第四話:アデル・カレストの優雅な疲労回復法
【策略家ラグナルのプレゼント】
数日後、ラグナルがカレスト公爵邸を訪ねてきた。彼はアデルと領地の現状をすでに知っている。応接室に入るなり、笑みを浮かべて言った。
「アデル嬢、あなたがこの状況でもしっかり耐えていると聞いて、安心しましたよ」
アデルは疲れた顔を隠すように微笑みを返した。
「ラグナル様。あの狸を鍋にするまでは、倒れていられませんわ」
アデルが涼やかに言い放つと、ラグナルは少し目を丸くした後、くつくつと笑い声を漏らした。
「狸山に帰す気はさらさらないと。良いでしょう」
彼は手にしていた書簡を軽く振った。
「それなら僕も一役買わせてもらいます。鍋にするなら、素材の準備も重要ですからね」
「お任せしますわ、ラグナル様。私は腕を振るうだけです」
アデルの目に強い意志が宿る。ラグナルは満足げにうなずいた。
ここから先は貴き者たちによる策略の時間だ。アデルは人払いをし、ラグナルと向き合うようにソファへ腰掛けた。
ラグナルは書簡を軽く指先で叩きながら、語り始めた。
「ダモデス公爵の要求は、一見正当な治安維持の訴えに見えるが、逆にこちらに付け込む余地がある」
アデルはその先を促すように、頷いた。ラグナルが続ける。
「治安維持を理由にするなら、彼ら自身の領地でも同じ課題があるはず。協力という形で我々が提案すれば、向こうは断る理由がない」
「それでも、その大義名分を拒否するなら、後ろ暗い事情がある、ということね」
アデルがラグナルの言葉を引き継ぐ。
「その通り。それを明らかにすれば、主導権はこちらのものだ」
ラグナルの視線が微かに鋭さを帯びた。
「ただ、ダモデス公爵の立場を考えると、その裏を突き止めるのは簡単ではないだろう。北部の盟主として、表からも裏からもあらゆる手配をしているのは明らかだ。例えば、男爵家や子爵家を引き込んで情報を得ることも可能かもしれないが――」
ラグナルがそこで区切ると、アデルがその続きを拾った。
「裏を明かすための王道ではあるけど、遠回りすぎるわね。あと、この手の離反工作は、往々にして禍根を残す上に、家名に傷をつけかねない」
アデルは毅然とした口調で、その方法を退けた。そして顎に手を添えて、深く考え込む。
「本丸の狸さえ鍋に入れてしまえば話は早いのよ。いっそ南部地域のルーシェ公爵あたりを味方につけて、南北交易の利潤を盾に、黙らせてしまおうかしら? でもそうすると今度は南に借りを作ることになって、別の問題が起きそうだし……」
アデルは足を組み替えた。
「もしくはこんな手もあるわね。狸の関心はいつだって北部地域に対する影響力。だけど私が北部の領地と産業提携を進めれば、彼は焦り出すはず。それをもって、協力交渉に持ち込むか」
次から次へと出てくる解決策。
ラグナルはそれらを楽しげに聞いていた。まるで物語を聴く子どものように。
「……ラグナル、貴方、楽しそうにしてるけど、ちゃんと考えてる?」
「君のアイデアを聞くのが、僕の至福の時なんだよ。許して欲しい」
アデル、脱力。そして「ほんと、戦略フェチ……」と小声で呟いた。
そんなアデルの声は聞こえなかったのか、ラグナルは言葉を続けた。
「君なら、時間をかけてでもこの問題を対処できるだろうね。でもまぁ――」
ラグナルは意味深に間を置く。そして口角を上げた。
「どうせ同じ結果なら、早期解決した方が得策だと、僕は考える」
その一言にアデルは一瞬動きを止めた。彼女の瞳がラグナルを探るように揺れる。
ラグナルはその視線を軽く受け流し、親しげな笑みを見せた。
「これは僕からの個人的なプレゼントだよ」
ラグナルは楽しげに囁いた。
【お嬢様扱い】
「これはアデル嬢、ようこそお越しくださいました。お忙しい中、恐縮でございます」
アデルは端正なドレスを纏い、ダモデス公爵邸を訪れていた。
ダモデス公爵はアデルを応接室に通すと、侍女に茶を運ばせた。そして悠々と椅子に腰を下ろす。
「それで、ご用件とは?」
「もちろん、交易幹路の件ですわ」
アデルは、交易幹路がもたらす北部地域のメリットについて説明し、治安維持の協力を仰いだ。彼女の合理と熱意は明らかだった。しかし彼は終始曖昧な笑みを浮かべていた。
