第一話:貴き者たちの思惑
【平和の証拠】
夜風の冷たさの中に、芽吹きの香りが混じるようになってきた。
王城では王の私室にて、アーサーとラグナルが酒を酌み交わしていた。早春の夜気が、酔い覚ましにちょうどいい。
「ラグナル、よくやった。先日の議会で、交易通路整備の議案が可決されたのは、大きな前進だ」
ラグナルは軽く杯を傾けながら応じた。
「議会の空気をまとめてくださったのは兄上です。私はただ、各地域の意見を整理したに過ぎませんよ」
「謙遜するな。お前が議会前に動いていなければ、あの議案がここまで順調に進むことはなかった」
二人の兄弟が政権を回すようになり、八ヶ月が過ぎた。その間、アーサーは政策論点を次々と明示し、ラグナルが貴族たちの複雑な利害を調整した。貴族だけでなく平民も、時代の変化の気配を感じ取るほどに、その影響が及んでいる。
アーサーはワインを一口飲む。
「国中の交通網が整備されれば、商業も活発化する。王都とカレスト公爵領を結ぶ交易幹路も、王国全体の発展に寄与するだろう」
更にアーサーはワインを飲む。その度に、少々饒舌になっていた。
「カレスト公爵領の工事の詳細計画も、順調に着地したようだな。王家と公爵家の協力が、着実に成果を上げていることは心強い」
ラグナルはゆっくりと頷き、杯を軽く回してから答える。
「ええ、残すは着工するのみです。その後は問題が起きなければ、現場に任しても大丈夫でしょう」
「なるほど。しかし、そうなると、お前がカレスト公爵の元へ顔を出す理由も減るということか。少し寂しい気もするな」
「私が公爵家に足を運ぶのは公務の一環に過ぎませんよ」
アーサーは軽く笑いながら杯を傾けた。
「あの公爵領に足しげく通っているのも公務の一環、か。なるほどな」
「兄上、まるで王都のご夫人達のようなことを気にするのですね」
ラグナルはやれやれと肩をすくめ、チクリと皮肉を込める。
最近、王都ではラグナルとアデルに、物語のような恋を期待するご夫人達の一派が存在していた。その熱量は凄まじい。ラグナルとアデルをモチーフにした商品が飛ぶように売れたり、ラグナルとアデルも参加する着工式典への申込が殺到していたりする。
さらにはその様子を見た吟遊詩人が何の感銘を受けたのか、「王国夫人の最新事情〜蒼珠と雪薔薇の誘い〜」を歌った。これが近隣諸国にも広まり、王国の新たな文化様式として認知されつつある。
「良いではないか。女性が恋愛話で盛り上がれるのは国内が平和な証拠だ。そしてお前達の関係への支持は、王家と政策への支持にも繋がる。馬鹿にはできないぞ」
「まさかこんな形で王家の支持層が広がるとは思ってもみませんでしたよ……」
ラグナルも、流石にご夫人達の熱意までは読めなかったようで、ただひたすら困惑していた。意図的に噂を放置していたツケである。
今日も王都の夜は穏やかに更けていく。
【先代の思い】
いよいよ交易幹路の着工の日が訪れた。
着工式典には、王家や関係者が顔を揃え、事業の成功を祈願した。アデルもまた舞台上で挨拶をし、胸の内に新たな責任感を覚えた。
ただ、挨拶中、「ラグナル・アヴェレート殿下による多大なご支援のもと」と述べた瞬間のこと。参加していたご夫人たちが目をキラキラとさせながら、皆一様に同じ詩入りの扇子を広げていたことが気がかりではあったが――「蒼珠と雪薔薇を繋ぐ道、千年先の王国に至る」。
王都では珍妙なものが流行るものだと、アデルは困惑しながら、無事に挨拶を終えた。
その夜、アデルは知る。ラグナルと秘密裏の逢瀬を楽しんでいた最中だ。
「あれは推し活というそうだよ。僕たちの関係に『尊さ』を見出して応援してくれているらしい」
「はぁ……?」
更にラグナルから説明を聞くも、聞けば聞くほど脳が理解を拒む。最終的にアデルは、「不敬罪にできないの!?」と、顔を真っ赤にしながら取り乱した。それを見たラグナルが、「こんなに可愛い君が見られるなら、推し活も悪くないね」と上機嫌だった。それがますますアデルを錯乱させるのだった。
