目指せ、玉の輿!
あちらこちらにぶつかり、腐った木の根をへし折りながら落ちていったロベール。そんな彼を待っていたのは、ゴブリンたちのトイレだった。つまり、彼らの糞尿のたまり場だった。
それにしても物凄い臭いだった。ロベールは排泄物のプールでおぼれそうになりながらもなんとか水面に顔を出した。ゴブリンたちの巣の中は、おそらく彼らの吐しゃ物で作られたであろう、透明な細い枝のようなものか張り巡らされていた。それが鈍く光っている。
口から汚物を吐き出しながらロベールはなんとか池の端に泳ぎついた。そしてそこから這い上ろうとした
壁は一面ぬるぬるするもので覆われていた。そこに得体の知れない虫が這いまわる。そこをロベールは必死に指を食いこませて登ろうとした。そんな耳に、獣が息をする音が聞こえてきた。そろそろと顏を上げるロベール。ゴブリンが彼の目の前にいた。
驚いて手を滑らせ、また糞尿の池に落ちる彼。ゴブリンらは器用に壁に張り付き、池から這い上がろうとする彼を何度も蹴り落とした。
「この野郎!」
ゴブリンを捕まえようともがくロベール。するといきなり壁の一部が崩れ落ち、彼はそこからさらに巣の奥へと転がり落ちていった。
吐しゃ物の枝をへし折りながら落ちていく彼。転がり出た先は空洞になっていた。落ちた瞬間に何かを踏みつぶしたような気がして彼は足元を見た。卵のようなものがひしゃげている。
よろめいて後ずさる彼。そんな彼の後ろに、ロベールを見下ろすほど大きなゴブリンがいた。お腹が大きい。そいつらの目が潰れた卵を見、ロベールを見た。そして身の毛もよだつような咆哮を上げた。
そのころアランとグラントは、ゴブリンの巣の別の入り口からロベールのいる場所に向かっていた。人の居場所を探知する魔法道具に、ロベールの所在を示す点が光る。侵入者に襲い掛かるゴブリンらを切り倒しながら走る彼らの前に、ロベールがやってくるのが見えた。その後ろから腹の大きなゴブリンらが追いかけてくる。
冗談は顔だけにしろと叫ぶグラント。殿下! と叫んで駆け寄るアラン。
ハーヴェイと叫んでしがみつくロベール。もうこうなったら日頃の恨みなどと言っていられない。
ギエエエッ!と叫んで襲い掛かってくるメスのゴブリンたち。目をつぶって伏せろとグラントが叫びながら、懐から小さな球を取り出してゴブリンらに向かって投げつけた。
物凄い爆音が響き、あたり一面を真っ白な光で塗りつぶした。
光が収まるとゴブリンたちは目をかきむしっていた。今のうちに逃げるぞとグラントに手を引かれ、彼らはなんとか巣から脱出することに成功した。
しかし、このことで森中のゴブリンらを怒らせてしまったとグラントは言った。
「よりによってやっこさんらの卵を踏みつぶしちまうとはな。まったく次から次へとやってくれるぜ」
森のあちこちから唸り声が聞こえてこちらに迫ってくる。
「わざとじゃない!」
「殿下、落ち着いて」
「うるさい!」
巣を脱出して余裕が出てきたのか、またロベールはアランに憎悪の目を向けた。
「だいたいお前が悪いんだ! 僕をここまで怒らせたお前が! 今こうなったのは全部お前のせいだはハーヴェイ!」
「殿下、お願いですから落ち着いてください、その話はまた後で」
「後もくそもあるかッ! この、この」
「くそ野郎が」
グラントが横からロベールに向けて鋭く言い放った。
「何?」
「お前、あいつらの肥溜に落ちたんだろう。お似合いだな。神様は見ているとよく言ったもんだ」
「な」
「お前はくそだと神は言ってるんだ。クソのお前にふさわしい場所に落としてくれたんだよ。それでもまだ目が覚めないか?」
グラントの言葉に、ロベールの顔が青色に、そして真っ赤に変化した。
「この僕をクソだと?」
「グラント、やめてくれ」
「ああ、テメエはクソだ。それも何の役にも立たねえクソだ。ゴブリンのクソ以下のクソ野郎だ!」
「もう我慢ならん! そこになおれ、その首たたっ切ってやる!ハーヴェイ、お前の剣を寄越せ!」
「殿下、おやめください!」
