人生万事塞翁が馬
ゲルマン王国。ピーターズバーグ地方。そこにマリーの実家がある。海に面したその場所はスクウ伯爵家の領地で、風光明媚な場所として知られていた。
「旦那様――……」
恐る恐る、メイドが叩く扉。それはスクウ伯爵家当主、トーマスの部屋のだった。
なぜそんなに怖がっているのかって?
もちろんそれには理由があった。
「あの、旦那様、朝食をお持ちしました……入ってもよろしゅうございますか?」
メイドが持っているトレイの上に、美味しそうなブレックファーストが並んでいる。焼きたてのパンにハム、ふわふわの卵料理に、もぎたての果物。海に近い領地ならではの燻製の魚に、それらを胃袋に誘い込む薫り高いお茶が添えられている。
「あの、旦那様」
扉の向こうからは返事がない。
メイドはまた呼びかけた。その時だった。
「ブルギッタ、いいのよ。放っておきなさい」
階段下からそんな声がした。
「奥様」
階段下で腰に手を当ててこちらを見上げているのは上品な、そしてどことなくマリーに似た中年の貴婦人だった。
このスクウ家の女主人でトーマスの妻、ジョアンナという。
「ですが奥様、旦那様は昨日からなにも召し上がってません、ですから」
心配そうに言うメイドに、女主人はハッ、と何か馬鹿にしたような態度をとった。
「空腹になったら勝手に食べるわよ。食堂にでも置いておきなさい」
「……分かりました……」
メイドのブルギッタは注意深く階段を下り、主人のために用意した朝食をダイニングルームにもっていき、ナプキンをかけた。そして短くため息をついた。
ところで肝心の主人のトーマスはというと……。
「マリー、どうして手紙をくれない……待ってるのに……」
どよーんとした雰囲気を漂わせ、まるでアルコール中毒のような体で椅子に座りこんでいた。
そう、つまり、ブルギッタの主人、トーマスの落ち込みの原因は、マリーからの手紙が来ないことだった。筆まめなマリーは暇を見ては両親あてに手紙を書いていたから、それが途切れたことが、つまり、
心配でならないのだ。
じゃあ様子を見にいけばいいだろうと思うのだが、トーマスはアランが大嫌いだった。彼にしてみれば、アランは大切に育てた娘を横から奪っていった奴というだけでなく、まったくもって甲斐性のない婿だった。領地の経営に失敗したと聞いた時は、本気で離婚させようとしたくらいだ。それはジョアンナに嗅ぎ付けられて未遂に終わった。
以下、その時の様子である。
「なんで止めるんだ?! あんな奴の処にいたら苦労させるたけだろうが!」
「苦労? あれっぽっちのことが?」
ハッ、とジョアンナは馬鹿にしたような態度をとった。
「あんなの苦労のうちに入りませんわよ」
「そんなこと言ったってお前」
まだぐすぐず言うトーマスを、鉄の女とあだ名のある妻は半目で睨みつけた。
「そうやって甘やかすから、余計にこんなことになったのではありませんこと? 私が何も気づいてないとでも思っていらっしゃるの? 貴方、私に隠れてあの子に仕送りしてますわよね?」
うぐ、とトーマスが詰まると、ジョアンナは言った。そんなことをするからですよと。
「誰かが助けてくれる。誰かが何とかしてくれる。人生の問題は本当は夫婦で立ち向かわなければならないのに、貴方が早手回しに助けるものだからいまだにあの子は大人になりきれないんですのよ!」
ですから今後一切手助けしないようにとジョアンナからきつく言われたトーマス・スクウ伯爵。それもこれもみんなあのヘラヘラヘラヘラしてる婿のせいだと、王都から遠く離れた港町から、娘の婿に負のエネルギーを募らせる彼であった。
同時刻。王都で朝から仕事に励んでいたアランは、何やら背筋に冷たいものが走るのを感じてゾクッと体を震わせた。
――なんだこの、怨念のようなものは。
振り返っても誰もいない。
「……」
アランにはその怨念に心当たりがあった。それはマリーの親に挨拶にしに行った時だ。
マリーの父親から発せられる漆黒のオーラがそれだった。
まさか、こんな場所に義父が?
