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第一話:特別な関係ではございません

【王として、家族として】


 夜風の湿り気が、王城の石壁を撫でる。城内に、鉱物特有の無機質な匂いを漂わせた。

 王族たちの居住フロアにある食卓。いつもなら家族で賑わう部屋だが、今は少し様子が違っていた。

 食卓に座るのは、この国を治める王、アーサー。その対面には、彼の息子であり、つい先日成人を迎えたばかりの第一王子レオン。父の姿を真似るように、レオンも杯を手にしていた。

「飲め、レオン。これはお前が成人した祝いだ」

「ありがとうございます、父上」

 杯を交わした二人は、それぞれ一口ずつ飲む。

「成人を迎えたお前は、これからは王族としての責務を全うすることになる。それは、ただ私の息子であるという名目では済まされないものだ」

 その声には、厳しさと優しさが入り混じっていた。

「覚悟はできています、父上」

 レオンの答えは慎重だ。しかしその目には王族としての自覚と緊張が伺える。

「ならばよい。ただ覚えておけ、王族という立場は、時にお前の望みを押し潰す。決断するたびに、何かを失う覚悟を持たねばならん」

 アーサーの目が伏せられた。その言葉には、王として幾多の選択を重ねてきた男の重みが宿っていた。


「それから、もう一つ大事な話だ」

 アーサーは杯を置き、息子の目を見据える。

「そろそろ、お前の婚約者を決めなければならない」

 アヴェレート王国では、成人前後で婚約者を決めることが一般化していた。きっかけは、フォルケン家の一夜にしての転落。このために、多くの家の婚約が崩壊したことだ。それ以来、「十年先の婚約は無謀」として、婚約晩期化が進んでいる。

「その話もいつかは……と思っていました」

 レオンは次の言葉を慎重に選ぶように、しばらく間を置いた。

「ですが、父上。私の婚約の前に……叔父上は本当にカレスト公爵と婚姻の意思などないのでしょうか?」

 レオンには、二人が結婚しない理由がよくわからなかった。ラグナルとアデルは互いに、政治的にも個人的にも強い絆を紡いでいるように見える。なのに、なぜ結婚に踏み切らないのか。家族のつながりを強化し、未来に対して確固たる基盤を築くべきだと、レオンは考える。しかし二人の関係は、どこか曖昧で立ち止まっているように感じた。

 それでも、レオンはその考えを叔父の前で口にしなかった。叔父の複雑な立場を思うと、軽々しく言葉にできる問題ではなかった。


 レオンの素朴な問いに、アーサーは大きく溜息をついた。その目は、どこか遠くを見つめている。

「あのバカ弟のことか」

 額に手を当て、苦々しい表情を浮かべたアーサーは、しばらく何かを言いかけては止めていた。しかしついに口を開いた。

「ラグナルめ、まさかあの機密を漏らすほど、カレスト公爵に肩入れするとは思わなかった。何を考えているのやら……。何が『特別な関係ではございません』だ! そこまでするなら、いっそカレスト公爵と結婚するなりして、身内にしてしまえばいい! だがそうもいかん。同盟国からの意味深な打診もあるし……はあ……」

 アーサーは頭を抱え込み、卓に突っ伏すようにして呻いた。

 レオンは、これまで見たことのない父の姿に驚きを覚えていた。アーサーは常に決断力と威厳に満ちていた。しかしいま目の前にいるのは、重責を一身に背負う父親の姿だった。

 レオンは杯を握りしめた。王の座に就くことの厳しさを、改めて肌で理解した。


【アデルの贈り物】


 雨季らしい、細い雨が降り続いていた。

 この季節は、夏の社交シーズンの前哨戦だ。建国記念日のパーティに先駆けて、多くの祝宴や集いが催される。しかし今宵、王都のカレスト公爵邸の談話室では、二人だけの小さな祝いが行われていた。

