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第五話:北部の歴史が動いた日

【王弟の帰還】


「ではアデル嬢、ご武運を」

「ええ、ラグナル様も道中お気をつけて」

 翌朝、ラグナルはカレスト公爵家を後にした。馬車が公爵邸から遠ざかる度に、ラグナルは後ろ髪を引かれる思いだった。

 ラグナルの馬車に同伴するのは、護衛部隊のリーダー、カイエン。しかしこの男は、王家に仕える身でありながら、ラグナル個人に忠誠を誓う間者でもある。

「殿下。本当によろしかったのですか、公爵領を離れて。本番はこれからだと思いますが」

 部下の常識的な疑問に、ラグナルは表情一つ変えない。

「問題ない。むしろ私がここに滞在することが、彼女のリスクになる」

「……つまり、ここから先は、カレスト公爵一人の戦いだと?」

 カイエンが言葉を慎重に選ぶ。ラグナルが頷いた。

「私の肩入れがあったことが知られれば、王国が崩壊しかねない」

 ラグナルの言葉に、カイエンは言葉を失った。少しの間を置き、カイエンが尋ねた。

「なぜ、そのような危ない橋を渡ったのです?」

「その先に王国の未来があるからだよ」

 ラグナルの言葉に一切の迷いがない。その覚悟に、カイエンが息を呑む。

「そこにある未来を、先延ばしにする理由はない。それは無能か怠惰の言い訳だ」

 厳粛な響きだった。それはラグナルの政治信念。カイエンは、その覚悟を前にして、黙して頷いた。


 ラグナルがカイエンに言わなかったことがある。ラグナルは、アデルにこの国の未来を見ていた。彼女の知性がこの国のために輝く瞬間に、魅了されていた。彼女の思考はいつでも未来的で、建設的で、希望に満ちていた。

 その希望の灯火を守ることこそが、王国の未来を守ることであり、ラグナルの愛だった。


 ふと、ラグナルは昨晩のことを思い出す。自分の腕の中にすっぽりと収まっていたアデル。

 その細く柔らかい体に宿る、強い意志、知性の煌めき。彼女がどこまでもその知性を広げ、この国の未来を魅せてくれることを、ラグナルは願っている。

 その反面、この華奢な彼女を自分の元に縛り付け、その柔肌ごと自分の存在に沈めてしまいたいとも思う。

 彼女に対する敬意と支配欲。その相反する感情が、ラグナルに酒精にも似た酔い心地をもたらしていた。


【ダモデス公爵の大義】


 ダモデス公爵は、執務室の椅子に深く座り込んだ。そしてアデルとの会談を思い出す。

「女狐が……」

 ダモデス公爵は一人、憎々しげに呟く。そしてアデルの最近の動向について、この国の歴史と照らし合わせながら洞察する。


 この国にはかつて六つの公爵家が存在していた。

 そのうちの一族、「フォルケン家」は、建国以来の歴史を誇った。

「第二の王家、フォルケン公爵家」

「フォルケン一門でなければ出世なし」

 フォルケン家を讃える定型句は枚挙にいとまがない。

 フォルケン家は他の公爵家ですら太刀打ちできない財力・権威で圧倒していた。その力を持って、他領地への内政干渉や妨害は日常茶飯事だった。


 特に前カレスト公爵は、フォルケン家によって様々な制約を受けていた。

 天然の要塞である北部地域で、最も王都に近いカレスト公爵領。フォルケン家は、その地政学的有利さを獲得しようとした。前カレスト公爵が妻を早くに亡くした後、フォルケン家が親戚の娘を送り込もうと画策した。しかし――。

「私の愛は未来永劫、彼女のもの。若くして儚くなった彼女への手向けです」

 前カレスト公爵が放った言葉が、ダモデス公爵の耳に蘇る。


 ――故人を引き合いに出されれば外野は何も言えまい。だが、言葉通りの理由だけではなかっただろう。


 前カレスト公爵は後妻を娶らなかった。それがフォルケン家の不興を買った。

 その結果、前カレスト公爵は、周辺のインフラ整備すら進めることができなかった。


 しかし十一年前、フォルケン家はその歴史に幕を閉じた。『ある事件』をきっかけにして。

 フォルケン家の当代夫妻と次期当主は断首、公爵家が取り潰されるという前代未聞の事態が起きた。

 王家は、その苛烈さをもってフォルケン家を断罪した。一切の情けをかけることなく。

「王家は歴史的な英断を下した」

「建国以来の家を取り潰すなど、慈悲がない」

 国内の賛否は割れた。しかしいずれにせよ、王家の圧倒的な力を認めるものだった。


 この政局の混迷はしばらく続き、その最中で前カレスト公爵が急逝。アデルが正式に爵位を継いだ。女性の公爵位は異例。しかしその選択が正しかったことは、その後のアデル自身が証明する。