ロベールはアランの剣をひったくるように奪い取った。その時だった。ロベールの後ろで地面がもくもくもくとうごめいた。
銃弾の様にそこからゴブリンが飛び出し、ロベールに襲い掛かった。衝撃でへたりこむ彼。鋭い爪がロベールを切り裂こうとする――。
強く目をつぶったロベールの上に、ザクッと何か肉が切れる音とともに何かが倒れてきた。それは仰向けに倒れたアランの体だった。
「ハーヴェイッ!」
駆け寄りざま、グラントの剣がゴブリンを薙ぎ払った。彼は慌ただしく腰に括り付けてある物入れから血止めの薬を取り出した。アランは額が裂けていた。それでも致命傷にならなかったのは、防御魔法をかけてもらっていたおかげだ。しかしそれでも傷が深い。血が止まらない。
「あ、ああ」
カタカタカタカタと震えるロベール。グラントは手早く包帯を巻きつけた。それでようよう止血は出来たが、アランの意識が戻らない。
グラントは参ったなと呟き、ロベールを見た。彼はまだ震えていた。
「おい、そこのクソ」
「な」
クソとは僕のことかとロベールは怒りで真っ赤になった。そんな彼にグラントはちょっと笑いながら言った。これからテメエはどうすると。
「どうするって」
「この森を自分で突っ切ると言ってただろう」
確かにそう言っていた。でもそんなこと出来るわけがない。ロベールは狼狽えた。
グラントはニヒルな笑みを口の端に浮かべた。
「まあ、無理だな」
「貴様!」
「心配せんでも守ってやるよ。ただし条件がある。コイツを背負ってやってくれ」
「僕が?!」
「お前以外誰がいるんだ」
グラントに言われ、黙り込むロベール。そんな彼の目線がアランに向く。
「やるのか。やらねえのか」
どっちなんだといらだったように言うグラントに、ロベールは返事をしなかった。そんな彼にグラントは呆れた顔をし、胸で十字を切った。
「なんだよ!」
「はぁ?」
「どうせ最低の奴と思ってんだろう?! ああそうだよ、でも、でもどうしようもないんだよ! どうにもならないんだよ!」
「何がどうにもならないんだ?」
「そんなの分かんないよッ!」
気を失っているアランの顔を見ながらロベールは幼児の様に泣き喚いた。
「自分で自分の感情がどうにもならないんだよ! 我慢ならないんだよ! どうしたらいいんだよ!」
「……まあ、その気持ちは分からんでもない」
グラントは静かに言った。それは静かな声だったが、ロベールの癇癪を鎮める力があった。
「その気持ちは分からんでもないよ。人間、そんなに簡単に恩を感じて改心出来るほど単純には出来てねえからな」
だったらとグラントは言った。こいつに恩を売るつもりで背負ってやったらどうだと。
「何?」
「お前の価値観からすりゃ、おあつらえ向きの考えだろう。今まで散々どやされたんだろ? 王都に帰ったら、お前を助けたのはこの僕だ、と言ってやれるチャンスだぞ」
グラントの口調は軽かった。だが彼の首筋に汗が流れていた。
「……」
しばしの沈黙が続いた。その間も唸り声が近づいてくる。森からも、そして地中からも。
その時だった。気を失っていたアランが身じろぎした。彼は言った。俺のことは置いて行ってくれと。
「ハーヴェイ、お前」
「殿下を、頼むぞ」
そう言うなり、アランは今度こそ気を失った。グラントが呼びかけても返事がない。
アランの目は固く閉じられたままだった。
「し、死んだのか?」
「生きてるよ」
そんなグラントの言葉はむしろそっけなかった。ロベールの声がまた震え出す。
「まさか、このまま死ぬなんてことないよな?」
「さあな。俺は医者じゃない。助かるかどうかなんてコイツの運しだいだ。そこまで責任は持てんよ」
包帯を巻いたアランの額から、血がはみ出していた。
「……」
そんな彼の顔を見ていたロベールの手が小さく震え、やがてその手が、しっかりと拳となって握りしめられた。
ややあってロベールは言った。ハーヴェイは君が背負ってくれと。
「何?」
「僕が戦う」
ロベールの言葉に、グラントはナンダッテ? と目を見開いた。
「おいおい、坊ちゃま、そんなこと言って」
