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第一話:男女の噂は足が速い

【兄王の洞察】


 王の執務室。ここでは大理石の床に、歴史ある重厚な調度品が設置されている。この部屋では、これまで数々の政策や策略、時には陰謀が練られてきた。

 今、その部屋の主として執務椅子に腰掛けるのは、当代の王アーサー・アヴェレート。そしてその向かいに立つのは、王弟ラグナル。

「なるほど、ラグナル。カレスト公爵との協議がこれほど迅速かつ円滑に進んだとは。王国の未来にとって実に喜ばしい成果だ」

 アーサーは満足げに頷き、ラグナルを褒め称える。

「国土開発計画の第一歩となるこの協定、まさしく国の発展の礎となるだろう。さすがは我が弟だ」

「過分なお言葉をいただき、恐縮です」

 ラグナルは頭を下げた。その声には控えめながらも、成果への確信が伺えた。

「カレスト公爵の協力がなければ、ここまで具体化することは叶わなかったでしょう」

 アーサーはその言葉に一瞬目を細めた。そして、にやりと片頬を上げた。

「しかし、ラグナル。予定よりも帰還が遅れた理由を聞かせてもらおう。よほど充実した滞在だったようだな?」

 アーサーの声音は、好奇心に満ちていた。ラグナルは呆れたようにため息をつく。


 ラグナルはあの夜のことを、脳裏に思い浮かべた。

 晩餐もとい酒の戦場で、戦女神のアデルが、「手加減した酒量」をラグナルに振る舞った。その結果、彼女と心の距離を縮められたのは、戦果としては上々だったが――。

 本当の地獄は、まだ始まってすらいなかった。

 翌朝、爽やかな挨拶の後、ラグナルはカレスト公爵領を後にした。

 そして馬車に乗り込んだ瞬間、ラグナルは察する――死の行進はここからだ、と。

 馬車が揺れるたびに胸に何かがせり上がり、冷や汗が止まらない。「止めろ」と言う余裕すらない。顔を覆いながら、何度か馬車の壁を叩きそうになった。途中、ラグナルが「まだ北部か……」と呟くと、従者が「殿下、どうかお堪えください……」と気遣わしくも残酷な返事をした。

 帰路で一回の宿泊を挟んだにも関わらず、翌日も地獄は続いた。ようやく王都に着いた時は、無事に生還したことを心から喜んだ。しかし休む間もなく、次の公務だった。微笑みを作るのは得意なラグナルも、青白さを隠す術は持っていなかった。会談相手が、話のわかる国内貴族だったのは幸いだった。これが他国の外交官であれば、「ラグナル殿下のご体調が良くない、まだお若い身空なのに」と、大変不謹慎な噂を流されるところだった。


 ――あの晩餐、絶対に「祝意」だけではなかっただろう。


 ラグナルは無意識に額を抑えながら、答えた。

「彼女が交渉成立の祝意に、晩餐を用意してくださっただけです。礼を尽くした結果、少々長居をしただけのことですよ」

「ふむ、それにしては印象深かったようだな」

 兄の視線が妙に鋭いのは気のせいではない。

「兄上も北部の宴席にご興味がおありなら、ぜひ一度ご体験ください」

「それは面白そうだな」

 アーサーは楽しげに返したが、ラグナルは冷ややかな心の声を飲み込んだ――どうぞお好きに、ただ、骨だけは拾ってあげますよ。

「何にせよ、カレスト公爵とは良い関係を築いておくに越したことはない。あの領地は重要だ。これからもお前に期待しているぞ」

「心得ております」

 ラグナルが礼をし、執務室を後にした。


 その背中を、アーサーは見送る。そして彼には確信が芽生えつつあった。

 

 ――あの才気溢れる女性が、ラグナルにとって何より特別な存在であることを、本人が既に知っているが故に、慎重に扱っているのだろう。だが、時が来れば、あいつはそれを活かす術を見出すに違いない。


 アーサーは小さく笑みを浮かべた。

 弟が抱える感情を、アーサーは喜ばしく思う。アーサーは、ラグナルの自己犠牲の数々を知っている。そのラグナルが、特別な存在と出会えたことが、アーサーには奇跡のように感じられた。

