肉に、ラグナルの口角が引き攣る。
「ええ、それはもう。夏だからですかね、やたら喉が乾くんですよ。唇も乾燥気味ですし。一度ちゃんと水分補給しないと。その時は貴女にもご迷惑をおかけするかもしれません」
――次、二人きりになった時は容赦しないから覚悟して。
そんな虚勢を皮肉に込めつつ、今はひたすら歯を食いしばるしかなかった。
【女公爵の復活】
今日はアデルの誕生日だ。
普段のアデルは、自ら社交の場を設けることはない。誘いの数が膨大なので、社交機会に困らないからだ。だから夏の社交シーズンの最中に誕生日があるというのに、彼女は毎年ひっそりと過ごす。
しかし今年は、アデルの親戚であり旧友のロザリンドが主催となり、彼女の誕生日を祝う場が催された。アデルは当初断ろうとしたが、「貴女の社交場での存在感が落ちると、従妹の私も影響を受けるのよ」と痛すぎる正論を言われ、ありがたく好意を受け取ることにした。
マグノリア侯爵家のパーティ会場は、ロザリンドのセンスが光る装飾で彩られた。テーブルには、ルーシェ公爵から贈られた特製の貴腐ワインが並ぶ。
国内のアデルを慕う多くの貴族たちが集まり、優雅な祝賀ムードが漂っている。
「カレスト公爵、久々に社交場復帰か。さて、どんな復活劇となるか」
「見ものですな。若い令嬢が噂をさらう中、閣下はどのようなお顔で入場されるのか」
「でもご体調が良くなかったのでしょう? 大丈夫かしら」
主役の登場を待つゲストたちは、期待と好奇、心配の言葉をこぼす。
そして、会場の扉が開かれた。
赤い唇と紺青のドレスが君臨する。そのコントラストに、誰もが目を覚ます。
誰かがグラスを落とした。その破裂音が、彼女の復活の時を告げた。
女公爵アデル・カレスト、二十八歳独身。婚約破棄の経歴あり。そして――存在だけで、人々を狂乱させることのできる女。
ゲストたちは示し合わせたように、アデルの前の道を開けた。アデルはその道を当然のように、颯爽と歩く。
「何もせずとも場を制圧する。威風堂々とは、まさにこのことか」
「彼女の姿を見れば、今の王都の噂なんて馬鹿馬鹿しくなりますわね」
アデルが広間の中央に立ったとき、大きな歓声と喝采に包まれた。彼女の復活は、再誕の宣言すらいらなかった。会場に足を踏み入れた時点で、大成功だった。
「ご本人の誕生日とはいえ、宴でゲストがこんな盛り上がったの見たことないんだけど……」
「絶対に敵に回したくない」
「閣下が百万点すぎて泣いちゃった」
アデルは久々に、貴族五人の鼻を折り、四人の心を折り、ついでに三人の膝を折った。
「公爵閣下、お誕生日おめでとうございます」
「今年も閣下のご活躍を心から楽しみにしております」
皮肉も嫌味もない祝いの言葉に、アデルは微笑む。
今日のアデルは穏やかだった。最近、水面下で抱えていた苦労と疲労も、少しずつ癒されるように感じた。
年を取るのも、悪くないかもしれない――そう思い直す余裕すら感じていた。
【サプライズ】
宴も中盤に差し掛かり、料理もワインも順調に減っていた。貴族たちも、和やかな会話を続けている。
その空気が一掃される出来事が起きた。
「王弟ラグナル殿下、御入場!」
この一声に、会場は一瞬にしてどよめいた。
「ラグナル殿下!?」
「いや、まさか!?」
王族が、婚約者でも親戚でもない貴族の誕生日パーティーに現れるなど、極めて異例。
誰もが驚いていた。そして、アデルも同様だった。
――そんな話、聞いてないわよ!
ラグナルは、ダモデス公爵の案内で、サプライズゲストとして姿を現したのだ。
アデルは察知する。ロザリンド、ダモデス公爵、ラグナルの三人の間で、事前に計画されていたことを。
ラグナルは真っ直ぐに、アデルの元に進む。貴族たちが二人から離れ、そして囲む。見逃してはならない何かが起こる前触れだ。
「これまで貴女が積み重ねてきた経験、実績、信頼のすべてに、心より敬意を表します」
ラグナルの言葉は、アデルのこれまでの人生を余すところなく肯定するものだった。その言葉の重みは計り知れない。王家からの全面支持。王弟からの敬意。そしてラグナル個人からの、慕情。
会場にいる貴族たちは、最高潮の盛り上がりを見せた。
「やはりラグナル殿下の運命の相手はカレスト公爵だった!」
しかし、当のアデルは涼しげな表情でそれを受け止めていた。
「光栄ですわ、ラグナル様」
贈られた言葉に対して、あまりにも冷静すぎる返答。彼女は「氷雪」の仮面を決して崩さない。
「嘘だろ……これで心を動かされないのか……?」
「もしかして、公爵閣下の心が冷たすぎるのでは……?」
貴族たちは知らない。氷雪の砦の中は大混乱していることを。アデルは今、「こんなことしたら国内が大騒ぎよ!? 何考えてるの!?」と脳内で警報が鳴り続けている。
「私たちが推してきたお二人は、解釈違いだったということ……!?」
「ま、まだですわ! 公式が否定してるだけですわ!」
推し活夫人たちは知らない。彼女たちの妄想が、本当はそれほど外れていないことを。アデルは今、「どうしよう……嬉しすぎる……好きっ……え、好き……!」と心の乙女が悶え続けている。
二人は、周囲の視線など意に介さず、ただ見つめ合っていた。お互いの真意を探るように。
そしてアデルは、不動を装いながらも、その青い視線の深さに大きく揺らいでいた。