「見くびるな。こう見えてもちゃんと剣の手ほどきは受けてるんだ」
そう言ってアランから奪い取った剣を握るロベールの手はもう震えていなかった。
「いや、でもな」
「一刻も早く医者に見せねばならん!」
グラントを怒鳴りつけるロベールの瞳から、光るものがこぼれ、流れた。グラントが驚いたような顔でロベールを見た。
「一刻も早く、い、医者に見せねばならん、だから」
光るものが後から後から、ロベールの頬を伝って流れる。
ロベールの言っていることは今更というやつだ。当たり前だ、今までお前はそれに気づかなかったのかと言われるレベルだ。でも、彼はようよう、ここまでたどり着いたのだ。
一方通行だった彼の世界に、ようやく他人への道が出来始めたのだ。
「おい」
そんなロベールにグラントが声をかけた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のロベール。ゴブリンのクソまみれのロベール。グラントはそんな彼に寄り添い、クソで汚れた頭をワシワシと撫でた。
のろのろと顏を上げるロベールにグラントは言った。お前の言う通りにしようと。
グラントの言葉に、ロベールはワッとはじけたように泣いた。
「お前に言っておくことがある」
グラントはロベールに言った。今日を限りに、二度と泣くなと。
「それはテメエの親が死ぬまで取っておけ。いいか」
盛大に鼻をすすって頷くロベール。もうその頬には涙は流れていなかった。
アランはグラントの背中に括り付けられた。それはロベールがやった。それまで散々アランに、まちがってると言われても直そうとしなかった結び方。今、彼は素直に教わった通りに、アランをグラントの体に結び付けた。
「行くぞ。僕について来い!」
勇ましく言う王子。仰せのままにと言うグラントの口調は軽く、そして明るかった。
その日は、侍女試験の日だった。筆記試験と実技が午前中に行われ、午後から面接。城の広間がそのために当てられ、沢山の親がそこにつめかける。
その中で、ジェシカは祖母と一緒にいた。
そこにソフィアがやって来た。青い顔をして祖母と座っているジェシカの傍らに腰かける。
「気をしっかりお持ちになって。何かあったら私がついてますわ」
「ソフィアちゃん……」
ジェシカの目は、よく見ると少し腫れていた。多分夕べ、とうとう当日の前の日になっても戻らない両親を思って泣きあかしたせいだろう。
「お可哀想に。よくお休みになれてないのではなくて?」
言葉もなく、頷くジェシカ。
「まあ」
ソフィアがぎゅ、とジェシカを抱きしめた。そんな二人を見守るシェーラがそっと目頭を押さえる。
「ソフィア、そろそろ私たちの番よ」
フスカ公爵夫人がソフィアを呼びに来た。そしてジェシカらの様子を見て、シェーラにそっと囁いた。
「まだ、お見えではありませんの?」
「ええ」
シェーラが俯く。
アランは試験の日には必ず戻ると言っていたのだ。
生まれてこの方、アランは一度も約束を破ったことはなかった。
沈み込むシェーラに、公爵夫人は鼻息荒く言った。
「なんでしたら、私、家の者に使いを出させますわ奥様。どうぞご遠慮なく仰って」
「公爵夫人、お心づかいは有り難いんですが、そこまでしていただいては」
「どうかご遠慮なさらないで。ソフィアがこんなに同い年のこと打ち解けられたのはジェシカちゃんのおかげですのよ。その恩返しをさせてくださいな」
「公爵夫人……」
たまらず泣き出すシェーラ。その時だった。
ちょっと、そんな恰好で入られては困りますと広間の入り口付近で声がした。着替える暇がなかったんだ、入れてくれと男の声がする。
その声を聞いて、ジェシカが息を吹き返したように椅子から飛び上がった。
ジェシカ、と自分を呼ぶ声がする。
ジェシカは声の方に向かって走りだした。
シェーラが立ち上がってそちらを見る。ソフィアが、公爵夫人が。
「ジェシカ! どこだ? どこにいる?!」
「ジェシカ、ママよ! どこにいるの?!」
パパ、ママ、と叫んでジェシカは五歳児と思えないほど跳躍力で両親に飛びついた。まだ包帯姿のアランの腕が、娘をしっかりと受け止めた。