 本当ならば、兄として静かに見守るべきだと、アーサーも理解している。なのに、いらぬ口を挟んでしまうのは、これもまた兄心というものだ。

 器用なようで不器用な弟を、アーサーは微笑ましく感じていた。


【社交サロンの噂】


 王都の暖炉に、青白い炎が灯る季節がやってきた。

 その炎は普通の薪とは異なり、ターコイズを思わせる独特の色彩だ。まるで暖炉そのものが宝石のようにすら見える。

 アヴェレート王国西部地方の特産品、煌石炭。見た目の美しさに、慎ましい暖かさ。王都の高位貴族たちを中心に、贅沢品として珍重されている。

 侯爵夫人ロザリンド・マグノリアは、その幻想的な炎を眺めながら、自身が主催する社交サロンで興味深い噂話を耳にしていた。

「聞きましたか? ラグナル殿下が、領地での滞在を予定よりも延ばされたそうですよ」

「まあ、それは誰のお招きだったのでしょう?」

「それがなんと――アデル・カレスト公爵だったそうですわ」

 その名を口にするやいなや、部屋中の女性たちが一斉に目を輝かせた。

「信じられませんわ! そもそも殿下が女性のもとへ自ら足を運ばれるなんて、これまで一度でもございました?」

「殿下といえば、求婚された回数だけで小さな書庫が埋まると言われていますのに、すべてご辞退なさっていらっしゃるとか」

「それに、カレスト公爵が男性を遠ざけていらっしゃるのも有名ですわよね。『とりつく島もない氷雪の砦』とまで仰る方もいて……」

「そんなお二人がご交流を深めていらっしゃるなんて……まるで物語のようではありませんこと?」

 カレスト公爵として名を馳せるアデルは、美貌と才知で知られた存在だ。その上、独身。同じく独身で、魅惑の王弟ラグナルのお相手として、これほど相応しい者もいない。サロンを盛り上がらせる燃料としては充分だ。煌石炭よりもよほど、室内の温度を上げている。

 ロザリンドは噂を聞きながら、手にしていたティーカップをそっと置いた。

「まあまあ、皆さん。何か決定的な証拠があるわけでもありませんのに、勝手なことを言いすぎては失礼ですわ」

 そう言いながらも、その声には抑えきれない興味が滲んでいる。噂好きの彼女はすでに心の中で躍っていた。

 ラグナルがアデルの領地を訪れたというだけなら、おかしなことではない。公務の一環だろう。しかし、「滞在を延ばした」という部分に、大人の男女の香りを感じずにはいられないのだ。

 サロンの夫人たちが話題を次々と変える中、ロザリンドは密かに考えを巡らせていた。


 ――これは直接アデルに会いに行かなくては。彼女の口から何か面白い話を聞き出せるかもしれないわ!


 ロザリンドはサロンが終わるや否や、すぐさま準備を整えた。

「アデルの領地へ行きますわ」

 使用人にそう告げると、冬の乾いた寒さも気にならないほどの勢いで、馬車に乗り込む。窓の外に広がる寒空の風景を眺めながら、ロザリンドの胸には好奇心と親愛の情が広がっていた。

「ふふ、彼女ったら、何か隠しているならきっとすぐ顔に出るわ」

 侯爵夫人ロザリンド・マグノリア。アデルの二歳下の従妹であり、社交界の華と呼ばれる大物貴族。彼女の一声で、王都の流行が変わると言われるほどの影響力を持つ。

 そして彼女は、恋バナ大好き夫人でもあった。


【アデルの屋敷にて】


「スフィリナの研究開発は、本当に進まないわね……やはり薬学知識に長けた人材が欲しいわ」

 アデルは額を抑えながら呟く。

 カレスト公爵領、いや、王国全土を見渡しても、薬学を学んだ人材は限られていた。薬学は、アヴェレート王国の国教が長年独占してきた「神の奇跡」である。

 薬草であるスフィリナを、カレスト公爵家が茶としてしか活用できていない理由は、まさにここにあった。

「いっそのこと高位の僧侶を、こっちの陣営に引き抜けないかしら……?」

 アデルの神をも恐れぬ発想。教会関係者がそれを聞いていたとしたら、「不届者!」と宗教裁判にかけたがるところだ。

 そんな危険思想を脳内で転がしながら、書類整理を進める。するとノックの音が響いた。

「どうぞ」

 落ち着いた声で応じると、執事が扉を開けて現れた。

「アデル様、ご訪問でございます」

 執事の慎ましい態度に、アデルは頷いた。許諾の合図だ。すると、執事の背中から明るい声が響く。

「アデル! びっくりしたでしょう?」

 目の前に現れたのは、優しいラベンダー色のドレスに身を包んだ従妹、ロザリンドだった。

「ロザリンド! 突然で驚いたけれど、会えて嬉しいわ」

 アデルは勢いよく執務椅子から立ち上がり、ロザリンドを抱きしめた。彼女の訪問はいつも予期せぬものだが、その快活さは邸宅を明るくしてくれる。

「さて、お茶を用意してもらいましょう」

 アデルの言葉で、すぐさま使用人たちが動き出した。二人も、執務室から応接室へと場所を移す。木炭が燃え盛る暖炉のそばに、ソファとテーブルが並ぶ。そこに二人が腰掛けると、ほどなくして温かな薬草茶と菓子が運ばれてきた。

明日は土曜日ですが、スピンオフ短編更新予定です。


追記:スピンオフ短編更新しました。

教会を追放された聖女、薬学の力で民を救う 〜薬草スフィリナが紡ぐ奇跡とざまぁと恋物語〜

https://ncode.syosetu.com/n5481jx/

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