第八話:拗らせ女が仕掛ける愛の戦争
【クッキーをもらえなかった子ども】
「アデル様はご体調を崩されております。お引き取りを」
カレスト公爵家執事の、最近の定型回答。ラグナルの従者は毎日、このやり取りを繰り返した。
ラグナルは馬車から飛び出したい衝動を抑える。仮病だと分かっている。彼女の意思表示だとも理解している。それでも、この無為な訪問をやめられなかった。
今日も従者に成果はない。普段のラグナルなら、状況の悪さを察して別の手を打っている。
それでも、アデルを想うと胸が締め付けられた。愚かな誠実さを示すことしかできなかった。
――いっそ、王家の権限を発動して彼女を連れてこさせるべきだろうか。
もし王家の名を使えば、ラグナルはアデルを拘束できる。名目は何とでもでっち上げられる。何せ、ラグナルの極秘を知る者だ。彼を裏切ることは許されない。
しかしそれを最後に、彼女の愛も彼女自身の尊厳も、全て失われる――理性の声は、まだ聞こえている。
彼女への純粋な愛と、昏い執着。それらが絡まり合い、ラグナルの心を蝕んでいく。彼女の拒絶を受けるたび、理性が遠のく。
いつか彼女に言われた「私を捕まえて閉じ込めておけばいい」という挑発が、今更になってひどく魅惑的に思えた。
通い始めて五日目、ついに変化が訪れた。使者を通じて、ロザリンド・マグノリア侯爵夫人が連絡を寄越したのだ。
『夕刻、王城の中庭にて』
短い伝言だった。それが、暗い迷路に差し込む出口の光のようだった。アデルを最も理解する者からの接触。もし彼女からの接触がなければ、彼はどれほど冷酷な手段に出ていただろうか――。
ラグナルはその約束を果たすべく、馬車を急かして王城へと戻る。その目には、未だ消えない焦燥と、どこか決意を秘めた光が宿っていた。
夕刻、仕事の休憩のふりをして、王城の中庭に足を踏み入れる。ロザリンドが木陰で涼んでいた。
「奇遇ですね、マグノリア侯爵夫人」
ラグナルが声をかけると、ロザリンドは穏やかな微笑みを浮かべて、優雅にカーテシーをした。
「ごきげんよう、ラグナル殿下」
穏やかな彼女の声に、ラグナルは少し安堵した。ロザリンドが続けて口を開いた。
「夫が、ここで待ち合わせてデートしよう、と言っていたのに、仕事が長引いているみたいで。殿下からも何とか言ってやってくれませんか」
ロザリンドは中庭に響く声で言う。ラグナルは、内心の戸惑いを隠しながら、即座に返す。
「それは困りましたね。後でマグノリア侯爵の仕事量を見直しておきます。お詫びに、今日のところは私が話し相手になりましょう」
あたかも予め用意していたかのように、言葉を紡ぐ。こうした建前も必要だった。暇な貴族たちの好奇の目を避けるためには、噂が立たぬように振る舞わねばならない。
「殿下、実は私、子育てに関して考えてしまうことがあるのです」
ロザリンドが語り始めた。
「二人の子どもに恵まれましたが、どちらの子も、なかなか我が強くて。自分が一番愛されていると感じないと、すぐにぐずるんです。でも私は、二人に平等に愛を与えています。ケーキもクッキーも、どれも同じだけ与えますし、慈しむ言葉も等しくかけます。人間というものは、幼いころから不公平に敏感なものです」
ロザリンドの話に、ラグナルは思わず耳を傾ける。彼女が語るのは、ラグナルと同じ人間観。その何気ない語りの中に、聞き逃してはならない核心の気配があった。
「もしも、私が一人の子にでも愛を欠けてしまったら……と考えると、恐ろしい気持ちになります。たとえば、おねだりをすれば、他の子は当然クッキーをもらえるのに、一人だけはおねだりが許されなかった。そんな扱いを受けた子どもは、どんな気持ちになるでしょうか。きっと、いじけたり、拗ねたり、卑屈になったりするのでしょう」
親の愛の不平等。家族という社会関係の中で起きる、最も原初的な争いの火種かもしれない。ラグナルは、他人事ではないような気がしていた。
「でも、時には、そういう子どもの中にも、自分で解決しようと料理の腕を磨き始める者もいるのです。素晴らしい自立心、強さ、気高さ。でも、きっとその子は、他の子どもたちよりも深く傷つき、孤独を感じていたのではないかと思うのです」
ラグナルは胸が締め付けられるような思いを抱いた。自立心、強さ、気高さ――自分の愛する女性の姿が否応なく思い起こされる。
「もしも、その子が作ったクッキーを、他のおねだり上手な子が横取りしようとしたら、どうなるでしょうか。ましてや、親が「お姉ちゃんなんだから分けなさい」なんて言って、強引に分け与えさせようとしたら……。その子はどんな気持ちになるのでしょうか」
ラグナルの脳裏に浮かぶのは、幼いアデルの姿だ。彼女が傷つきながらも必死に築き上げてきたもの。その誇らしく尊ばれるべきものを、何一つ考慮せず取り上げようとする、自分自身の姿を幻視した。
