第三話:夜の帳の向こう側
【冬の夜、カレスト邸の庭】
ティータイムは、日没と共に終えた。
アデルとラグナルは、カレスト公爵邸にて晩餐を共にした。ちなみに、本日の晩餐は極めて常識的な酒量であった――アデルの常識ではなく、ラグナルの常識で。
「他国の王族との会合に、三日酔いの僕を送り出したい?」とラグナルが牽制したことが功を奏した。流石にアデルも、国家の威信を損なうようなことはしなかった。
アデルが「かの国との交渉が難航した暁には、北部式の酒宴でおもてなしされると良いですわ」と冗談を飛ばすと、ラグナルは「君の破壊的アイデアにはいつも胸がときめくよ」と返してきた。アデルが呆れながら「それ、吊り橋効果って言うらしいですわよ」と言えば、ラグナルはさらりと、「吊り橋の綱を切りかねないほど危険な女性のことを、ファム・ファタールと呼ぶね」と返してくる。運命の女性、あるいは魔性の女。
アデルの心臓が一つ、高鳴った。しかしふっと笑う。
「その綱が切れた暁には、貴方自身だけでなく、王国の運命も変わりますわ」
アデルの言葉を、ラグナルは静かに受け止めた。
晩餐は和やかな皮肉と、男女の駆け引きと共に幕引きした。
アデルは湯浴みも終え、私室に戻っていた。ふと、窓から外を眺めた。寒空の中、中庭に月明かりが降り注ぐ。
その風景に、アデルはいつかの夜を重ねてしまう。収穫祭の日の夜。ラグナルと一緒に庭で語り合い、触れられたことが、今もアデルの胸に響いていた。その記憶が、アデルを中庭へと手繰り寄せる。アデルはランプを灯し、こっそりと庭へと向かう。
静寂に包まれた夜の中庭。まだ雪化粧には早いものの、初冬の空気は透き通るほどに冷たい。
アデルは、そっとベンチにランプを置いた。そして手に持った枯れ枝を、わざと足元に落とした。乾いた音が、静寂を裂くように響く。いま、警備員の巡回ルートが、中庭から最も遠い場所にあることを、アデルは把握していた。そしてこの音量なら、屋敷には響かず、すぐそばのゲストルームに届くくらいだろう。
そしてベンチに腰掛けながら、何食わぬ顔で夜空を見上げる。月明かりが煌々と中庭を照らす。アデルはこれが勝てる勝負だと、長年の政略経験から確信していた。
「物音がしたから、来てみたんだ」
予想通りの声に、アデルは振り向く。ラグナルの足音が静かな夜の庭に響く。彼の存在を感じ取ったアデルは、微かに頬を緩めた。
「お騒がせしましたわ」
さも偶然出くわしたかのように、アデルはしなやかに立ち上がる。そして一礼した。ラグナルには、物音を立ててしまったことへの詫びに聞こえたことだろう。しかしアデルにとっては、呼び出したことへの詫びだった。
「こんな時間に、何をしていたんだい?」
ラグナルが穏やかな声で問いかける。
「月が綺麗だったので、つい……」
アデルは空を指差しながら、わずかに肩をすくめてみせる。ラグナルは彼女の隣に並ぶと、ふっと小さく息を吐いた。
「確かに、綺麗な月だ」
月明かりがラグナルの横顔を縁取る。アデルは、その一瞬を胸に刻み込むように見つめた。
――ほんの少しでいい。同じ夜、同じ場所で、あのときと同じ胸の高鳴りを、もう一度だけ。
二人はベンチに腰掛けながら、月を見上げる。その時間が、アデルには何よりも甘やかに感じられた。
「夜風が冷たくなったね」
「ええ、もう冬ですもの。寒さが肌にしみますわね」
アデルは少し体をすくめ、けれど心地よさも感じていた。ラグナルはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「何か悩み事でも?」
意外な言葉に、アデルは思わずラグナルを見た。月明かりとランプの灯りだけでは、彼の表情までは読み取れない。
彼の声色には、微かに混じる温かさがあった。それが彼の内面を物語っているように、アデルには思えた。
「そんな大それたことではないのですが……」
アデルは小さく笑って答えた。ラグナルはじっと彼女の顔を見つめ、そして穏やかに言った。
「もし悩みがあるなら、少しでも力になれたらと思うんだ」
その言葉に、アデルは一瞬胸が熱くなるのを感じた。ラグナルの優しさが、確かに伝わってきた。
――「ただ貴方のそばにいたいのです」と告げられたらなら、どれだけ良いか。
アデルは、自身の素直な願いに首を振った。
アデルが女公爵の道を選んだその時から、彼女は「普通の女の幸せ」を捨てた。周りを見渡せば、失点狙いの政敵と、侵略狙いの求婚者。そんな環境の中で、自分の心の一番柔らかいところを差し出すのは、領地領民の未来までも預けることと同義。
目の前の彼をどれだけ信頼していても、どれだけ惹かれていても、彼女の世界は許してくれない。
アデルはそのまま笑顔を浮かべ、答えた。
「ありがとうございます。でも、今はただ月を眺めているだけ。静かな夜を楽しんでいるんです」
