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第七話:現場から愛をこめて

【雨季の訪れを前に】


 春が、湿り気のある風と共に終わろうとしていた。

 雨季が近づくこの時期、カレスト公爵領は例年になく賑わいを見せていた。行商人たちが列をなし、人々がせわしなく行き交う。

 その中で、新たに整備された保安所や調停所が忙しく稼働している。街中での些細な衝突や摩擦も、現場での迅速な対応のおかげで平穏に収まっている。

 また工事現場近くに、酒場が設けられた。近隣住民と外部労働者の、新たな憩いの場となっている。人間、美酒と語らいを通じて相互理解が進むものだ。

 かつて頻発していた野盗騒ぎも、今ではすっかり影を潜めていた。北部地域の領主達と連携し、大規模な野盗掃討戦が行われたおかげだろう。

「すっかり平和になったよなぁ、工事現場も」

「うちの領主様にかかれば、こんなもんだろ」

 そう胸を張るのは作業員のヒューゴ。

「お前、まだこっちに籍移して一ヶ月も経ってないだろ……」

 同僚たちが呆れる。現場の雰囲気は朗らかだ。


 アデルはその様子を遠目に見つめていた。最前線で働く彼らの安全を守ること。それこそが今、自身の最優先事項である。ようやく現場の安全・安心を確保でき、アデルは胸をなで下ろした。

 ある日、現場責任者からこう言われたことがある。

「公爵様が来てくださると、作業員たちの仕事のスピードが目に見えて上がるんです」

 それ以来、アデルは現場に頻繁に顔を出すようになった。自分がそこに立つだけで士気が高まるというなら、それ以上安い投資はない。


 その日の視察を終えると、アデルは自室に戻り、手紙をしたため始めた。宛先は――ラグナル・アヴェレート。

 手紙には、カレスト公爵領の治安が安定し、工事が順調に進んでいることを丁寧に記した。

 アデルは思い出す。ラグナルが王都へ戻る際、「もう少し滞在したい」とぼやいていたことを。彼は予定を無理やり捩じ込む形で、カレスト公爵領へ滞在していた。結果、王都での仕事が山積みに。今や、王城の者達によって軟禁状態らしい。

 それを想像したアデルは微笑ましく思うが、当のラグナルは不満げだ。直近の手紙には、こんな内容が記されていた。

『会いたいし、城を抜け出したい。国で三番目の権力者なのに、こんなに思い通りにならないのはおかしいだろう』

 アデルはその文面を読み返し、思わず笑う。そもそも貴方が今まで自由すぎたのです、と心の中で揶揄う。


 ふと窓の外を見やると、次の季節の気配が漂っていた。

 夏が来れば、王都では社交シーズンが始まる。アデルはいつもより早めに王都へ戻ることを決めた。ラグナルが逸る気持ちを抱えているのを知っているからだろうか――それとも、王都で何か新しい動きが待っている予感がするからだろうか。


 その理由を確かめるのは、もう少し先のことになりそうだ。


【王と弟の密談】

 

 夜の雨音が静かに染み渡る、王宮の執務室。宵闇が訪れる中、アーサーは重厚な椅子に深く腰掛け、目の前の弟を見据えていた。

 ラグナル・アヴェレート。王弟であり、宰相として兄王に仕える男だ。

「さて、北部での件だが、無事に収束したと報告を受けている。詳細を話せ」

 アーサーの低く威厳ある声に、ラグナルは軽く顎を引いて答えた。

「はい、兄上。ダモデス公爵に端を欲する、北部内の軋轢は無事に解決しました。カレスト公爵の尽力によるものです」

 ラグナルは穏やかな声で事件の経緯を語り始めた。

「ダモデス公爵が北部内で行っていた賄賂。彼女はその情報を活用し、公爵を説得し協力体制を構築したのです」

 アーサーは目を細めた。

「ダモデス公爵の手強さは知られている。それを協力させたとは見事だ。だが、カレスト公爵は一体どのようにして、その不正を掴んだのだ?」

 ラグナルは一瞬だけ微笑を浮かべた。

「私の間者を使わせました」

 途端に執務室の空気が凍りついた。


 アーサーは沈黙した。弟の言葉を上手く飲み込めない、と言わんばかりに。しかし次の瞬間、彼の表情が厳然たる王のそれへと変わる。

「間者を、他家の公爵に、使っただと?」

「はい」

 ラグナルは涼しい顔で頷く。

 アーサーは手元の杯を震えながら置き、椅子から身を乗り出した。

「お前、正気か? お前の間者の存在は王家にとって最大級の機密だ。それを軽々しく他家の争いに持ち出すとは、貴様、何を考えている!」

 ラグナルは穏やかに手を広げて答えた。

「結果的に、問題は起こらなかったではありませんか」

 アーサーの顔が引き攣った。

「問題が起きていればどうなったか、分かっているのか!? 間者の存在が露見したら、北部は崩壊し、王家の威信は地に堕ちる。最悪の場合、王国全体が混乱に陥ったかもしれないんだぞ!」