 アデルは当初、王家とも距離を置き、自助自立で領地経営をした。しかしいつからか、王家と緩やかな協力関係へと移行した。そしてここ半年ほどで、政治的なパートナーシップとして明確になった。王弟ラグナルの帰国が契機になったことは間違いない。


 ――またよりによって、厄介な男と手を組みおって。


 ダモデス公爵には一つの直観があった。王家の苛烈さの真髄は、ラグナルにこそあるのではないかと。

 アデルがそのラグナルと接近しているのは、自身の立場を脅かす動きだと感じていた。王家とカレスト公爵家が手を組んだ場合、ダモデス公爵家の支配力に対して直接的な脅威となる――この仮説は、ダモデス公爵の精神を揺さぶるには十分な説得力を持っていた。


 ダモデス公爵は、王家の力を正しく認識し、アデルの実力も十分に評価していた。自領とカレスト公爵領は隣接し、利益が衝突しやすい。更に、もしカレスト公爵家が野心を持てば、その影響力は国内全土にまで及びかねない。

 北部から第二のフォルケン家を誕生させてはならない。それを強く心に誓ったダモデス公爵は、保身を超えた覚悟を決めていた。


「北部会議……か」

 ダモデス公爵は、アデルから届いたカレスト公爵領への招待状を手に取ると、低く呟いた。

「あの女狐の良いようにはさせまい」

 ダモデス公爵は、急ぎアデルへ手紙を書いた。


【北部会議当日】


 ある男爵が、カレスト公爵領の中央図書館の前に辿り着いた。北部の建築様式を、更に洗練させた質実剛健の外観。その周囲を、花壇が彩る。これだけ立派な建物にも関わらず、平民たちに開放されているという。つまりそれは、領内の識字率の高さの裏返しだ。

「この地は別格だな……」

 男爵の飾らない本心が、思わずこぼれ落ちた。


 図書館最上階の会議室に入ると、すでに何人かの貴族たちが席に着いていた。男爵は軽く頭を下げ、空いている席に腰を下ろす。目の前に座る伯爵が、男爵に小声で話しかけた。

「さて、今日の議題は治安維持だが、どうなることやらな」

「カレスト公爵がどれだけ訴えても、あちらの公爵殿の支持を得るのは難しいでしょう。いつものことですね」

 男爵は肩をすくめるように言い、視線を伏せた。

 部屋の空気は、まるで重く張り詰めた弦のようだった。出席者のほとんどがダモデス公爵派に属している以上、カレスト公爵の提案が通る可能性はほとんどない。


 会議が始まるまでの間、参加者たちはのんべんだらりと、噂話に勤しむ。

「そう言えば聞いたか? 教会の元聖女が、このカレスト公爵家と提携して薬剤開発しているらしい」

「薬剤なんて、これまたリスクの大きいことを。いよいよカレスト公爵も、教会に睨まれるんじゃないか」

「それが、どうも様子が違うらしい。むしろ最近、教会で騒動があって、派閥の力関係が変わったらしくてな……」

「まさかカレスト公爵の差金じゃないだろうな……」

 その場の貴族たちが震え上がった。彼らは、あの赤い唇を思い出した。その口が、『神の裁きを受けるのはカレスト公爵家か、教会か。試してみるのも一興ですわね』と宣戦布告するのが聞こえた気がした。


 やがて、会議室の扉が開いた。カレスト公爵とダモデス公爵が同時に入室する。二人の姿に、部屋中の視線が集まった。

「一体、何が始まるんだ?」

 隣の伯爵が小声で呟いたが、答える者はいなかった。

 カレスト公爵は、ゆっくりと会議室の中央に進み出た。その顔には、いつも通りの自信に満ちた表情が浮かんでいる。そして、彼女の横に並ぶダモデス公爵は、意外にも穏やかな微笑を浮かべていた。

「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます」

 カレスト公爵が朗々とした声で口を開いた。その場にいる誰もが、次の言葉を待つ。

 

「カレスト公爵家とダモデス公爵家は、北部地域全体の発展のため、共に手を取り合い、この王都への交易幹路開通事業を進めることになりました」

 

 その瞬間、会議室はどよめきに包まれた。驚愕の声に、椅子と床が擦れる音で、会議室が満たされる。

「手を組む……だと?」

 男爵は信じられない思いでその言葉を反芻する。隣の伯爵も同じように、目を見開いていた。

「まさか……」

「一体、何があってそうなった?」

 二人の囁き声は、喧噪の中に溶けて消えた。カレスト公爵とダモデス公爵の表情は、まるで全てを掌握しているかのように余裕に満ちていた。男爵は自分の胸の高鳴りを抑えながら、この突然の展開に飲み込まれていった。

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