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第三話:誕生日

【ラグナル王弟殿下の耳は早い】


「……両方とも、喫緊の最重要課題だな」

 早朝、ラグナルは慎重な声色で呟いた。部下による報告書内の情報が、一際その存在を主張していたのだ。

 一つ目――アデル・カレスト公爵の誕生日が数日後であること。

 二つ目――アデル・カレスト公爵がそろそろ領地に戻る予定であること。


 ラグナルは無意識に眉間に指を当て、じっと机上の書類を見つめた。もちろん、この二つの情報は、王弟として把握しておくべきものだ。重要な貴族が王都を離れるタイミングや、誕生日といった個人的な事柄も、公務の一環として軽視はできない。

 とは言え、彼の反応は、軍事や災害のリスクを前にした時のそれだった。


 ――彼女の領地帰還前に、信頼を確かなものにしなくてはならない。あくまで公務の一環として。


 ラグナルは心の中で言い訳をしつつ、椅子の背もたれに深く身を預けた。

 そして、ふと、脳裏に過ぎる一つの記憶。

「……あの時のご令嬢が、こんなにも」

 ラグナルは懐かしむように目を細め、8年前の光景を思い出す。


 冬の王城の中庭。アデルが落ち着かない様子で立っていた。

 王城で開かれる重要な年末の会議――それは、彼女が公爵として初めて挑む大舞台だった。まだ彼女が「若き女公爵」と呼ばれていた頃のことだ。


 ラグナルはその様子を遠目に見ていた。あの時の彼女は特別、ラグナルの目を引いた。

 不安げに、しかし毅然とその場に立ち、深呼吸を繰り返す姿。冬の空に白い息が消えていく。彼女がまとっていた緊張感と気概は、ラグナルの心をどこかくすぐったのだ。

 ラグナルは思わず彼女に声をかけた。

「……どうされましたか?」

 アデルは一瞬驚いたように振り向き、ラグナルを目にすると、すぐに頭を下げた。

「……お見苦しいところをお見せしてしまいました」

「いいえ、むしろ感嘆しておりますよ」

 ラグナルは穏やかな笑みを浮かべ、彼女の前に立つ。アデルが口を開いた。

「いえ……ただ、緊張していただけです。しかし、逃げるわけにはいきません」

 彼女の顔には緊張が滲んでいたが、その瞳には消えぬ強さが宿っていた。

「貴女がここまで誠実に準備されてきたのなら、あとは希望の女神に託せば良いのです。そして希望の女神は、笑顔のもとに訪れるものです」

 ラグナルの言葉に、アデルは目を見開かせた。その表情に少しだけ、安堵の色が滲んだ。

「……希望の女神は、笑顔のもとに訪れる」

「ええ。そして、貴女なら希望を手にするでしょう」

 ラグナルはそのまま言葉を残し、彼女の元を去った。その後の会議では、頼もしき女公爵の姿があった。

 しかし、その時の手応えを本人から聞く前に、彼は王国を離れた。当時、国内は政情不安が続いており、一部の勢力がラグナルを担ぎ上げて国内を二分しようとしていた。その機運を鎮めるために、ラグナルは国外へと旅立たなければならなかったのだ。


 あれから8年。

 アデルは見事に責務を果たし、国を超えて名を轟かせる名公爵となった。

「あの時の少女が……」


 ――いつの間にか、堂々たる貴族となり、自分の前に立っている。


 ラグナルはもう一度報告書を見下ろし、ふと笑みを浮かべた。

「……さて、どうしたものか」

 彼女の誕生日。彼女の領地への帰還。どちらも、「どうにかしなければならない」課題だと、ラグナルは真剣に考えていた。


 ――いや、これはあくまで公務の一環だ。それ以上の意味なんて、あるはずがない。


【何でそんなこと知ってるの?】


 アデル・カレスト公爵の屋敷は、王都でも一際格式高く、しかし派手さを抑えた、質実剛健な佇まいをしている。その門前には、いつもと変わらぬ静けさが広がっていた。しかし今日は、少しだけ様子が違う。アデルは書斎の窓から外を見つめ、ため息をついた。今年で27歳。公爵としての責務を果たし、富も名声も手に入れた――はずなのに、誕生日を迎えるこの日は、どうしても心のどこかが騒がしくなるのだった。

 社交シーズンの只中、自ら誕生日パーティを開く貴族も少なくない。しかしアデルはそんなことを考えもしなかった。わざわざ年齢を公開し、「行き遅れ」だの余計な噂が立つのはご免こうむりたい。

