第一話:ロマンス未満、激動以上
【再会前夜】
群青のドレスと赤い唇が、甘く腐った夜会に君臨していた。毒蜂を誘うように。
「貴女の農地改革は、大いに参考になりますな――もっとも貴女自身はまだ「縁」が芽吹かれていないそうですが」
老公爵の言葉に潜んだ針が、静かに彼女の癇に障る。彼の派閥の者たちがクスクスと笑う。
女公爵アデル・カレスト、26歳独身。婚約破棄の経歴あり。
「農産物は、相応しい気候と土壌でなければ芽吹きませんわ」
アデルの赤い唇が弧を描く。そこに牙が見えたのは幻か。
「男性で例えるなら、本人の才覚と財政基盤でしょうか。その条件を満たす畑がございましたら、ぜひご紹介を――もっとも、国内には不毛の畑しか見当たりませんが」
笑顔が一斉に固まった。
アデルはおほほ、と声高らかに宣言した。
「ご紹介いただけた暁には、お礼しますわ。私自ら、皆様の領地を刈り取って差し上げます」
彼女の周囲だけ、季節外れの氷雪が吹き荒れた。女公爵はまた一つ、夜会という腐った果肉に「拗らせ」の伝説を刻んだ。
夜会の終盤、ある名が耳に届いた。
「近々、ラグナル殿下がご帰国なさるとか」
アデルの杯を持つ手が止まった。しかし何事もなかったように、「喜ばしいですわね」と礼儀正しく返す。
その後、アデルは一人バルコニーへ出て、月を仰ぐ。
ラグナル・アヴェレート。懐かしい名だった。
――8年前、私に希望を与えてくれたのは、彼だった。
あれ以来、心の奥底で揺れる灯火だ。
きっと、彼は覚えてなどいない――そう思いつつ、アデルは笑った。
アデルが月を見上げたその頃。
隣国の王宮では、玉座の王が身を乗り出していた。
「どうかこの国に留まってくれ、ラグナル殿下。貴殿の外交手腕は、この国に不可欠だ!」
王の必死の叫びに、ラグナルは苦笑する。
「陛下、この国の人材基盤なら、すぐに新たな人材が育ちます」
「そんな国なら、とっくに大陸一の大国になっとるわ!」
ラグナルは王の引き留めを振り切り、帰国の馬車に乗り込んだ。窓の外、雲間から月が覗く。
彼は月を見上げながら、ある人物に思いを馳せた。
アデル・カレスト。この数年、ラグナルは報告書上でその名を追い続けた。思い出すのは、艶やかな茶髪、光を宿す黒い瞳、気高い赤の唇。
「……彼女と直接話すのが、楽しみだ」
奇しくも二人は同じ月のもと、同じ感傷を抱いていた。
それは、ロマンスではない。しかし――まだ、ロマンスではない。
【戴冠式】
慎ましいバイオリンの音色が、華やかな喧騒を縫う。
王国歴159年の建国記念日、城の饗宴会場は熱気に包まれていた。新王の戴冠と、王弟ラグナル・アヴェレートの帰国が、その熱源だ。
「かつて隣国が戦争を回避したのは、殿下の手腕だろう」
男性貴族たちの評価に、アデルは重々しく頷く――私も同じ見立てだわ、と。
「ラグナル殿下、35歳になられたそうよ。何年経っても彼は王国の初恋泥棒だわ……」
女性貴族たちの噂に、アデルは首を傾げる――私はそこに含まれていないわよ、と。
この国では合理と情熱が奇妙に共存していた。
「アデル嬢」
澄んだ低い声がアデルの背後から響いた。振り返ると、ラグナルが立っていた。漆黒の髪に、深い青の瞳。そして女性を狂わせる、洗練された佇まい。
「お帰りなさいませ、ラグナル王弟殿下。8年ぶりですね」
アデルは裾を揺らし、優雅に礼をする。
「国外にいながら、貴女のご活躍が耳に届く度に、嬉しく思ったものです」
アデルは一瞬その言葉に戸惑ったが、すぐに礼儀正しく返した。
「過分なお言葉、ありがとうございます。王弟殿下こそ、外交官としてご立派なご功績を残されていると伺っております。王国と周辺の平和が守られたのは殿下のお力あってこそ――心より感謝申し上げます」
アデルは感謝の意を込めて、再び一礼する。ラグナルが優しげにアデルを見つめた。しかしそこに浮かんだ感情――それはアデルに伝わらなかった。
二人の会話は、自然と互いの関心ごとへ移る。
「カレスト公爵領の領地経営はお見事ですね」
「あら、どこまでご存知なのでしょう」
アデルの問いに、ラグナルは涼しい顔で杯を回した。
