第六話:策略が紡ぐ千年先の未来
【本当の目的】
時は少し遡る。
アデルがダモデス公爵との会談を不発に終えた日のこと。彼女はラグナルと「国家の発展と安寧のために」親交を深めていた。
アデルはラグナルの膝の上に腰掛け、彼の腕が腰に回る心地よさを堪能する。
「ところで、ダモデス公爵領での首尾はいかがだったかな?」
ラグナルの声が、興味深げにアデルを捉える。
「うまくいったわ」
アデルはニヤリと笑うが、その後ため息をついた。
「王家の間者の働きぶりは見事だわ。まさか、かの領地の中枢でも働いているとは」
アデルの皮肉の裏に、畏怖が滲み出す。
ダモデス公爵との会談後、アデルは秘密裏に街外れへ向かった。ラグナルから渡された印章を手に、指定された倉庫で待ち始めてわずか数分。黒いフードを被った二人の男が現れた。
彼らは印章を確認すると、深く頭を下げた。
「殿下のお心に従い、ご依頼されたものをお持ちしました」
その言葉の響きに、アデルは内心で息を呑んだ。彼らの口ぶりには、ラグナルへの強い敬意が込められているように感じられた。
間者達から渡された情報の正確さに感心する一方で、彼らの忠誠の向かう先に、どこか釈然としないものを覚えていた。
――ラグナルは微笑んだが、その目はどこか暗い。
「君のところにはいないから安心していいよ」
その言葉には微かな嘘の匂いが漂っていた。アデルは無言で彼を見つめ、視線を鋭くした。
アデルはダモデス公爵領へ、表向きには会談のために出向いた。しかし本当の目的は違った。ダモデス公爵家の不正の証拠を手に入れることだった。そして証拠が山のように出てきた。北部地域に拠点を持つ各家に、次々に無茶な賄賂を行っていた。
「資金援助、土地価格の再評価、商業路の権益独占……どれもこれも、金額や時期、頻度が尋常じゃない。壮大な企みでもしているようだわ」
証拠を手にしたときの驚愕は、今でもアデルの胸の中で小さく震えていた。
「それだけアデルを脅威に思っていたのだろう。ダモデス公爵の評価は正しいよ」
アデルは少し迷いながらも、ラグナルに問いかける。
「この証拠、本当に私が自由に使っていいの?」
彼女はその重大さを正しく認識していた。自分が手にした証拠がどれほど強力であるか、その影響力がどれほど大きいかを。
「あの部隊については僕に全権があるから問題ないよ」
「そういうことじゃなくて……」
ラグナルは彼女の耳元で囁く。
「構わない。アデルを信頼しているし……」
その後、彼は軽く彼女の唇にキスをしてから、もう一度言葉を続けた。
「君に、気前の良いところを見せたいから」
ラグナルの言葉は、まるで穏やかな調子で差し出された贈り物のようだった。しかし、アデルは感じ取っていた。その裏には単なる計算や策略を超えた、狂気じみた愛と信頼が潜んでいることを。
この証拠を渡す重さ。それを一言で片付けてしまう彼に、アデルは戦慄すら覚える。
「どんな宝石やドレスよりも豪華なプレゼントで、眩暈がするわ」
アデルは自分の身に捧げられた破格の待遇に、目を遠くした。それは、王弟ラグナル・アヴェレートと一蓮托生の身になった証である。ある意味では結婚誓約書よりも重たいものであった。その判断の源泉は、彼女を捕まえておこうとする支配欲。あるいは、彼自身の首すら託す覚悟。
――この男……本当に狂っている。だけど、その狂気が私を魂の片割れとして認めてくれている……。
単なる恋人には渡せない。単なる政治家には託せない。魂の片割れだからこそ、彼自身を預けてくれたのだ――ラグナルの微笑みの奥に潜む、底知れなさ。それを拒絶するどころか、誇らしさを感じてしまう自分に、アデルは戸惑いを覚えた。
一方、ラグナルはアデルの反応を見つめ、ゆるく笑みを浮かべた。彼女がこの行為を受け入れた。その喜びと満足感が胸を満たしながらも、彼の奥底には別の感情が潜む。
――もうアデルは後戻りできない。
彼女が自分を裏切ることは許されない。そんな状況を作り出したのは他でもない自分だ。それでも、彼女は自ら選び取ったのだ。ならば、彼女の命と立場を守るのは自分の役目だ――ラグナルの口角に、微かに勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。しかしその裏には、彼自身さえも測りかねる昏い喜びが横たわっていた。
【女狐の罠】
北部会議当日の朝、アデルは中央図書館にて、ダモデス公爵を迎え入れた。彼からは事前に、会議前の会談を申し入れられていた。
アデルにとって予見の範囲内だった。この北部地域の盟主を自負する人物が、カレスト公爵家の招集にただ従うだけで終わるはずがない。むしろ、彼が会議の空気を制圧しようと事前に動くのは必然だ。
図書館内の談話室にダモデス公爵を案内する。室内にはいくつかの大きく重厚な本棚が立ち並ぶ。冷えた空気が漂い、重い雰囲気が広がる。
ダモデス公爵は早々に、口を開いた。
「最近、北部地域の治安が悪化しております。その対策として、大規模な治安維持部隊を投入するのはいかがでしょう。その部隊は我が領地を中心に配置し、各領地の安全を確保するものです。もちろん、費用はいただきますが、北部地域の安全保障と団結という価値には変えられません」
ダモデス公爵は流暢に語る。要は「みかじめ料」である。しかし荒唐無稽な話でもない。ただその費用を支払い続ければ、工賃に影響が出る。本末転倒だ。
ダモデス公爵の提案を最後まで聞ききった後、アデルはため息をついた。ダモデス公爵は眉を顰める。
「アデル嬢、何かご不満でも?」
「ダモデス公爵、私ね、貴族同士で『便宜を図る』ことは悪いことと思っておりませんのよ」
アデルは、希望の女神に捧げるための笑顔を浮かべた。
「でも、ちょっとやりすぎではありませんこと? まるで、北部地域での独立と謀反を企んでいるようではありませんか」
その一言が、ダモデス公爵を一瞬で硬直させた。
【千年先の歴史書に残る偉業】
ダモデス公爵の視線がわずかに揺れる。アデルが何を知っているのか、どうしてここまで深く突っ込んできたのか、彼の頭の中で計算が始まる。
「こんなことが王家に知られたら……十一年前の大事件の再来になるのでは?」
アデルの赤の唇が、隠していた牙をダモデス公爵に向けた。
ダモデス公爵の脳裏に、フォルケン家の断罪事件が浮かぶ。栄華を極めたフォルケン家の当主が、断頭台を前に気高さも誇りもない死を迎えた。その断頭台が、今度は自分に向いている。
――この女狐、恐らく全て知っている。下手な取り繕いが命取りになる……!