彼女の両親は農奴のような質素な格好だった。今まで冒険者の格好だったのだから仕方ない。とりあえず会場の入り口で鎧だけ外してきたのだ。
「遅くなってごめんよ。ジェシカ」
アランの言葉に、ジェシカは泣きじゃくりながらブンブンと首をふった。
「パパとママ、こんな格好だけどいい? ジェシカ」
マリーの言葉に、ジェシカは泣きじゃくりながら何度もうなずいた。
やがて、「ハーヴェイ様、お入りください」と面接官が呼ぶ声が聞えた。
薄汚れた格好の両親。ジェシカはそんな二人の手をしっかり握りしめた。その顔は誇らしげに、そして明るく光り輝いていた。
――そして。
それがジェシカ・ハーヴェイにとって初めての、人生の第一歩となった。
それは神が彼女に指し示した、幸福への第一歩でもあった。
それからまた、季節は巡って。
ゲルマン王国フランドル地方はまた春を迎えていた。領民たちが麦を植え、木々が芽吹き、花が咲く春が。
そこに一台の馬車がやって来た。みんな思わずそっちを見る。えらくまた、ぼろっちい馬車だ。一体誰が乗っていなさるんだろうと。
「御領主さまだ!」
誰かが叫んだ。とたん、みな畑道具を放り出して馬車を追いかけ始めた。
馬車の窓が開き、お前ら元気だったかと彼らの敬愛する領主が顔を出した。御者が気を利かせて馬を止める。
領民が次から次へとそこに押し寄せてきた。
やがて馬車からアランが降りると領民たちは彼をもみくちゃにした。その後ろから現れたマリーもである。
「おいおい、マリーは今お腹が大きいんだ、手加減してやってくれ」
アランの言葉に、領民らはアラアラと二人を見やった。
そしてその後ろから現れたジェシカ。領民らは彼女の顔を見るなり口々に言った。
「なんとまあ、見違えたよ! ちょっと見ない間に……」
「レディになったろ?」
アランが自慢げに言う。領民たちの前でジェシカは見事なカテーシーを披露してみせた。おおおおおー、と領民たちがどよめく。
「それにしても御領主さま、えらいまたオンボロ馬車ですな」
領民の一人がそう言うのも無理はない。ここまで走って来れたのが不思議なくらいそれはガタガタだった。繋がれている馬ですら呆れたような顔をしてるように見える。御者が苦笑いしていた。
「しょうがないだろ。領地買い戻すのにほとんど金を使っちまったんだよ」
「なんと、ということは」
領民たちは顔を見合わせ、やがて躍り上がった。やった、よかった、よかったとみな互いに喜び合った。
国王から、息子を立ち直らせた褒美に何が良いと聞かれ、アランは何もいらないと答えた。しかしそれではこちらの気がすまぬとの国王の言葉にアランは言った。
「殿下のおかげで、家族ともども救われました。これ以上の褒美はございませぬ」と。
ではどうやって資金をこさえたのかと言うと、ドレスである。
売っぱらってしまったのだ。ジェシカがいらないと言ったから。
とそにこ豆粒の様に二つの人影がこちらの方に走ってくるのが見えた。お嬢様ーと声が聞えてくる。
それはジェシカの世話をしていた爺やと婆やだった。
二人にも立派な挨拶をするジェシカ。老夫婦は涙にくれた。
「まあまあ、こんな素敵なレディになられて」
「本当だ、どこの王国のお姫様かと思った。じいやは思わず見間違えるところでしたよ」
「もう、二人ともほめ過ぎ!」
ジェシカはいたずらっぽく笑ってそう言うのだった。
ところで……。
侍女試験には受かったのか受からなかったのか。
そこは定かではない。夫妻もシェーラもその事に関しては周りに何も言わなかったそうである。
ただ、ジェシカは両親の望み通り、玉の輿に乗った。
辺境の一領主のもとに嫁いだのだ。
そこの領主は不器用で、何をするのもドジばかり踏んでいて、おっちょこちょいが服を着て歩いているような男だった。
まるで自分の父親を思わせる、そんな男の妻となったジェシカはよく働き、夫を助け、沢山の子宝に恵まれた。もちろん困難はあったけれど夫婦で力を合わせて乗り越え、
幸せに暮らしたとのことだ。
――めでたし。めでたし。
終