第五話:二人の瞳に映る彼女
【侯爵の執着】
「……気に食わないな」
ヴァルター・オルフィウス侯爵の目には、明らかな不快感が浮かんでいた。
その視線が追い続けるのは、アデルとラグナルのダンス。過去に何度も見た、舞踏会でのアデルの姿。しかし今日のアデルは、いつもよりも一際美しいステップを踏み、パートナーに安心して身を任せている。ヴァルターはこの十年、彼女を見続けてきた。だからこそ見逃さなかった。
ヴァルターはアデルの元婚約者だ。彼は、彼女がラグナルと噂になることに、複雑な気持ちを抱えていた。政略によって引き裂かれた二人だが、アデル同様、ヴァルターも傷付いていた。現妻とは仮面夫婦の関係である。ヴァルターは自身の傷を癒すように、浮気を繰り返した。
一方、アデルは新たな恋人や婚約者を持たなかった。それがヴァルターの傷ついた心に、微かな安寧をもたらしていた。「もしかしたら彼女の心に、今も自分がいるのかもしれない」という淡い期待。
今、それが崩れようとしている。その焦燥は、「元婚約者に追い縋るのはみっともない」という良識とプライドを覆すほどだった。
アデルたちのダンスが終わった。
「素晴らしい踊りでした、アデル嬢」
「ラグナル様こそ。とても楽しいひと時でしたわ」
二人の最後の会話も、貴族として完璧な社交だった。周囲は惜しみない拍手を二人に送った。
そんな中、若い令嬢の一団が囁き合う。
「……え、無理無理無理、私あの後とか絶対ムリ。顔面偏差値とダンスの腕前で公開処刑される」
「あれ? これってヒロインの座、もう決まってない? 私たち、もしかして噛ませ?」
「二人の間に割り込めば、悪役令嬢にはなれるかもしれないわよ。私は絶対嫌だけど」
彼女たちはこの後、二次会と称して、「ラグナル殿下への恋心を弔う会」を開催する。そこではハンカチ片手に「ラグナル殿下ロスがやばい」「カレスト公爵が強すぎる、心理的にも権力的にも」と、大盛り上がりするのだった。
そんな事情を、アデルとラグナルが知る由はない。
この日以降、社交場でラグナルに近づく令嬢はいなくなる。まるで潮が引いた海のように。
その後、ラグナルは王族としての義務を果たしに行った。他の貴族たちとの社交だ。
アデルは休憩のため、広間の壁際に配置されたソファに腰を下ろす。そのとき、彼女の前にヴァルターが現れた。
「アデル、久しぶりだな」
「オルフィウス侯爵、ご無沙汰しております」
アデルは軽く微笑んで答える。元婚約者とはいえ、彼女はもう過去のこととして割り切っていた。彼が他家の女性と結婚して久しい。
「君がこんなに注目されるようになるなんて、正直言って驚いたよ。昔の君は、静かな花のようだったから。今や、会場の誰もが君の美しさに目を奪われている」
アデルはふと、過去の婚約時代を思い出した。まるで遠景に目をこらすように。あの頃もこんな言葉のやり取りがあったかもしれない。しかし、もはやそこに感情は伴わなかった。
「過分な褒め言葉ですわ。でもあの頃の経験が、今に生きているのかもしれませんね」
アデルは言葉少なく返す。
ヴァルターはその反応に、少しだけ黙った後、続けた。
「正直に言うと、君とラグナル殿下の様子には、ちょっと驚いた。元々君は王家に協力的だったし、年末会議でもそれは明らかだったが、まさかそこまで素敵な関係になっていたなんて、俺は……まあ、なんだか少し焦ったよ」
ヴァルターの言葉は、尻すぼみだった。そして照れ隠しのように笑う。
アデルは軽く肩をすくめ、微笑んだ。
「それは全くの誤解ですわ。ただ、貴方の目にはそう見えるのは……浮き名を流す名手としてのご経験ゆえかもしれませんね?」
アデルは冗談めかして言う。ヴァルターは苦笑いをしながら肩をすくめた。
「確かにそうだが、君が今、誰といるかが気になるのは、俺だけじゃないと思うぞ」
