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第四話:二つの賽は投げられた

【中庭の出会い】


 アデルはラグナルの私室から抜け出した。紅を引き直し、何事もなかったように。

 濃厚なキスの後はいつも唇が乱れる。ラグナルに紅を奪われるせいだ。アデルの紅が奪われた分、ラグナルの口元に紅がついていることがある。あの端正な顔に赤い紅が残ると、妙に官能的に見える。


 ――女よりも色気があるって、本当どういうことなの?


 先ほどのラグナルを思い出し、アデルは頬が熱くなる。それを抑えるように、頬を手で包んだ。


 そんな乙女仕草を誰かに見られるわけにはいかない。王城の一階に降り立つ頃には、女公爵の立ち振る舞いに戻った。表情を引き締め、颯爽と歩き行く。そして思考も切り替わる。


 今日の仕事――領地経営報告書(数字が間違っていることがあるから要注意)。

 交易幹路の作業状況(私の不在時は現場作業員がダレやすい)。

 スフィリナの薬剤開発進捗(元聖女の手腕は見事。ついでに私の部下と恋仲になってるらしい)。

 若手領官の育成状況(最近の若者はやたら上司からのフィードバックを欲する)。

 他領地に関する情報(南部地域の葡萄が豊作らしい。あそこは土壌がチート)。

 その他、部下からの相談(どんなポンコツなことを言われても怒ってはいけない)。

 これらの報告を全て確認した上で、適宜指示する。

 その後、東部地域のザルムート公爵との会食。その際に、元聖女を東部地域からカレスト公爵領に移籍させたい件を交渉。優秀人材を引き抜く代わりに、見返りを用意しなければならない(あそこはヴァルミールとの隣接領。交易品のカレスト公爵領輸送の優遇あたりが適切か)。


 脳内で仕事の整理をしていると、中庭のそばの回廊まで着いた。花々が風にそよいだのか、甘い香りがほのかに漂う。その気配に、アデルはふと目をやった。

 庭では、夏の花々が咲き誇る。リシアンサス、赤薔薇、タチアオイ。凛々しく気品に溢れた花々だ。

 その花を眺め歩く、見慣れない令嬢がいた。

 薄い金髪と、透き通るような青灰色の瞳。その仕草や立ち姿から、彼女こそが花のように見えた。その儚げな美しさは、この国では珍しい。

 令嬢がこちらに気づき、笑顔を浮かべながら近づいてくる。

「初めまして。エリオノーラ・フィーリスです」

 鈴が鳴るような声。アデルは彼女の素性を察した。ヴァルミール国の姫、そしてラグナルと何らかの縁を持つ人物だ。

「アデル・カレストと申します。お初にお目にかかります、エリオノーラ姫」

 アデルが礼を返すと、エリオノーラの瞳が一瞬だけ輝いた。

「お噂は我が国にも届いております。公爵の地位にある女性にお会いできるなんて、とても光栄ですわ。我が国には、そのような女性がおりませんので」

 その言葉には純粋な敬意が込められていた。アデルが、令嬢からよく言われる褒め言葉だ。それをありがたく思わないといけない、とアデルは自分に言い聞かせる。「でも自分がその道を選ぶことなど、露ほども考えていないでしょう」などと、思ってはいけないと。


「ラグナル様からも、カレスト公爵のお名前をよく耳にいたします。お仕事ぶりが本当に優秀だとお聞きしていますの」

 アデルはエリオノーラの情報を更新する。彼女はやはり、ラグナルとの親交がある。

「ありがとうございます。王弟殿下のお役に立てるなら、光栄ですわ」

 アデルは淡々と答えた。淑女の微笑み、女公爵の言葉。恋人としての警戒心は巧妙に隠した。

「それに……」

 エリオノーラが少し顔を伏せた。

「ラグナル様との信頼も深い仲とお聞きしております……ちょっと、意外でした。あのラグナル様が」

 彼女はすぐに、笑顔を見せた。しかしその言葉に漏れ出した、旧知の仲の優位性の誇示。それは、どんなに心優しい令嬢であっても、女である限り備わる不徳。いや、才能かもしれない。