「金鉱山開拓による好景気がありましたね」
それはよく知られた事実だ。アデルはゆっくり扇子を仰ぎ、微笑む。
「それを原資に農地改革。農業に不向きと思われていた薬草スフィリナの栽培に成功した」
アデルは眉を上げた。自領の金鉱山と農地の因果を指摘されたのは、初めてだった。
「それを茶葉へ加工して、軽量で保存の効く製品に。今や紅茶に並ぶほど、ティータイムの定番とか」
アデルは知らぬ間に扇子を止めた。つい先日まで異国にいた人間が、国内の誰よりも核心をついてきた。
「殿下には驚かされますわ。一体、どれだけの目を国内に置いていたのやら」
「貴女の経営が見事で、私も注目せざるを得ませんでした」
アデルは笑顔を作ったが、肝が冷えていた。
「貴女の狙いは恐らく3つ。持続可能な産業への転換、物流を容易にする製品開発、ブランディング。その目的は、利益の最大化と持続性の実現」
ここでラグナルの目が輝いた。アデルを眩ませるほどに。
「これに気づいたとき、その戦略に身悶えましたよ」
アデルの杯のワインが大きく揺れた。――ラグナル殿下は珍しいご趣味ですね、とアデルは言いかけて、やめた。不敬に当たりかねなかった。
「視察された方でも、ここまで理解されることはありませんでしたわ。まるで、ずっとおそばで見守っていただいていたみたいですわね?」
「興味があったのは貴女の思考です。目に見えぬものならば、異国の地でも推論はできますから」
アデルは、王家の情報収集部隊の実力と、ラグナル本人の洞察力を確信した。それらが自分の動向把握に向けられていたことも。
「次に貴女が何に着目し、考え、動くのか。気になって目が離せないですね」
ラグナルは笑う。その青い瞳の真意は見えない。
――関心か、警戒か。どちらであっても厄介ね。
アデルは、自身の才覚を領地経営に捧げてきた。それは誇りであり、喜びでもあった――そして常に敬意と同じ数だけ、敵意を引き寄せた。
アデルはラグナルがどちらに属するのか、判断できなかった。これほど恐ろしいことはない。判断不能は迷いを生み、迷いは命を散らす。
ただ、自分への洞察は、これまでの誰よりも正しかった。真意がどうであれ、これほど理解されることは、思いのほか嬉しかった。
そんな内心はおくびにも出さず、アデルは「下手なことはできませんわね」と肩をすくめた。
ふと、他の貴族たちの会話が聞こえた。
「マーガレット嬢もついに婚約が決まったそうよ」
「彼女もそろそろ成人ですものね。今の時代、遅すぎず、早すぎずが一番ね」
そんな会話を聞き、ラグナルとアデルも自然とその話題に移る。
「おめでたいですわね」
「他人事みたいにおっしゃっていますが、貴女にもお見合いの話は数多く来ていると伺いましたよ」
ラグナルの言葉に、アデルはため息をついた。
「逆玉の輿狙いですわ。婚姻よりも領地吸収する方が合理的なものばかり。実際そんな提案もしました。土下座されて白紙になりましたけど」
これにはラグナルも固まった。しかしアデルは気にせず続ける。
「過去に婚約を破棄されて痛い目も見ておりますし、懲り懲りですわ」
アデルは軽い言い方をするが、どこか自嘲が滲んでいる。
「奇遇ですね。私も同じようなものです」
そう言ったラグナルも、あっさりとした表情だ。
二人は目を見合わせ、堪えきれずに笑い合う。周囲の喧噪が、まるで遠のくように、心地よい空気が流れた。
「ラグナル殿下は、よほど理想が高いのかしら?」
アデルは軽く杯を傾けながら、皮肉交じりに言う。ラグナルは悪戯っぽく笑った。
「もし私がこの肩書きでなければ、貴女に見合いを申し込んでいたかもしれませんが」
アデルの杯を持つ手が止まる。しかしアデルはすぐに、平然と返した。
「それは光栄ですわ。もっとも、殿下がその肩書きを手放すなど、誰も許さないでしょうが」
大人の余興。自分たちの立場はそんな軽々しいものではない。アデルは常識的に判断する。
しかし同時に、ラグナルの予測不能な言葉を、アデルは好ましく感じていた。
【社交後の反省と余韻】
アデルは邸宅への馬車に揺られながら、今日の社交を振り返っていた。