そうしていると、別の貴族が近づいてきた。アデルはその人物に微笑みかけた。ヴァルターとの会話は、自然と打ち切りの流れになった。
ヴァルターは去り際、一瞬立ち止まり、アデルを見つめる。
「まあ、話ができてよかった。ただ……」
彼は少しだけ声を低くして続ける。
「俺が言えることじゃないが……君に忘れられるのは、もの悲しい」
その言葉を残し、ヴァルターはゆっくりとその場を離れて行った。
アデルはヴァルターの言葉が心の中に引っかかった。しかし、それを深く考える暇もなく、次の社交が始まっていった。社交相手が次々と変わる中で、アデルの心の引っかかりは、いずれ消えていった。
【王弟の特権】
「カレスト公爵、こちらを」
それはパーティが終わりに近づいた頃。給仕をしていた中年のメイドが、こっそりとアデルにメモを渡した。
それを読み、アデルは瞠目する。そしてメイドに、メモを返した。その後、メイドは喧騒の中で気配を消し、メモを暖炉の中へ落とした。
パーティーが終わり、貴族たちは次々と帰路に着く。その中でアデルは、「少し休憩してから帰りますわ」と周囲に伝え、休憩室へと向かった。
回廊の一番奥の部屋。その扉を開けると、既に先客がいた。
アデルは中に入ると、即座に、しかし静かに扉を閉めた。扉に遮られた部屋は、パーティ会場の余韻から隔絶される。
「こんな形で人を呼び出すとは、本当に大胆ですわね、ラグナル様」
メモに書かれていた内容、「パーティ終了後、回廊最奥の休憩室へ」。馴染みのある端正な筆跡。それだけで、アデルは呼び出し主が誰であるかがわかった。
ラグナルは満足気に笑う。
「このまま君を帰すのが惜しくなってしまってね」
「まぁ。王弟とあろう者が、お行儀の悪いこと」
アデルが冗談めかしに言うと、ラグナルは肩をすくめた。
「これでも相当、紳士にしているよ。君に対してね」
「あら、誰に対しても、ではなくて?」
アデルは、普段の社交場でのラグナルを思い出す。彼の隣を狙う令嬢たちと、公平に、絶妙な距離感で接する。その姿はまさに紳士そのものだ。
ラグナルは、アデルに手を伸べた。
「違うよ。君の前でだけ、努力しないと、紳士でいられないんだよ」
ラグナルの青い瞳が揺れていた。その目に、アデルも押し黙った。紳士の皮を被った彼の情熱を、見た気がした。
そしてアデルは、恐る恐るその手を取る。ラグナルはその手を強く握り返した。
「もう一回だけ、踊ってくれる?」
「最初から、その気よ」
アデルは艶然と笑う。男の情熱に当てられた、女の許し。その瞬間、ラグナルは呆気に取られたような表情を見せ、そして破顔した。
「本当に君は、危険な人だ」
ラグナルの声に、熱に浮かれた期待が滲む。そして、彼はリードを始めた。
部屋の中に音楽は流れていない。しかし二人の間には確かなリズムがあった。互いの呼吸と心音がメロディを奏でていた。リードのタイミングを知らせることすら不要だった。
ラグナルの手の動きにアデルは自然と応じ、動きはまるで一つの流れになっていく。
衆目のないダンスは、ただ互いに触れることを欲していた。ラグナルはアデルに近づき、手のひらで彼女の背中を支える。その距離が縮まるごとに、アデルは心臓の鼓動が速くなるのを感じる。
ラグナルが彼女の髪に、そっとキスを落とした。彼の唇が触れた髪が、熱を帯びるようだった。まるで髪の毛一本一本に、繊細な神経が通ったような感覚。アデルの胸の高鳴りが、鳴り止まない。
その最中、ラグナルはアデルの耳元で囁いた。
「アデル。君にこんな風に触れられる特権を、僕だけに与えて欲しい」
その言葉がアデルの心を揺さぶり、彼女の頬に赤みを刺す。アデルは何の駆け引きもなく、頷いた。求められた権利を、ただ差し出すように。