 元婚約者との結婚が御破算になって早10年。もはやアデルも過去のこととして清算しているものの、この日が来ると、やはり拗らせた気持ちが頭をもたげてくる。


「私は結婚なんて不要な強い女。産業も強い。財政も強い。軍兵も強い……」

 そんな独り言を零し、机の上に並んだ書簡を整理していると、ノックの音が響いた。

「アデル様。お客様がいらっしゃいました」

「……お客様? 今日はもう訪問の予定はなかったはずだけど……」

「……ラグナル王弟殿下でございます」

 アデルは、聞き間違いを疑った。

「……どなたですって?」

「ラグナル王弟殿下でございます」

 今度は耳を疑えなかった。彼女は椅子からゆっくりと立ち上がり、執事の方をまじまじと見つめる。


 ――どうして彼が、ここへ?


 理由が分からないまま、アデルは平静を装い応接室へ向かった。そして、そこで待っていたのは、まぎれもなく――王弟ラグナル・アヴェレートだった。

「ご無沙汰しております、アデル嬢」

 ラグナルは穏やかな笑みを浮かべ、手には立派な花束を抱えていた。タチアオイの花が、鮮やかな色彩をもって彼の腕の中に収まっている。

「ラグナル王弟殿下……どうしてここへ?」

「お祝いに伺っただけですよ」

 ラグナルはさらりと言い、手に持った花束を差し出す。

「アデル嬢、お誕生日おめでとうございます」

 アデルは一瞬目を見開き、思わず問い詰めるように口を開いた。

「なぜ……私の誕生日を?」

「知るべきことは知っておくのが王族の務めです。それに……」

 ラグナルは柔らかい笑みを崩さず、静かに答えた。

「貴女にとって大切な日でしょう?」

 その言葉に、アデルは呆然としながら、タチアオイの花束を受け取った。多数の花を咲かせる立派なタチアオイは、彼女の両腕の中で沈んだ。

「タチアオイには、『豊かな実り』という花言葉があります。これまでの貴女が歩んだ日々が実り豊かであったこと、これからもそうであることを願っております」

 ラグナルの言葉はまっすぐで、飾り気がなかった。アデルは花を見つめながら、まだ心が追いついていなかった。


「……あの時のご令嬢が、こんなにも立派な公爵になられるとは」

 その言葉に、アデルはハッと顔を上げる。

「あの時――?」

 ラグナルは遠い記憶をたぐり寄せるように微笑んだ。

「8年前、王城の中庭で会いましたね。貴女は初めての公爵としての公務を果たそうとしていました。緊張されていましたが、とても凛々しかった」

「……覚えておいででしたの?」

「忘れるわけがありません。あの時、貴女に言った言葉を覚えておりますか?」

 アデルは迷うことなく、口を開いた。

「……希望の女神は、笑顔のもとに訪れる、でしたね」

 ラグナルは微笑む。

「そうです。その時の貴女の顔が忘れられません。困惑しつつも、目に宿った覚悟の光――あれは本当に美しかった」

 アデルの胸の奥に、当時の記憶が蘇る。あの日の緊張と不安。そして、ラグナルからの言葉が、どれだけ自分の背を押してくれたか。あの言葉がなければ、アデルはあの会合で堂々と意見を述べられただろうか。それどころか、これまでの歩みも違っていたかもしれない。

 あれから幾年も経った。しかしあの時の健気で素直な彼女が、久しぶりに顔を出していた。

「ラグナル王弟殿下に、希望の女神をご紹介いただけたおかげです」

 アデルは微笑んだ。その言葉には感謝と、今までの年月への静かな誇りが滲んでいた。彼女の胸の中には、これまでの努力や苦労が一つひとつ報われていくような、静かな喜びが広がっていた。


 ――この8年間、自分は間違っていなかった。


 ラグナルは王弟だから――そんなことはもう関係ない。ただ目の前にいる彼が、個人として、自分の成長を認め、祝福してくれたことが嬉しかった。

「ラグナル王弟殿下」

「はい?」

「ありがとうございました」

 アデルは、花束をしっかり胸に抱き寄せ、静かに礼を言う。その立ち姿は凛としながらも、柔らかな喜びが笑顔となってこぼれ落ちた。


 そしてラグナルは、そんな彼女の姿を前にして、時が止まったように目を留めるのだった。

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