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第九話:一騎打ち(2連戦)

【敵陣乗り込み】


 アデルはルーシェ公爵の馬車を借り、王城に急ぎ向かせた。ルーシェ公爵家の家紋を背負った馬車に、別の公爵が乗っているなど、誰も夢にも思わない。

 ここまでアデルが周到に動くのは、あの耳の早い男に気付かれないためだった。全ての状況を制する。そうでなければ勝ち筋はない。それはアデルのラグナルに対する警戒であり、賛辞でもあった。


 王城の中庭に、アデルが到着した。日傘を差しながら、漫然と散策する。目の前に広がる色とりどりの花々。今日は特に赤薔薇が、得意気に咲き誇っているように見えた。

「これはすごい偶然ですね」

 ラグナルの声だった。彼は驚きと緊張が入り混じった声で、アデルに話しかけてきた。

 もちろん偶然ではない。アデル自らここに来れば、城内の者から彼に報告が入り、真っ先に会いに来るだろうと踏んでいた。案の定、いつの間にか中庭は人払いがされ、二人だけが残されていた。

 

 ――『貴女がここまで誠実に準備されてきたのなら、あとは希望の女神に託せば良い』と、教えてくださったのは貴方でしたね。


 アデルは日傘の中で、希望の女神に捧げるための微笑みを浮かべた。

「ラグナル様、こんなところでお会いするなんて運命ですわね」

 ラグナルの動揺が、端正な顔に一瞬だけ浮かんだ。アデルは勝利を確信した。


【可愛くて可愛くないおねだり】


「そういえば、建国記念日のパーティー、とても楽しかったですわ」

 アデルが軽い口調で話を切り出した。ラグナルは怪訝に思う気持ちを、一旦心にしまった。

「特に、南部産ワインがとても美味しくて。私、いたく気に入ってしまいましたの」

 アデルは顔を少し横に傾け、彼を見上げながら続ける。

「領地に戻っても、また飲みたいなぁ」

 その言い方は、まるで恋人に宝石かドレスをおねだりするような甘さを滲ませていた。

 しかしラグナルにはわかっていた。アデルが望んでいるのは、ワインを壺に一つや二つ送ってもらうような可愛いおねだりではないことを。

 案の定、アデルは次の言葉で核心に触れた。

「南部産ワインとスフィリナの薬草茶の、南北間の関税免除を許してくださらない?」


 ラグナルの表情が硬直する。

 両方とも南部と北部を代表する高級品だ。南部産ワインは長い歴史と伝統を誇る定番商品、北部産のスフィリナ薬草茶は近年ますます需要が高まる人気商品。いずれも非常に高い競争力を持つだけに、「関税免除」など簡単に認められる話ではない。

「アデル、それは……難しい話だ」

 税収だけの問題ではない。各地域の競合産業の保護のために、関税は機能している。なのにこれを認めたら、他の領地から不平不満が出ることは想像に難くない。特に建国以来の長い歴史を持つ制度だ、保守派の声も大きい。

 ラグナルの頭に次々と浮かぶ懸念は、彼にとって重要な事項であり、説明のために慎重に言葉を選ぶ必要があった。

 しかしアデルは、愛らしい微笑みを崩さない。ラグナルの声が届いていないかのような態度に、彼の焦燥が募る。


 やがてアデルは小さくため息をつき、目を伏せた。

「難しいことだとはわかっているわ。でも、もし殿下がこれを許してくださったら……ちょっとは機嫌治る、かも?」

 そう言ってアデルは、首を傾げた。日傘の下で、ラグナルを上目遣いで見つめる。柔らかい光を湛えた瞳に、ラグナルの目が奪われた。その姿はあまりにも愛らしい。

 要求内容に全く見合わないその可愛さが、言外に訴えてくる。これは対等な交渉ではない、踏み絵だと――「この要求を呑めば、南部の令嬢との問題は即時解決する。退ければ、解決する気はないとみなす」。

 ラグナルはそれを理解した、寸分違わぬ正確さで。


 ――僕の負けだ。


 アデルが中庭にいると聞き、ラグナルは足早に駆けつけたのだ。何の準備もせずに。その時点で、二人の勝負はついていた。

 五日間も姿を見せなかったアデルが、急に王城に現れて、南北地域を巻き込んだ提案をしてきたこと。ラグナルですら、その兆しを掴んでいなかった。

 公爵たちの動向は、ラグナルの間者が情報収集している。不自然な動きがあればすぐに、ラグナルに報告が入る。その目をすり抜けるには、アデルが間者たちを出し抜き、ダモデス公爵・ルーシェ公爵と合意したのでなければ、あり得ない話だった。

 その上、アデルはラグナルの心理をよくよく解していた。今のラグナルにとって、アデル自身が最上の囮であると。ラグナルもアデルの意図は理解していた。それでもここで駆けつけなければ、恐らく彼女は二度と自分の元には戻らない――五日の間に植え付けられた切実な恐怖が、ラグナルを突き動かした。