並の政治家なら、僅かな可能性をかけてシラを切ったことだろう。しかしダモデス公爵の老獪な直観が、それは愚策と察知した。アデルは確定的な何かを持っている。それが証言か、物証かはわからない。ただそれを追及すれば、今度こそ逃げ場はない。
自身の首にかかった死神の鎌を幻視し、ダモデス公爵は沈黙を選んだ。
「私、仲間外れにされて、悲しかったのですよ」
アデルは役者のように言葉を重ねた。
「ねぇ、公爵。もし私をお仲間にしてもらえたら、こんな未来を想像しているの。王都とカレスト公爵領の交易幹路が繋がれば、それは北部地域にとっての最短経路でもあるわ。その幹路から、ダモデス公爵領に繋がり、各領地をつなぐ道を、北部地域の大動脈とするの」
ダモデス公爵は無言でアデルの話を聞いていた。アデルは続ける。
「幸いなことに、ダモデス公爵領は、これまでの長年の北部地域への投資の甲斐もあって、他領との通路が整備されておりますし、ハブとして機能しますわ。それに、最近、お仲間の皆様に便宜を図っていらっしゃる。その権益をそのまま活かせば、あら不思議! 北部大動脈に、栄養を運ぶ血液が流れ始めますわ」
アデルのわざとらしい明るい声は、ダモデス公爵の緊張に弛緩を与えた。ふとその脳の傍に、幻が浮かんだ。カレスト公爵領からダモデス公爵領へ、多くの人・物・金が行き交う流れ。北部の中継地点として街は賑わい、領民は豊かな生活を送る。絶望の最中で、暖かく幸せなイメージが朧げに浮かんだ。
アデルは畳み掛けるように言葉を続けた。
「二つの公爵領が隣接しているせいで、私たちは長年、お互いに消耗し続けてきました。もう、終わりにしませんか。あなたは、北部地域の誇り高い盟主である。私は、王家との連携ができる。この両家の強みを、北部地域、ひいては国家の発展のため、活かしていこうじゃありませんか」
ダモデス公爵は、再び黙り込んだ。数瞬の沈黙が室内を支配する。アデルが彼を圧倒している。しかしその中にあっても、彼女がダモデス公爵の立場を尊重しようとしていることに、彼は薄々気付いていた。
「ああ、そうそう」
アデルは思い出したように付け加える。
「私、婚約破棄されてから、ずっと自助自立で生きてきました。ですので、自領より弱い領地に配慮はしても、わざわざ面倒見るなんて、ごめんですわ。そんなことができるのは、親分肌な狸ジジイくらいでしてよ」
もはや悪口だった。しかしそこには、ダモデス公爵に対する深い賛辞が込められていた。それはどんなに聞こえのいい称賛よりも、彼の心を打った。
やがてダモデス公爵は豪快に笑い出した。
「いやぁ、素晴らしい。まいりました。貴女のご慧眼には敵いません、カレスト公爵」
ダモデス公爵の顔に浮かんだ笑みは、今度は本物だった。
「貴女の話は大変興味深いものでした。一部、その賢さが先走って、事実認識に違いはありましたが――まぁ今となっては瑣末な話です」
あくまでダモデス公爵は、自分の非を認めない。しかしそのことは既に、二人の論点ではない。
「カレスト公爵領と我が領地を繋いでいる道の強化をしなくてはなりませんな。しかしカレスト公爵領では、工事に人手が取られて手が回っていない模様。そこで、いかがでしょうか。我が領地の優秀な建設チームにご発注いただくというのは」
アデルは満足げに微笑んだ。
「願ってもないことですわ、ダモデス公爵」
「急ぎ、契約書を作らせましょう」
ダモデス公爵はそのままアデルに手を差し伸べた。アデルもそれを受け入れる。
「北部地域が国家の『千年の団結』の礎となることを祈って」
アデルは手を握りしめながら、言葉を返す。
「千年先の歴史書に名前を刻む偉業になりますわ」