――「令嬢避け」のために私を利用するとは、大した人ね。
饗宴中、ラグナルが巧妙に会話を引き延ばしていることに、アデルは気づいた。やがて、周囲の令嬢たちが「そろそろ譲っていただけます?」という視線を無言で飛ばし始める。
彼の狙いは明らかだった。女性たちに囲まれぬよう、アデルとの対話を防壁にしていたのだ。「政治を知らぬ者が政治の話に割って入るのは無粋」――それは社交常識という名の結界。
モテ疲れの王弟と、憧れの殿方に突撃したい令嬢たち。どちら同情すべきか天秤にかけ――アデルの理性は一刀両断した。「利用されっぱなしは性に合いませんわ」と。
「ラグナル殿下も、ダンスの一つでもされたいでしょう。私は疲れておりますので、どなたか」
その一言で、令嬢師団が雪崩れ込んだ。座を巡る女たちの激突は、もはや一個師団の乱戦。扇子が舞い、言葉が刃となって飛び交う。古の恋を拗らせたご夫人まで乱入し、場の混沌はアデルの想定を優に超えていた。
「貴女は扇動者としても優秀ですね」と皮肉を飛ばしたラグナルも、ほどなく乱戦に巻き込まれた。
最後に彼が向けた瞳が「助けて」と訴えていたかどうか――それは、アデルの気のせいかもしれない。
――女性があれほど勇猛ならば、女性騎士団の編成を検討すべきかしら。
そんな一幕を振り返りつつ、今日のアデルに強い印象を残したのは、やはりラグナルだった。
アデルはちらりと、窓から差し込む月光に目を向けた。
「興味があったのは私の思考、ねぇ……」
アデルもラグナルに、似た印象を抱いた。彼の知性、洞察力、柔和な物腰に、興味を惹かれていた。ただ身悶えするほどではなかった、彼と違って。
――またお話したいわ。できれば味方として……その保証はないけれど。
アデルはこの先の政局への不安と、それでも浮揚する期待を抱いた。
女公爵が帰路に着いた頃。
王弟ラグナルは王城の広間にて、窓辺の月光を浴びていた。陶器の杯を軽く揺らし、ルビー色のワインが光を反射して煌めく。
「南部のワインは、随分と改良が進みましたね」
ラグナルの言葉に、テーブルに着く兄、アーサーが力強く答える。
「だろう? 南部の連中は気骨があるからな。日々工夫を重ねているんだ」
「8年前に飲んだ時よりも格段に美味しいです」
ラグナルは穏やかに杯を傾けた。懐かしい香りが帰郷を実感させる。
「お前は――ずっと変わらないな」
アーサーの言葉に、ラグナルは眉を上げた。
「何のことですか?」
「お前が独身を貫く理由だよ」
言葉が夜の静寂に沈んだ。ラグナルは、驚くことなく黙した。
「王位継承の火種を避けるために結婚を遠ざけてきた――私にはわかっている」
アーサーは慎重に言葉を選ぶ。
「それはお前自身の幸せを犠牲にした考えだ」
ラグナルは杯を持つ手を止めた。窓の外、遠くに王都の灯りが瞬いている。
「ラグナル。もう少し自分の幸せを考えろ。お前にだって心を許せる相手が必要だ」
アーサーの言葉には、弟を案じる痛切さが滲む。
「兄上……お気遣いありがとうございます」
ラグナルは視線をアーサーへと戻し、穏やかな笑みを浮かべる。
「ですが、兄上が無事に戴冠され、祖国は平和で活気に満ちています。私も、愛する国に帰ることができました。これ以上の喜びはありません」
その言葉は揺るぎないものだった。
ラグナルは己の役割を理解し、最善を尽くしてきた。そして今、兄が王となり、自分もこの地に立っている。それ以上、何を望めばいいのか。
アーサーはしばしラグナルを見つめた。やがて静かに笑い、杯を取った。
「お前は本当に頑固だな」
「よく言われます」
二人は再び杯を傾けた。ワインの芳香が間を満たす。
「だが、ラグナル――人生は長い。いつかお前にも、心が揺れる瞬間が訪れるだろう」
アーサーの言葉に、ラグナルは答えなかった。
杯が空になった頃、ラグナルは私室に戻る。蝋燭の元で、一枚の書簡を書いた。宛先は、本日最も印象的だった相手だ。
後の歴史家たちはこう語る。アヴェレート王国の繁栄と安寧、「共感と憧憬」の時代。その激動の幕開けは、アデルとラグナルの再会から、静かに時を刻み始めたのだと。