 こうしてラグナルは、何も知らぬまま、交渉材料も持たぬまま、この場に引き摺り出された。

 アデルの知性と度胸が、ラグナルにさえ牙を向く。

 しかしそれでも尚、ラグナルはアデルのことが殊更愛しかった。いじらしささえ感じていた。国家運営を巻き込むほどの、自分の愛への渇望に。


「わかった、全部呑もう」

 ラグナルは、全ての仕事予定を書き換える覚悟と慈愛をもって、断言した。妥協点を探ることすら放棄した、それが愛と誠意の証明だと言わんばかりに。

 アデルはラグナルの返事に、満足気に微笑む。

 ラグナルは心の内で、「十分おねだり上手じゃないか」と、某侯爵夫人に抗議した。


 この日以降、王家の教えに刻まれる。「嫉妬の代償は高くつく」と。

 

【政治家と姫の対峙】


「ラグナル様。カレスト公爵。ごきげんよう」

 透き通る声が中庭に響く。ラグナルとアデルが振り向くと、エリオノーラが立っていた。ラグナルは狼狽えた。


 ――中庭は人払いされていたはずだ。それを彼女が突破したのだ。間者たちも、同盟国の姫相手では手をこまねくしかなかったに違いない。


 アデルは美しい所作で一礼し、品のある声で挨拶を返す。

「ごきげんよう、エリオノーラ姫殿下。お会いできて光栄ですわ」

 そして、まるで今何かを思いついたかのように、手を叩いた。

「私、前々からエリオノーラ姫殿下とお話してみたかったのです。良かったら、ご一緒にお庭を散策しませんか?」

「えっ」

 ラグナルの口から、思わず短い声が漏れる。心の準備もなくアデルが仕掛けた提案に、彼は息を呑んだ。

 エリオノーラは少し思案し、慎ましやかに頷く。

「私も同じ気持ちでした。ぜひご一緒させてください」

 ラグナルはさらに狼狽える。中庭での二人きりの時間は、彼女たちの提案で完全に奪われた。

 しかも追い打ちをかけるように、アデルが軽やかに言った。

「ただ、殿方には秘密の、女性同士の親交を深めたく思いますので……」

 出ていけ、と言われている。

 ラグナルはしばし呆然とした。しかしなんとか切り替えて、言葉を絞り出した。

「それは仕方ないですね。どうぞごゆっくり……その、くれぐれもお気をつけて……」

 どこか苦々しげな表情で、ラグナルは中庭を後にする。

 去り際に一度だけ、ラグナルが二人を振り返る。アデルがエリオノーラ姫を連れ、中庭の奥へと歩み進める背中が見えた。ラグナルは、その背中に恍惚の視線を送った。


 アデルはゆっくりと歩を進めながら、淡々と口を開いた。

「あんな風に、人払いされた中庭に近づいてきたらいけませんわ」

 その声には、先ほどまでの優雅さはない。明確な警告だった。エリオノーラは肩をすぼめながら答える。

「申し訳ございません。ですが、どうしても気になって……」

 そのまっすぐな言葉に、アデルはわずかに眉を動かす。感情のまま動ける若さと、それが許される無垢さを、アデルは断じた。

「一国の姫とあろうものが、お粗末ですわね。その立場のご自覚がないのかしら」

 逃げ場のない鋭い言葉が、エリオノーラに突きつけられる。驚いた彼女は目を見開き、戸惑いながらアデルを見つめた。そのあどけない表情を向けられても、アデルは容赦しない。

「先ほどのことだって、私が内政干渉だと訴えれば、少なくとも貴女の留学は取り消されるでしょうね。同盟にも影響を与えかねませんわ」

 エリオノーラの顔が青ざめる。ようやく事の重大さを理解したのだろう。

「申し訳ございませんでした」

 エリオノーラがか細い声で謝罪を口にした。アデルは彼女の怯えを冷静に見下ろしながら、内心で苦笑する――まぁ、そうなったら私も無傷ではいられないけれど、と。しかし顔には出さず、冷たい口調で言い放った。

「いつまでもご令嬢として許してもらえると思ったら、大間違いですわ」


 アデルの畳みかけに、エリオノーラはしばし沈黙していた。しかし意を決して、震えながらも言葉を発した。

「それでも……私にはわかっています。お二人が特別な情を持たれていることを」

 今度はアデルが瞠目する番だった。思いがけない直球の言葉に、動揺が走る。

「でも、どうしてその関係を公にされないのですか? 秘密のまま政治を進めるのも、褒められたものではないのでは?」

 青灰色の、若くて真っすぐな瞳が、アデルを射抜く。

「少なくとも、お二人が公にしない限り、私が殿下をお慕いしていることを咎められる理由はないと思います」

 その清廉な正論は、容赦なくアデルを貫いた。


 ――彼女は、かつて私がなれなかった側の象徴だわ。


「おっしゃる通りですわね……」

 アデルは小さく息をつき、目を伏せる。二人の間に、重い沈黙が降りた。その日は、どちらからともなく言葉を切り上げ、解散となった。

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