第五話:おモテになられる王弟殿下
【王弟ラグナルの心労】
時は少し前に遡る。
パーティの始まり、ラグナルは侯爵以上の当主たちから、順に挨拶を受けていた。その流れに乗ってアデルも挨拶に来た。
「ラグナル様、ご機嫌麗しゅう」
麗しいのは君だよ、なんて軽口を、ラグナルは心に留めた。
そして彼女は、この流れを遮らないためか、すぐに下がった。残された空気にひとしお寂しさが漂う。
ラグナルは、その淡白な態度をどう受け止めるべきかを思案する――「いっそ攫ってしまおうか」。その物騒な内心に、気づく者はいない。彼はいつだって理想的な紳士であり、欺瞞に満ちた策略家だ。
やがて、最後の挨拶の番が回ってきた。南部地域のルーシェ公爵が、自身の養女を伴って現れた。
ラグナルは瞬時にその意図を見抜いた。最近、ルーシェ公爵は南部の男爵家から養女を引き取ったという。その背景には、高位貴族にありがちな傲慢さがある。男爵家への資金援助との引き換えだ。しかしどう取り繕っても、本質は人身売買だ。ラグナルは不快感を覚えていた。
「ルーシェ公爵が自慢されたいのも理解できます。もう少しお話を聞かせていただいても?」
ラグナルは、セレーネに関心があるように振る舞った。ただ、歯の浮いた言葉は言わなかった。
それでもルーシェ公爵は満足した様子だった。セレーネをラグナルに預け、遠くへと立ち去っていった。
「君も大変だね」
ラグナルが労りの気持ちを込めて、声を掛けた。セレーネはその言葉に少し驚き、そして安心したように肩の力を抜いた。
ラグナルは、目の前の令嬢を高位貴族の娘として認識しなかった。最も近い認識は、生贄。どう穏便にルーシェ公爵の元へ戻そうかを思案する。
しかし次の瞬間、ラグナルは痛感することになる――その認識が大きく間違っていたことを。
「殿下、よろしければ、一曲お相手をお願いできますでしょうか?」
ラグナルは言葉を失った。パートナーでもない相手に、女性から、こんなにも直接的にダンスの誘いをするなど、考えられないことだった。もし断られれば、社交界ではずっと笑われ者になる。しかも相手が王弟ともなれば、その影響は計り知れない。
ラグナルは察する。おそらく養父からそのように言われているのだろう、と。そして断れば、彼女の立場と人生は……。
「では、僭越ながらダンス講師を勤めさせていただきますよ」
これは男女のそれではない、と周囲を牽制し、彼女の手を取った。
ダンスの途中、周囲からは興味深そうな視線が注がれる。好奇の声が、音もなくひそひそと聞こえてくるようだ。その雰囲気の中、セレーネの手にじわりと汗が滲む。指先は冷たく震えていた。
「君のミッションはこれで達成?」
セレーネはその言葉に観念したようで、目を伏せた。
「何もかもお見通しなのですね……」
その一言は、年齢に見合わないほどの成熟を感じさせた。落ち着きと色気。これこそ、彼女が公爵に目をつけられた理由だった。
ラグナルは哀れに思う。過ぎた特質が、本人の手綱を離れ、他人に良いように使われていることを。
ダンスの最中、ふと視線を感じた。アデルだった。観衆に紛れ、無表情でこちらをじっと見つめている。
――怒ってる……?