そんな一幕もありつつ、アデルは王都から領地へ帰還した。領地の道端にはまだ雪が残るものの、日差しが春を告げている。領民は相変わらず活気があり、そして穏やかだった。
カレスト公爵領には、王都の珍妙な流行は届いていない。そのことに安堵しつつ、「絶対にこの領地で推し活を流行らせない」と、アデルは決意を新たにした。
アデルはカレスト公爵邸に戻り、書庫へと向かった。大量の記録が保管されている部屋で、古紙の香りが漂う。
アデルは書棚の中から、一冊の記録を手に取った。父が遺した古い記録だ。薄く黄ばんだ紙の手触りが、時の重みを伝える。
その中の一節に、アデルは目を止める。
『これ以上、フォルケン公爵家の横暴に耐えるのは限界だ。しかし、彼らを倒す力が我が家にはない……』
フォルケン――かつて、王家すらその意向に逆らえなかった一族。その名は、記録の中に何度も現れる。彼らは、圧倒的な権勢でカレスト公爵家を押さえ込んだ。交易の要となる物流整備を阻み、あまつさえ実娘の婚約さえ破棄させたこと。彼らの横暴を、父は悔しげに綴っていた。
アデルはそっと目を閉じた。記録には、失意の中でなお未来を願った父の思いが込められている。それは単なる報告ではなく、託された夢そのものだった。
アデルは書庫から出て、バルコニーへと身を移した。遠景に、うっすら工事風景が見える。始まったばかりだが、父が見たかったであろう光景が少しずつ形を成していた。
「お父様……あなたの悲願は、きっと叶います」
その声には、父の無念を超え、新しい時代を切り拓く決意が込められていた。
【ダモデス公爵の策略】
カレスト公爵領の北上に位置する、ダモデス公爵領。
春の夜、ダモデス公爵は自らの執務室に、部下を集めていた。公爵は机に腰掛け、机の上に広げた地図に目を落としていた。その周りに側近たちが控えている。
「奴ら――カレスト公爵家は、王家の庇護を受けてやりたい放題だ」
ダモデス公爵は低い声で呟いた。その言葉に、側近たちは顔を見合わせる。
「しかし閣下、カレスト公爵領が発展すれば、北部全体の利益に繋がるという意見もございます」
執事が遠慮がちに進言する。
「それが、我が家の権益を脅かすものならば意味がない! 我が領地の威信が最優先だ!」
ダモデス公爵は一喝の後、視線を密偵の頭目に向けた。
「お前の手駒は、カレスト公爵領の現場に入り込んでいるか?」
「はい、既に数名を送り込みました。工事現場の近隣住民に接触し、外部の労働者との対立を扇動する計画です。また、近隣を根城とする野党団とも接触し、情報を流します」
密偵の男は冷静に答えた。
「良いぞ。その調子で続けろ」
ダモデス公爵は満足げに頷いた。
「必要なら、輸送隊に事故を起こさせるのも良い」
「しかし公爵閣下、それは王家に知られれば大きな問題に……」
執事が再び進言を試みる。
「知られなければ良い話だ!」
ダモデス公爵は椅子から立ち上がり、部下たちを一瞥した。その目には、揺るぎない野心と苛立ちが混じっていた。
「何も王家に楯突く気はない。ただし、北部の盟主として北部地域の安定を守ることこそが我々の使命だ。カレスト公爵家の台頭は、北部の均衡を脅かす」
ダモデス公爵は部下たちの目を見据え、言葉を続けた。一言一言、部下の心に刻みつけるように。
「忘れるな。我が公爵家は北部の歴史を担ってきた家系だ。その誇りをかけて、あの女狐の増長を食い止めなければならない。それが、我々にとっての大義だ」
部下たちは一斉に頭を下げ、「承知いたしました」と声を揃えた。その光景を見て、ダモデス公爵は冷たい笑みを浮かべる。
「カレスト公爵がどれほど手を尽くそうと、ここは我が支配する北部だ。そのことを思い知らせてやる」
こうしてダモデス公爵の策略は着々と進行していた。
一方、アデルの元にはラグナルから警告の手紙が届く。アデルもまた、事態の深刻さを認識し始めていた。