 それをアデルは感知して、癇に障り、穏やかに笑う。

「仕事における信頼がなければ、良い結果を得ることは難しいですものね」

 アデルは彼女の挑発に乗らない。表向きは政治的パートナー。その建前は、こんなことでは崩されない。

 アデルの返答に、エリオノーラは曖昧な表情を浮かべた。


 アデルは優雅に礼をすると、回廊を歩き去った。そしてエリオノーラの情報を再度更新した。高い確率で、敵。


【建国記念日のパーティの夜】


 七月初日、建国記念日。それに合わせて第一王子レオンの立太子が行われた。

 次の世代が着々と育っていることに、貴族たちも喜びと歓迎の意を示す。温厚で朴訥なレオンは、海千山千の貴族たちにも可愛がられる青年だ。

 アデルもまた、その一人である。

「レオン様、立太子おめでとうございます」

「ありがとうございます、カレスト公爵。より一層気を引き締めて精進しますので、引き続きカレスト公爵には学ばせていただきたいです」

 父王アーサー譲りの堂々さに、前王ノイアスを思わせる穏やかさ。そして、謙虚さを忘れない姿勢。歴代の王の美徳を受け継ぎながら、家臣相手に「学ばせてほしい」と言える。しかも、そこに下心を感じさせない。

 アデルは、「この子は大物よね……」と、内心で舌を巻いた。


 建国記念日のパーティで振る舞われたのは、ゴールドの発泡ワイン。南部地域の新しいワインであり、最近ようやく大量生産できるようになったという。

 アデルはこの発泡ワインを初めて口にしたが、格別の味わいだった。質より量派のアデルでも、珍しくしっかり味わっていた。

「良い夜ですね、カレスト公爵。南部のワインもお口に合いましたか?」

 声をかけられ振り向くと、ルーシェ公爵が立っていた。

 アデルは警戒レベルを上げた。ダモデス公爵から事前に聞いた情報がある。養女の件はさほど重視していなかった。しかしルーシェ公爵の本当の狙いは、アデルの利害と相反する可能性がある。

 慎重な会話をすべきだ――アデルは淑女の笑みを作った。

「ええ、とても素晴らしいですわね。特にこの発泡ワインは、夏の夜にぴったりです」

「そうですか。実は南部では、他の領地の需要にも応えられるよう、ワインの生産をさらに拡大しているところです。より多くの方に楽しんでいただけると良いのですがね」


 アデルはその言葉に違和感を覚える。

 王国内では、東西南北地域を跨ぐ取引をする際、各地で生産された品目を対象に、関税がかかる。この制度は、かつて小国同士が統一された際の名残だ。地域産業の独自性を守るために導入されたものである。例外は地域から王都への取引のみだ。

 故に、南部産ワインの生産を増やすと言っても、現行の地域間関税の税率では、商人たちが容易に仕入れを増やすとも思えない。


 さらにルーシェ公爵の言葉は続く。

「ところで、ラグナル殿下と進めていらっしゃる、交易幹路の開拓は順調でしょうか」

 アデルは完璧な笑みを向けた。

「おかげさまで、王弟殿下のお力添えもあり、非常に良い仕事をさせていただいていますわ」

 その言葉が、ルーシェ公爵の期待に応えたかはわからなかった。


 ちょうど楽団の音楽に変わり、ダンスの時間が始まった。

 アデルはホールに目を向けた。その瞬間、彼女は呼吸を忘れた。

 ラグナルが知らない女性と踊っている姿が目に入った。彼の優雅な立ち振る舞いと、相手女性の初々しいダンスが、好奇と微笑ましさをもって注目を集めていた。

 ルーシェ公爵がわざとらしく言う。

「ああ、私の養女のセレーネです。後ほど、ご挨拶させてください」

 その言葉に、アデルは胸中で冷や汗をかく思いがした――あの令嬢が、例の養女だったのか。

 セレーネ・ルーシェ。彼女がラグナルと踊っている姿に、アデルは思わず表情を失う。その衝撃は、アデルも予想していなかった。


 そして、ふと視線を感じた。ダモデス公爵だった。遠くにいるはずなのに、今にも怒声が聞こえてきそうな目だった。

 アデルは気まずさのあまり、目をそらした。

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ダモデス公爵がかわいいです
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