第八話:男女の秘密は帳の中に
【夜の帳が下りる時】
応接室の蝋燭が揺れながら、二人を照らす。アデルは静かに語り始める。
「当時、オルフィウス侯爵家は政局に抗えず、私との婚約を破棄したの。ヴァルターは別の家の娘と結婚したわ。もちろん、そのときは悲しかったけど、もう十年も前よ。ヴァルターに対して今更個人的な好悪もないの」
アデルはふと目を伏せた。
「でも、今になってどうしてこんなことになっているのか、私にはわからないわ」
ラグナルは彼女の話に耳を傾けていた。聞き終わると、穏やかに答えた。
「正直、彼の気持ちはわかるよ。だって君はあまりにも魅力的だから」
そう言いながら、彼はアデルの髪を一房取ってキスをした。溢れんばかりの愛しさを込めた、丁寧な仕草で。
アデルは心地よい胸の高鳴りを覚える。そしてしばらく、彼の好きなようにさせた。いや、アデル自身が、好きなようにしていたのかもしれない。
しばらくするとラグナルがソファから立ち上がり、外套を整えながら軽くため息をついた。
「さすがにそろそろ王城に戻らないと。城の者に何を言われるか、わかったものじゃない」
アデルは微笑みを浮かべ、「それが賢明ね」と短く応じた。
アデルはわかっていた。ラグナルは嫉妬を見せながらも、オルフィウス侯爵との一件について、何も口出ししなかった。その処理は全て、アデルに一任したということだ。
それは信頼であり、試金石でもあるかもしれない。
アデルはこれからの対応を考え、頭が痛くなる思いだった。
ラグナルは扉の取手に手をかけた。しかし、その手が動く前に一瞬止まった。彼が振り返る。まるで何かを決意したように。そして再びアデルの前に立った。
「ラグナル?」と、アデルが問いかける間もなかった。
ラグナルはそっと彼女の顔に手を添え、唇を重ねた。触れ合いは一瞬だった。しかしその温もりと鼓動の高鳴りは、アデルの脳裏に鮮烈な衝撃を走らせた。
ラグナルは唇を離し、わずかに息を乱しながら目を伏せて告げる。
「ごめん。我慢できなかった」
その言葉を残して、ラグナルは今度こそ扉を開けて部屋を後にした。扉が秘めやかに閉じられる。応接室に残されたアデルは、その場で呆然と立ち尽くした。
しばらくして、ラグナルを見送った執事が戻ってきた。執事は控えめに咳払いをした。そして静かな口調で告げる。
「差し出がましいようですが、アデル様。成人とはいえ、未婚の男女がこのような時間に逢瀬をするのはいかがなものかと存じます」
アデルは一瞬だけ表情を曇らせた。しかしすぐに落ち着きを取り戻し、さらりと答えた。
「ご忠告ありがとう。彼と特別なことなど何もないわ。けれど、気をつけるわね」
執事はそれ以上何も言わなかった。
アデルはそのまま寝室に向かう。
寝台に腰を下ろすと、ゆっくりと横になった。ふと自分の唇に指を触れる。あの一瞬の感触が、熱を帯びたまま彼女の記憶に残っていた。
「……好き」
その呟きは小さく、彼女自身にしか聞こえなかった。吐息のような言葉は、冬の夜の冷たい空気に溶け込み、静寂の中へと消えていった。
【氷壁】
王都に公爵位を持つ家は存在しない。それは広大な領地と結びつく称号であり、都市に生きる貴族たちには縁遠いものだ。
しかしその中でも、代々爵位が継承される中で、「家格」が出来上がっていた。同じ侯爵家でも、資産・伝統・イメージ戦略などの優劣で、貴族たちからの評判が異なる。
そのトップとして直走る侯爵家がある。かの家は、王都の一等地に複数の土地を持ち、不動産賃貸業を営んでいる。王都の一流と見なされる事業――アルモンド・シティバンクやロシャール宝石商――が、その本拠地を構えるのが、かの家所有のテナントである。
特に当代の侯爵はその手腕を買われ、現在、大臣職として行政にも関わっている。夫人は、社交とパトロン活動によって、人々の尊敬を集めている――その名はロザリンド・マグノリア。
