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第六話:拗らせ女の地雷

【休憩室での痴話喧嘩】


 ラグナルとアデルは休憩室へと入った。人目につかなかったことは幸いだった。まだパーティの序盤、広間から出てくる者もいないようだった。

 アデルは迷わず、一人がけの椅子に座った。ラグナルもその対面に座る。ラグナルは穏やかに、慎重に言葉を紡いだ。

「さっきの話だけど――セレーネ嬢たちには、立場上どうしても配慮が必要だったんだ」

 アデルはそっと目を伏せたまま、口角を引き上げる。

「ええ、それが殿下のお優しさですものね」

 その笑顔にラグナルは不穏な気配を感じつつも、続けた。

「君も分かってくれると思っている。彼女たちは、まだ若くて、経験も浅い。しかも立場的に弱いから――」

「若くて。立場が弱いから」

 アデルがオウム返しすると、ラグナルに鋭い視線を送った。


「つまり、私は年増で、立場が強くて、ついでに可愛げもないので、殿下のご配慮など必要ないと、そうおっしゃりたいのですね?」

「は?」

 ラグナルの目が一瞬点になる。

「いやいや、そんなこと一言も――」

「ええ、構いませんのよ!」

 アデルが椅子から勢いよく立ち上がる。閉じた扇子をラグナルの鼻先に向けた。

「強くて経験豊富な私が、そんなか弱い女性たちと同列に扱われるべきではないのは百も承知ですわ!」

「いや、だから違うって――」

 ラグナルもまた慌てて立ち上がる。

「何でそんな解釈になるんだ。僕が言いたいのは――」

 アデルは挑発するように、にっこり笑う。

「もしかして、「年齢なんて気にしていない」とか、「君の方がずっと素敵だ」とか、そのようなお優しいお言葉を投げかけていただけるのでしょうか?」

「いや、君が素敵なのは事実だし――」

「ほら、そうやってご機嫌を取る!」

 アデルは再びラグナルの鼻先に扇子を突きつけ、肩をいからせて息を吐いた。

「私にだって、分別はありますのよ。そんな表面的な言葉で騙されると思いまして?」

 ラグナルは頭を押さえ、もう一度深く息をつく。

「アデル、僕が言いたいのは、社交上の義務についてであって、君を軽んじているわけじゃ――」

「どうぞどうぞ!」

 アデルはラグナルの説明を打ち切る。そして勢いよく歩き出すと、扉に手を掛ける。

「ご説明なら、ぜひセレーネ嬢やエリオノーラ姫にして差し上げればいいでしょう! 私なんかよりずっと弱くて可愛らしい『か弱い』女性たちに!」

 ラグナルの胸中に彼女の言葉が突き刺さる。そして自身の言葉はアデルに届かない。とりつく島もない現実に、ラグナルはしばし呆気に取られた。しかし、すぐにその思いを飲み込み、必死に声をかける。

「アデル、そんなつもりじゃ――!」

 アデルは振り返りもせず、部屋を出ていった。その後ろ姿は、怒りに燃えるようであり、また少し寂しげでもあった。


 ラグナルだけが残された部屋には、静寂が広がる。ラグナルは椅子に戻り、背もたれに寄りかかって深く息をついた。

「……僕のフォローが通じないなんて、珍しいな」

 視線を扉の方に向ける。今追いかけるのは愚策だろう、とラグナルは判断する。そしてわずかに口元が苦笑めいた形に歪む。

「可愛いところがあるじゃないか、全く」

 ラグナルの言葉は誰に向けたものでもなかったが、確かな響きを持っていた。


【あの頃の私は】


 その後、アデルは早々に王城を後にした。

 夜の寝室。アデルはいつもの身なりから解放され、寝間着姿で一人、ベッドに腰掛けていた。煌々と輝く月光が窓越しに差し込み、その横顔を照らす。その表情にはどこか苦渋が滲んでいた。