「なるほど。実に壮大な計画ですね」
彼は感心したふりをしながらも、言葉の端々に冷ややかさを滲ませた。
「ですが、まあ、道路整備となると費用がかさみますし、環境への影響もございます。ご令嬢の熱意は素晴らしいですが、あまり無理をなさらないほうがよろしいでしょう」
「だからこそ、ダモデス公爵閣下のお力添えが必要なのです。北部全体の発展のためには、皆様の協力が欠かせません」
しかし、ダモデス公爵は頑なだった。
「確かにそれは理に適っていますが……。ああ、それにしても前カレスト公爵がお元気だった頃、このような議題で悩むことはなかったのですがね。あの方は素晴らしい方でした。貴女のような可憐な令嬢が、泥臭い土建業に関わる姿を見たら、さぞ悲しまれることでしょう」
その言葉に、アデルの表情がわずかに引きつる。しかしダモデス公爵は構わず続けた。
「ご令嬢はもっとご自身に似合う華やかなことに目を向けるべきです。そう、例えば、舞踏会の主役になるとかね」
嘲笑を帯びた声に、アデルは深く息を吸い込み、気持ちを鎮めた。
ダモデス公爵は立ち上がり、会談の終わりを示すかのように手を差し出した。
「ご令嬢の情熱には感銘を受けました。しかし、ご自身の体調もご自愛ください。お若いお嬢様には、お嬢様にふさわしい役割があるものです」
アデルは微笑みを浮かべたまま立ち上がり、その手を握り返した。
「貴重なお時間をいただき、感謝いたします、公爵閣下。今後ともよろしくお願いいたします」
アデルは「握った手に爪を立ててやろうか」と思う気持ちを、必死で抑えていた。
【王国の発展と安寧のため】
ダモデス公爵邸を後にしたアデルは、少しの寄り道のあと、半日もかからずカレスト公爵領の自邸へと帰還した。カレスト公爵領を結ぶ整備された道――それがまた腹立たしい――を進む間も、ダモデス公爵の皮肉たっぷりの言葉が頭を巡る。
カレスト公爵邸では、応接室にてラグナルが待っていた。彼はゆったりとソファに腰掛けていた。従者たちが控えている手前、ラグナルは行儀良く「いかがでしたか?」と尋ねた。
アデルは微笑みを浮かべた。そして使用人たちに目配せをし、部屋を下がるよう指示した。扉が閉まると同時に、取り繕っていた微笑みが消えた。
「あの、狸ジジイ!」
部屋の外に控えていた執事と侍女は思わず目を見合わせた。
ラグナルは目を丸くして、苦笑いを浮かべた。
「大丈夫かい?」
その声に、アデルの怒りが一瞬和らぐ。アデルはラグナルの元へ駆け寄った。そのままラグナルの膝の上に腰を下ろし、首に腕を回して抱きついた。
「ずいぶん甘えん坊だな」
ラグナルのからかうような声に、アデルは唇を尖らせた。
「今は貴方が私の疲労回復剤よ。王国の発展と安寧のためにも、思う存分甘やかして」
その言葉にラグナルは目を細め、彼女を優しく抱きしめながら頭を撫でた。
「それは大役だ」
そう言うと、彼はアデルに深いキスをした。彼女を愛おしむようにその髪を撫で続ける。
ラグナルの指がアデルの髪を滑るたび、アデルの肌に慎ましやかな悦楽が走った。
ラグナルの香水がふわりと漂う。その慣れ親しんだ優しい香りが、アデルに安らぎをもたらす。
アデルはラグナルの腕の中で、時の流れを忘れたかのように、ただ彼の温もりに身を任せていた。そしてほんの少し顔を上げ、彼を見つめながら囁いた。
「貴方がいるから、私はまだ戦える」
ラグナルは微笑みながら、彼女をさらに引き寄せた。もう一度アデルにキスをし、そのまま深く彼女を抱きしめる。
「君と一緒に戦うのも、君を甘やかすのも、僕の使命だからね」
ラグナルの言葉に、アデルは乙女のようなため息をついた。彼の愛を感じる度に、体の疲労と心の重荷が溶けていく。
「それにしても、こんなに可愛い君を見られるなら、ダモデス公爵には感謝しないといけないな」
「絶対やめて」
アデルは不満げに眉根を寄せ、抗議のごとく、ラグナルに噛み付くようなキスをした。
一方、応接室の外。
執事と侍女が目配せを交わす。執事は深いため息をつき、肩をすくめることで言葉の代わりとした。侍女は小さく頷きながら、顔に微かな苦笑いを浮かべた。