マグノリア侯爵家の立食パーティが、新年の社交シーズンの最後を締めくくる。
貴族たちは会場に着くなり、感嘆のため息をついた。都市的で洗練された装飾、季節感あふれる料理、ピアニストの即興演奏。
「素晴らしいパーティだ。さすが王都の名門貴族、マグノリア侯爵家と言わざるを得ない」
「随所にロザリンド様のセンスが光りますね。この調度品、我が家にも欲しいわ」
貴族たちは口々に、主催者を称賛する。
「あそこにいらっしゃるのは、東部地域のザルムート公爵夫妻ではないか。南部地域のルーシェ公爵もいらっしゃる」
「なんと、東西南北すべての公爵家が、一堂に介しているではありませんか」
「王家からも、マルガリータ王女とテオドール王子がいらしている。これほどの顔ぶれを揃えられるとは」
王家、五大公爵家を招くことができる侯爵家など、他にない。ゲストそのものが、マグノリア侯爵家の権勢を表している。
「あら、ウィンドラス公爵とカレスト公爵が、親しそうにお話されているわ」
「カレスト公爵領の工事で、石炭需要が高まるから、炭鉱山を持つ家々との取引を拡大したいそうだ」
「炭鉱山といえば西部地域。ウィンドラス公爵は西部の顔役。その協定を結んだということか」
社交の様子一つで、政治の現在地点が伝わっていく。
「西部一の炭鉱山の所有家と言えば――オルフィウス侯爵家」
誰かのその言葉に、貴族たちはざわついた。
そこに、ヴァルター・オルフィウスが現れる。人々は自然と、アデルとヴァルターまでの道を開けた。
ヴァルターはアデルの元に歩み寄り、親密さを装った口調で話しかけた。
「アデル、少し話しいただけるかな?」
しかし周囲の期待に反して、アデルはヴァルターに見向きもしなかった。
「よろしくありません。お断りします」
その場の空気が一瞬で凍りついた。貴族たちは硬直し、ヴァルターも予想外の冷遇に顔を引きつらせた。これほどあからさまな拒絶は、さすがに無礼だった。
ロザリンドがその一部始終を見ていた。彼女は心の中で床にのたうち回り、アデルに対して大喝采を送っていた。それを社交界の華らしい笑みで、完全に覆い隠していた。
ロザリンドがいそいそと近寄って、ヴァルターに明るく声をかけた。
「まぁまぁ、オルフィウス侯爵。さすがの貴方でも『氷雪の砦』を崩すのは骨が折れたでしょう? これ以上無理をしては、ご自身が凍えてしまいますわよ」
周囲もその軽妙な冗談に気を緩めた。会場に、再び談笑が戻る。
「あのヴァルター様が断られるなんて、滅多に見られない光景ですわね!」
「ええ、本当に。公爵様の氷雪の砦は簡単には崩れませんのね」
「でも、そんな壁を溶かす春風は、どうやら王城から吹いてくるのかもしれませんわね?」
ご婦人方は色めきだつ。
その中で、「侯爵、浮気もほどほどにね」などと茶化す声も飛んだ。ヴァルターは苦笑するしかなかった。
後日、アデルが領地へ戻る日。王都の門前に見覚えのある姿が立っていた。ラグナルだ。複数の護衛を連れて、王族らしく威風堂々としていた。
アデルはラグナルの前に出る。凛とした淑女と、堂々たる紳士の振る舞いは、ちょっとしたセレモニーとして衆目を集めた。
「お気をつけて。新しい年が貴女にとって幸多きものとなりますように」
「ありがとうございます、殿下も」
形式的で上品なやり取りだった。しかし別れ際、ラグナルはアデルにだけ聞こえる声でそっと囁いた。
「その後のことを聞いたよ。安心した」
アデルは言葉を返さなかったが、わずかに口元をほころばせる。その可愛らしい笑みに、ラグナルは一瞬だけ満足そうな表情を浮かべた。
アデルは晴れやかな気持ちで、馬車に乗り込んだ。王都の喧騒を背に受け、心は軽やかに故郷へと向かっていった。