「カレスト公爵がそんな失態を犯すはずはないでしょう」

 ラグナルの声は相変わらず冷静だった。それがアーサーをさらに苛立たせた。

「馬鹿者! どれだけ肩入れしてるんだ!」

 アーサーは椅子に身を投げ出し、額に手を当て、呟いた。

「……お前は確かに目的のためならリスクを厭わない、大胆な奴だとは思っていたが……ここまで来るともはや軽率だ」


 ラグナルはそんな兄の姿を目にしながら、自分の行動を省みていた。

 確かに今回の策は、王家にとって大きなリスクを伴うものだった。

 ラグナルは、アデルが不覚を取ることの心配は一切していなかった。しかしその証拠をもって、王家に告発でもされたらどうしようかとは思っていた。

 もし告発されれば、王家はダモデス公爵を断罪せねばならない。ただでさえ十一年前の断罪が人々の記憶に根強く残っているのに、これ以上「苛烈な王家」の力を見せれば、「恐怖の王家」になりかねない。

 その時は自分の政治生命を差し出して責任を取ろうと考えていた。


 その覚悟の上で、それでもラグナルがアデルに託した理由はいくつかあった。

 純粋に助けになりたかった思いもあるし、彼女を自分に縛り付けたかったことも本音だ。

 ただ最も欲動に根差した理由を挙げれば、これに尽きる。少ない手数の中でも可能性を広げられる彼女に、強大な武器を渡したらどれだけ彼女の知性が輝くのか。ラグナルはそれを見たかった。

「ダモデス公爵を脅して屈服させれば及第点」――ラグナルも最初はそう考えていた。しかしアデルはそれを超えた。脅しも暴力も用いず、ダモデス公爵の心に生まれた恐れと期待を巧みに操り、あらゆる利害を一つの未来に収束させたという。ラグナルは、アデルにも内密で、その場に仕込んでいた間者からの報告で聞いた。

 あの日の会議室、アデルは王家にとっても最善の選択を成し遂げたのだ。


 ――彼女は、こちらの想像を遥かに超えて、未来を描き変えた。これほどの知性の煌めきを、どうして愛さずにいられるだろうか……。

 

 ラグナルの胸が微かに高鳴る。アデルに心底惚れ込んでいる自分を、彼はもはや否定できなかった。


「そこまで肩入れするからには、彼女と結婚するつもりだな?」

 アーサーの言葉に、ラグナルは目を伏せた。

「……彼女とは特別な関係ではございません」

 その瞬間、アーサーの顔が青筋を立てるほど怒りに染まった。

「何が特別な関係ではない、だ! そこまで肩入れしておいて何を言っているんだ!」

 ラグナルは眉を軽く上げただけで、落ち着いた声で答えた。

「兄上、私の行動はただの友好の一環です」

「嘘をつけ!!」

 アーサーの怒声が部屋に響いた。


 アーサーは、再び椅子に沈み込むと杯を掴んだ。もはやラグナルの言葉の何を信じたらいいのか、アーサーにもわからなくなっていた。

「本当に、お前というやつは……何故そう危ない橋を渡りたがるのだ……」

「兄上の剣術指南に耐えた日々の方が、私にとってはよほど綱渡りでしたよ」

 ラグナルの減らない口に、アーサーは脱力した。しかし気を取り直し、真正面からラグナルを見据える。

「だが、これ以上危険な行動は許さん。分かったな?」

 ラグナルは微笑を浮かべ、軽く一礼する。

「もちろんです、兄上」

 執務室を去るラグナルの背中を見つめながら、アーサーは深く息を吐いた。

「厄介な弟だ……しかし、その厄介さに何度も助けられているのもまた事実」

 アーサーは酒杯に口をつけつつ、ひとり呟いた。

「……ただの『友好』の相手の話で、あのように目を輝かせるものか」


 ラグナルの常軌を逸する行動が、アデルへの愛を物語っていた。そして、それを隠し通す彼の冷静な顔が、ますます兄を苛立たせる原因となるのだった。

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