「お誕生日おめでとう、ラグナル」

 アデルは小さなテーブル越しに、包みを手渡した。

「ありがとう、アデル。開けても良いかい?」

「もちろんよ」

 ラグナルが慎重に包みを解く。そこには小さなフラスコ型の陶器が入っていた。

「香水よ。スフィリナから抽出したものよ」

 近頃、スフィリナ研究が大きく前進した。カレスト公爵家と東部地域の元聖女が連携したことがきっかけだ。この香水はその研究の成果の一つである。

 また、薬剤としての研究開発も進んでいる。これはアデルがスフィリナの栽培・生産に成功して以来の悲願でもあった。

 ラグナルは陶器の蓋を開け、そっと香りを嗅いだ。スパイシーで、気が引き締まるような香り。それでいて、どこか心を落ち着かせる。それは、彼の内に眠る強さと穏やかさを同時に引き出すような、不思議な香りだった。

「いい香りだ……。でも、どうしてこれを?」

「この香りを初めて嗅いだとき、貴方の顔が浮かんだの」

 その言葉に、ラグナルは少し目を見開いた。アデルは続けて言葉を紡ぐ。

「それに、目に見える物だと、貴方の立場では使いにくいでしょう? だから、こういう形にしたの」

 アデルは冗談めかして笑ったが、その言葉にはどこか寂しげな響きがあった。

 香水の陶器を手に取ったまま、ラグナルは窓の外に視線を向けた。細い雨が降り続いている。その静けさは否応なく、彼に新たな葛藤を生じさせる。


 ――このままの関係で本当に良いのだろうか……。


 目に見えないものでしか愛を表現できない二人の関係。

 アデルは微笑みながらも、どこか心を隠しているように見えた。その笑顔が、ラグナルにはたまらなく切なく映る。

 心にもたげた思いを、彼は口にしなかった。二人の祝宴が穏やかに進む。スフィリナの香りが、その場に漂い続けていた。


【雷鳴の王と花の姫】


 激しい雨と、雷が鳴り響く夜だった。その黒く大きな雨雲は、アヴェレート王国だけに留まらず、東方の隣国・ヴァルミールの空も飲み尽くす。年に一度ほど見られる気候だ。

 ヴァルミール王宮、姫の私室。アイボリーを基調とした、曲線美の調度品。そのソファに腰掛けているのは部屋の主。彼女の顔を、部屋の灯りが照らす。薄い金髪と青灰色の瞳。長いまつ毛が、彼女の目元に影を落とす。

 ふと、彼女の私室がノックされた。

「どなたでしょう」

「儂だ、エリオノーラ」

 その声に、エリオノーラと呼ばれた彼女は、扉を開けた。

「お父様、どうされましたか?」

「明日、お前の出国だろう。ゆっくり話をしようと思ってな」

 エリオノーラが微笑む。彼女は部屋に父を通した。二人はソファに向き合って腰かけた。


 侍女が用意した紅茶を、二人は口にする。

「アヴェレート王国は興味深い国だ。お前が学ぶことも多いだろう。積極的に人々に関わり、知識を吸収してきなさい」

「承知しております、お父様」

 エリオノーラは顔を引き締め、頷いた。

「この国の看板を背負っていることも忘れるんじゃないぞ。まぁお前のことだ、どこに行っても可愛がられるだろうが」

「お父様、それは親の贔屓目です」

 そう言いつつも、親心の溢れる言葉に、エリオノーラも思わず破顔する。

「そしてエリオノーラ、これは一番大事なことだが……」

 エリオノーラの父、ヴァルミールの国王エドバルド・フィーリスは、重々しく口を開いた。

「お前がラグナル殿下を連れて帰ってこれるなら、どんな手を使っても構わん! お前に婚約者を決めていなかったのは、このためでもある!!」

 エドバルドは天高く拳を握りしめた。その瞬間、外では本日一番の雷鳴が轟いた。

「お父様……どうか外では、その、お控えくださいね……」

 エリオノーラは呆れのため息をつく。しかしその青灰色の瞳には、強い光が宿っていた。


 ヴァルミールの末の姫君、エリオノーラ・フィーリス、十六歳。「フィーリス家の儚き深窓の姫」と呼ばれる少女。「立てばアネモネ、座れば白薔薇、歩く姿はカサブランカ」とは、彼女の代名詞でもある。

 エリオノーラは明日、アヴェレート王国に出立する。その名目は、交換留学だ。

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