「あぁ……」
ラグナルは顔を上げ、薄紫を帯びた夕空を仰ぎ見た。その青い瞳には、自らの罪を正面から直視した苦しみと後悔が浮かんでいた。アデルを傷つけた刃が、自分自身に向けて突き立てられるような感覚。
――二人の立場を守ることが、関係を守ることでもあり、それが愛だと信じた。自分が本当に守らなくてはいけなかったものは、彼女の心だったのではないか。
その瞬間、ラグナルの中で何かが崩れ落ちた。しかし同時に、それは彼の中に新たな覚悟と誓いを生み出した。
ロザリンドはラグナルの表情を見て、優しく目を細めた。
「ところで、ラグナル殿下……」
ロザリンドは小声で、ラグナルに何かを尋ねた。ラグナルはその問いに、即座に賛同の意を示した。
【女狐が狙う二匹の獲物】
この五日間、アデルは社交をサボっていた。しかし仕事までサボっていたわけではない。アデルは吹っ切れていた。とっても吹っ切れていた。
――若くてか弱い娘たちへの配慮? なら私は無遠慮にやらせてもらうわ。
まずアデルはダモデス公爵に手紙を出した。
『南部地域の重鎮が狼狽するところを特等席で見学されませんか。ご興味があれば見舞いの果物とともに我が家へお越しください』
ダモデス公爵は滋養に効く果物を持って、カレスト公爵邸を訪れた。そしてアデルから計画を聞き、承諾した。
その後ルーシェ公爵に、ダモデス公爵とともに訪問したい旨の手紙を出した。
アデルが表舞台から姿を消して六日目。
アデルは商隊の馬車に、幾ばくかの駄賃を払い、乗り込んだ。そしてルーシェ公爵の元へ向かわせた。馬車が敷地内に入ると、屋敷の従者の手引きにより、応接室へ通される。
「ようこそいらっしゃいました。さすがにこのような受け入れ方は初めてでしたが……」
屋敷の主人であるルーシェ公爵が苦笑する。
「人を化かしてこそ、女狐の本領発揮と言ったところですかな」
既に応接室に通されていたダモデス公爵が笑う。
「こうでもしないと、あの青い目からは逃れられないのですわ」
アデルもまた悠然と微笑んだ。
こうしてルーシェ公爵邸に、三人の公爵が揃った。王家に知られれば、警戒される動きだろう。
三公会議が始まる。アデルは希望の女神に捧げる笑顔を浮かべ、明るく言った。
「私、先日の南部産ワインをとても気に入ってしまいましたの。北部の気候はブドウ生産には向いておりませんから、羨ましい限りですわ。でも、そのかわり北部には、スフィリナの薬草茶がございます。この二つが、地域間関税なしで自由に取引できたら、とても素敵だと思いませんか?」
アデルの言葉に、ルーシェ公爵は目を輝かせた。
「それは素晴らしい。他地域との交易には、多くの商人が苦慮しているのです。せっかく評判の良い品々を交易したいと思っても、現行の税率では尻込みされてしまう。我々のワインがどれだけ増産できても、宝の持ち腐れです」
アデルは気づいていた。ルーシェ公爵が王室との繋がりを求めた理由がこれだと。
高級品であり商品競争力の高い南部産ワインには、地域間関税により高い税率がかけられている。その税率は、ワインの重量や品質保持の繊細さに由来する輸送コストを考慮すると、王都以外の商人が仕入れをためらうには十分だ。
また、南部の肥沃な大地で増産されたワインは、販売先を増やせなければ、いずれ生産過剰となる。それが在庫として積み重なれば、南部の財政を徐々に圧迫していくはずだ。
さらに、南部におけるワインは単なる経済活動の対象ではない。南部の誇りそのものだ。その産業が停滞すれば、ルーシェ公爵の政治的求心力にも悪影響を及ぼす。
それらの焦りが、養女セレーネを王弟ラグナルへ接近させた――これがアデルの推理だった。ルーシェ公爵のわかりやすい反応は、正解であることを示していた。
「そうでしょうね。関税の半分が領地収入になるとは言え、肝心の交易抑制になってしまっているなら本末転倒ですわ」
アデルはルーシェ公爵の苦悩に共感を示す。彼は大きく頷いた。
「ですが、税金のこととなると、やはり王室に筋を通さないと。王室におねだりしてこようかと思うのですが、最近、ラグナル様の周りに若い娘が多くて。年増の私の言葉を聞いてもらえるか、心配ですわ」
そう言って、ふう、とアデルはため息をつく。
ルーシェ公爵は沈黙した。その後、重く口を開いた。
「私の娘が……失礼いたしました。よく言って聞かせます」
全面降伏。アデルの赤の唇が弧を描いた。
「お心遣いに感謝いたします。南北の交易がさらに活性化し、国全体の繁栄につながることを願っております」
「ええ、まさに南北における『千年の団結』の先駆けとなりましょう」
二人は力強く握手した。それを見届けたダモデス公爵は、アデルの見事な交渉内容と話運びに、驚嘆する。
――女狐が、更にその牙を鋭くしおって。
ダモデス公爵は不本意にも、親心に似た心地を抱いていた。