その言葉に、ラグナルは少し間を置いた。彼が微かに息を吐く音が、冷たい空気に溶け込む。
「それなら、もう少し一緒に月を眺めていようか」
二人は再び月を見上げ、その穏やかな甘い時間に浸った。
冬の庭は静寂に包まれ、息をするたびに白い吐息が夜闇へと溶けていく。月明かりは青白く、庭木の葉を仄かに照らしていた。
ただ隣で寄り添うこの時間が、成立している。アデルはその淑やかな喜びを、深く感じ入った。
「ふっ……くしゅん!」
小さなくしゃみが静寂を破る。アデルは慌てて口元を押さえ、すぐさま「失礼」と言いたげに視線を上げた。
「可愛らしいくしゃみでいらっしゃる」
ラグナルの声は楽しげだった。
「からかわないでください」
アデルは眉をひそめるが、その頬は冬の冷たさではなく、別の熱に染まりつつあった。
「いや、からかってなんかいないよ――温めてあげましょうか?」
ラグナルの言葉に、アデルは一瞬言葉を失う。冗談――そうだ、これはきっと冗談だ。
しかし彼の言葉が、アデルの胸の奥をノックする。
――この誘いの先に、帰り道などない。
アデルの矜持がその道を進ませまいと止める。一方で、心の奥底で燻る熱が、彼女に囁き続ける。この温もりに触れたいと――ただ、それだけを。
アデルはわずかに息を呑む。心を引き締めながら、凛とした言葉を紡いだ。
「……お願いできますか?」
まるでそれが淑女の嗜みであるかのように。アデルは毅然とした態度で言ってのけた。しかしその声音は微かに震えていた。
冬の風がまた一陣、二人のそばを通り過ぎた。
「……寒いから仕方ないね」
ラグナルの声は、いつになく柔らかい。
次の瞬間、アデルはそっと引き寄せられた。彼の外套がふわりと広げられ、その中に包み込まれる。ラグナルの腕が肩に回され、背中越しに彼の温もりが伝わった。驚きに固まるアデルの髪が、彼の息でそっと揺れる。
「あ……」
思わず洩れた声は、息の音に紛れて消えた。
――これはもう、言い訳ができない。
お互いの鼓動が静寂の中で確かに響く。ラグナルも、そしてアデルも、同じことを思っていた。しかし、この瞬間だけは己の立場も、周囲の目も、全てを翻した。
「……暖かいですわね」
アデルがぽつりと呟く。ラグナルは微かに笑みを漏らし、「それは何よりです」と穏やかに返す。
冬の冷たい風が吹き抜けていく。しかしアデルはもう、その寒気を感じ取ることができなかった。
アデルは彼の胸に頭を預けながら、呼吸を整えた。胸が高鳴り、息を呑みながらも、アデルはその瞬間を心に刻んだ。
この安心感、この甘いときめきが、今、この瞬間にしかないものだと、愛しさと悲しさを共に抱えながら。
やがて二人は互いから離れ、そのまま無言で立ち上がり、屋敷へと入った。ランプの灯りを頼りに、アデルの寝室の前に到着する。
「お送りいただき、ありがとうございます」
アデルはそっと伝え、立ち止まる。お互いに何も言わず、ただその瞬間の静けさを共有する。
「先程のことは、二人だけの秘密にしましょうね」
アデルがふとその一言を口にする。暗がりの中で、ラグナルが息を呑んだようだった。
お互いの立場はわかっている。想いがあることは確かでも、軽々しく関係を変えられるほど、この先の道は簡単なものではない。パワーバランスの変化、離反工作、それらによる国内の混乱――躊躇う理由は、枚挙にいとまがない。しかし、その暗い想像の中で、割り切れない感情が疼く。
ラグナルは短く息を吐き、少し間を置いてから、言葉を紡いだ。
「秘密にするから、また、抱き締めてもいい?」
冗談交じりの言葉だった。なのに、その声が何よりも真剣に聞こえた。アデルの動揺が、理性よりも先に駆け巡った。
「また……?」
「次に会う時、また抱き締めたくなるかもしれないから」
ラグナルの声が、縋るように響いた。
その言葉に、アデルの心音が速くなる。しかし、やがて不敵に笑った。
「秘されていれば、それは無いものと同義ですわね」
水面下でどれだけ熾烈な応酬があっても、握手をして笑い合えば、平和は維持される――政治の常識に慣れた二人にとって、それはあまりにも自然で合理的な解だった。
アデルは本心をラグナルに告げぬまま、夜の帳に隠れる関係を選んだ。それは周囲からの目を避けるためだけではなかった。あまりにも柔らかく無垢な心をむき出しにするのを、恐れた。例えラグナル相手だとしても。
ラグナルは言葉を発さなかった。手元のランプは、彼の表情をはっきりとは照らしてくれない。
彼が何を考えているのか、何を感じているのか――アデルにはそれを確かめる術がなかった。アデル同様、ラグナルの本心もまた、闇の中へ行方を晦ました。
「おやすみ、アデル嬢」
「ええ、おやすみなさい、ラグナル様」
ラグナルはアデルに背を向け歩み出し、アデルも自室に戻っていく。冬の夜の冷たさの中で、二人の胸には、後ろめたい温もりと、秘められた合意が静かに息づいていた。