弁明しなくてはならない。できるだけ早く、誠実に。ラグナルは決意する。
ダンスが終わると、ラグナルの心労が一つ増えていた。
【王家の高貴な密談】
一曲目の演奏が終わると、パーティの雰囲気はますます華やかに広がっていった。楽団のダンスからソロバイオリニストの演奏に切り替わる。
その中で、ある一人の女性が注目を集め始めた。
エリオノーラ・フィーリス。彼女は同盟国ヴァルミールの姫。第二王子テオドールと交換留学の形で、アヴェレート王国に滞在している。
国王アーサーが皆の前で彼女を紹介する。その美しく可憐な容姿と優雅な振る舞いは、瞬く間に独身男性たちを虜にした。
しかし、その裏では、別の気配も漂い始めていた。
「……想定以上だな」
アーサーは、声を低くして呟いた。
アデルを探しに行こうとしていたラグナルも、その声に思わず引き止められた。兄の視線の先に目を向ける。年頃の令嬢たちが眉を顰め、小声で囁き合っていた。
アーサーはしばらくその様子を眺めていたが、やがてラグナルの肩を軽く叩き、耳打ちした。
「ラグナル、お前、エリオノーラ姫にダンスを申し出てこい」
「……いや、何で私が」
ラグナルは呆れたように眉を上げる。
「留学初日から同性の敵意を買ってしまっては、今後が危ぶまれるだろう」
エリオノーラがこれ以上、異性から注目を集めるのは得策ではない。女性貴族たちの視線が、羨望から警戒に変わりつつある。姫を預かるアヴェレート王家は、その責任として、トラブルの芽を摘まねばならない。この場で姫と王家の親交を示しておけば、彼女に余計な火の粉が降りかかるのを防げる。
その理屈はラグナルも理解している。ただ、先ほどの件もあり、即応できる心情ではなかった。
しかし兄は、そんな弟へ容赦しない。
「お前なら誰も文句は言わんだろう。『特別な相手のいない』王族が姫と踊るなら、むしろ収まりがいい」
「兄上、もしかしてあの件、まだ根に持ってますね……?」
春先に贈ったアデルへのプレゼント。その件について、未だに兄は怒っているようだった。アヴェレート王家の執念深さは、ラグナルだけでなくアーサーにも受け継がれていた。
「それとも何か、レオンに行かせるか? それこそ余計な憶測を呼ぶだろう!」
流石にラグナルも反論できなかった。立太子したばかりのレオンが、異国の姫とファーストダンスをするなど、どれだけの波紋を及ぼすことになるか。ここで自分のわがままを貫けるような交換材料を、ラグナルは持っていなかった。
「わかりましたよ……楽団には短い曲を演奏させるように指示しておいてください」
ラグナルは小さく息を吐き、ワインを飲み干してから歩みを進めた。
ラグナルがエリオノーラに近寄る。彼女は少し驚いた様子でラグナルを見上げた。しかしすぐにその優雅な微笑みを浮かべた。
「ラグナル様、ダンスに誘ってくださるのですか?」
彼女の問いかけには、驚きと少しの喜びが含まれているようにも見えた。ラグナルはそれに気付かないふりをして、穏やかな表情で答える。
「ええ。元を辿れば同じ血筋の者同士。親戚のおじさんとでも思ってお相手いただければ」
そのロマンもへったくれもない言葉は、ラグナルの悪あがきだった。
エリオノーラはラグナルの手を取る。周囲では、すぐに囁き声が立ち上がる。
「そう言えばラグナル殿下って、以前ヴァルミールに滞在していたわよね……」
誰かの言葉に、一斉にラグナルとエリオノーラへ視線が集まる。
形式的なダンスの中で、ラグナルは観衆に視線を送る。アデルの姿がない――早々に会場を抜け出したのか? 一体どこへ?
その事実にラグナルの集中が欠く。ダンスの最中でも、パートナーへ目を向けられていないことに、ラグナルは気付かない。故に、エリオノーラからの不満げな視線にも、気付かなかった。
【カレスト公爵の仮病】
広間、休憩室、回廊。ラグナルは一つずつ虱潰しに渡り歩く。
そしてついに、彼女を見つけた。
アデルは中庭で、扇子を仰ぎながら佇んでいた。
――最初に見つけたのが僕で良かった。
アデルは、中庭のどの花よりも、凛々しく気品に溢れていた。もしも他の男が見つけていたら、その美しさを欲して、手折ろうとしていたことだろう。ただその場合、花びらから覗く牙に噛みつかれることになるが。
そんなことを考えながらラグナルが近づくと、アデルも気付いたようだった。
「アデル、ここにいたんだ。探してたよ」
ラグナルの親しみのこもった声。しかし、アデルはピシャリと扇子を閉じた。
「ご心配なく、殿下。一人で外の空気を吸いたくなっただけですわ」
夜風が二人の間をすり抜ける。それが氷雪のように感じたのは、ラグナルの気のせいだろうか。
ラグナルがさらに会話を続けようとした、その時だった。
「ああ、なんだか気分が優れませんの!」
アデルは声を大きくして、彼の言葉を遮った。
「飲みすぎてしまったようですわ。少し休憩してまいります」
ラグナルは面食らった。しかし、そこで引き下がるような男でもなかった。
「珍しいこともあるものですね。それなら、私がエスコートしましょう」
「いえいえ、お気遣いなく!」
アデルは即座に断って踵を返して背中を向ける。ラグナルは最終手段に出た。
「おや、王族を袖にするなんて、さすがですね」
低い小声で投げかけられた言葉に、アデルはぴたりと足を止めた。アデルはラグナルを再び振り返る。彼女の口元は笑顔のままだが、その笑みの奥にうっすらとした青筋が浮かぶ。
権力を盾に従わせる。普段のラグナルなら、絶対に使わない手だった。
「あら、それでは甘えさせていただきますわ」
アデルはやや投げやりに言うと、ラグナルの腕に手を預けた。
ラグナルはそんな彼女の態度を意にも介さず、堂々とした所作でアデルをエスコートし始めた。