「馬鹿ね、私……」

 そう言いながら、指先で髪の毛を弄ぶ。ラグナルとの痴話喧嘩が、脳裏に鮮明によみがえる。

「若い、か弱い女の子ですって?」

 彼の言葉が疼く。まるで指先に刺さった棘のように。しかしそれと同時に、自分が過剰に反応してしまった理由も痛いほど分かっていた。

「あの頃の私なら……」

 アデルはふっと笑い、それから目を伏せた。瞼を閉じると、遠い昔の記憶が浮かんでくる。


 まだ彼女が十代の頃。未来の家庭に希望を抱いていた。婚約者と呼ばれる男と並んで歩くたび、幸せを感じた日々。彼の隣で微笑むことで愛されるのだと、無邪気に思い込んでいた。

 しかし、その幸せは政局に呆気なく飲み込まれた。

「アデル嬢と我が息子との婚約を継続することは、現状では難しい」

 義父となるはずだった男の一言が、すべてを終わらせた。アデルには何の非もなかった。無情にも婚約は破棄され、周囲の好奇の目にさらされた。


 その後、彼女は甘えや弱さを捨てた。代わりに選んだのは、次期公爵としての道。父に提案されたとき、その先に続くのは孤独で険しい道だと分かっていた。

 何せ、それまで王国内の女性で正式に爵位を継いだ者は、歴史上三人しかおらず、公爵位に至っては前例がなかった。

 それでもその道なき道を、自らの責任で選び取り、この手で切り開くことを誓った。


『政治は男のもの』という常識の中に身を投じれば、そこで女性扱いなどされなかった。

 社交の場では紳士として、当然に女性へ配慮する男性たち。彼らは、仮面を脱いだようにアデルに冷たい言葉を投げかけ、嘘をつき、挑発をしてきた。素直さ、可愛らしさ、女の子らしさなど、少しでも見せれば周囲から侮られた。己を守るためには、知略を巡らし、実力を示し、度胸で切り抜けるしかなかった。

 そうして生き抜いた先で、ようやく国内の空気が変わった。アデルの実力が真っ当に認められるようになったのは、アデルが二十三歳の頃だ。普通の女性なら、とっくに子どもの一人や二人いてもおかしくない年頃だ。その頃からアデルには見合いの打診が増えたが、その意図はカレスト公爵家の盤石な財政を狙ったものばかり。

 もはやアデルに、国内貴族との婚姻のメリットはなかった。


「私は、あの子たちみたいに甘やかされて、守られて、何もせずとも愛される経験なんて……」

 アデルは手を握りしめる。かつて手に入れるはずだった普通の幸せ。それを捨てたことに後悔はない。自らの選択を誇りに思っている。しかし――。

 彼女たちが、若さやか弱さを武器にラグナルを振り向かせようとしている。そう感じるたび、どうしようもなくアデルの胸がざわつく。


 ――私が持てなかったものを、彼の前で無邪気に振り回す彼女たちが、……心底憎たらしい。


 そこで思考を切り、彼女は頭を振った。

「そんなこと考えるなんて、みっともないわね……」

 アデルも分かっている。ラグナルがそんな安易な理由で誰かを選ぶような男ではないことも、彼がどれだけ自分を大切にしてくれているかも。

「でも……もし、彼が……彼女たちを可愛いと思ったら?」

 アデルがずっと直視しないようにしてきた可能性。それが今、二人の令嬢の姿で現れた。

 その考えが一瞬でも頭をよぎると、どうしようもなく不安になる。その不安の根源は、今の関係性にある。

 ラグナルと秘された関係を始めてから、早七ヶ月。その間、互いの脳も体も惹かれ続けてきた。底なし沼に引き摺り込まれるように、あるいは塔が崩壊するように。

 しかしこれだけ簡単に心が揺らぐのは、自分たちの心の一番柔らかいところを、未だに見せられていなかったからだ。互いの言葉と行動で、心を探り合う関係が続いていた。それゆえ、アデルはラグナルの本心を確信できずにいた。


 自分のコンプレックスと、見えないラグナルの本心。それらがアデルの心臓を内から破ろうとする。

「どうして……どうして分かってくれないの?」

 アデルは寝台に横たわる。眠気は一向に訪れなかった。静かな寝室に響くのは、彼女の浅く途切れがちな呼吸だけだった。

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