いやいやそれはありえない。
それに嫌われてはいないはずだ。とアランは思った。雰囲気こそ暗かったけど、ちゃんと結婚式にも出てくれたし、そもそも反対などと一言も言わなかった。もともとあんな人なのだとアランは思っていた。
それに仕事を紹介してくれたのもマリーの父だ。
アランにしてみれば、スクウ伯爵家の領地で同居でもよかったのだが――。
その時、秘密裏にされようとしていた離婚工作なんぞアランが知る由もない。いや、知れない。能力的に嗅ぎ付けるのは彼には無理なのである。性格上、人を疑えないというのもあるが。
どちらにしろ、世の中、知らない方がいい事もある。
入れてくれたお茶をずずう、と啜り、デスクに戻すと、丁度その位置にマリーからもらったランチボックスが置いてあった。
今日は何かなー、とアランはこっそり中身を見ようとして、いかんいかん、お昼のお楽しみだと我慢した。
決闘騒ぎからこっち、マリーは格段に料理の腕が上がった。それまで食堂のランチで済ませていたのが、弁当持ちになった。毎日中身が楽しみで仕方ない。
仕事が次々とデスクに運ばれてくる。それに精力的に目を通し、処理していくうちに昼の時間になる。アランはニヤケながら蓋を開けた。
――おうっまぶしい。
ハート形のサンドイッチ。付け合わせはこれまた自家製のピクルスにかぶの漬物。最近ではデザートまでついてきてる。
サンドイッチを一口ほおばるアランの顔が、ほんわぁととろける。
幸せだ。
アランは一人感涙にむせぶのだった。
この後、義父の怨念のせいなのか、はたまた神のいたずらか。
また厄介なことが起きるのだが、今の彼には知りようも無かった。
「模擬試験だって?」
その話が出たのは、ジェシカも寝ついて夫婦で一日の疲れをいやしている時だった。食後の酒を楽しんでいたアランに、マリーが言いづらそうに切り出したのだ。
侍女試験は国試で、中身は筆記試験と実技試験、そして面接となっている。
今回、塾でやるのは筆記だった。
マリーから模試に出てくる内容を手渡され、アランは絶句した。
「こんなのを五歳児にやらせんのか? 貴族高等学校の入試じゃないよな?」
マリーが言う。私もそう思ったけどと。
エリートコースの入り口になる侍女試験。四則演算に読み書きが出来ていたらそれで上出来と思っていた夫婦だったが、とんでもない。
歴史、文学、外国語、初等数学、基礎科学に基礎生物学と植物学。
それらをなんと論文で答えねばならない!
「あなた、ど、どう?」
マリーが上目遣いにアランを見て言う。問題を食い入るように見ていたアランが、へ? と返事する。
「どうって」
「貴方分かる? て聞いてるんだけど」
「わか――」
分からねえ。
と素直に言えたらどんなにいいかbyアラン。
妻の、期待しているような、していないような目が彼を見る。
しかし、分からないものは分からない。
こんなの教えようがない。
「他のお母様方に聞いたんだけど、家庭教師を雇うんですって」
「いっ?!」
「そんないやそうな顔しないでよ。ただ聞いた話してるだけなんだから」
「それは、分かってるけど」
マリーの仕入れてきた情報によるとそうらしい。
しかもその教師にもランクがあるとのことで。
「ったく、どこもかしこも階級付け。いやになるな」
でもそうしないと、とてもじゃないがこんなテストに太刀打ちできぬ。そう思っていたアランに、妻が意外なことを言い始めた。
「ねえ、貴方、私もういいと思ってるの」
「へ?」
「だって、ジェシカもだいぶ良くなったでしょ? 決闘の時も言ったじゃない。侍女試験なんかもうどうでもいいって。悪い意味じゃなくてよ?」
今まで我儘放題だった我が子がここまで頑張れるようになったのだ。もう十分だろうと。
「そーだなー」
マリーの言う通りだとアランは思った。それにその方がジェシカにとっても負担が少なかろうと。
ところが!
「やだ」
ジェシカの返事はそれであった。塾を辞めたくないというのである。
「ジェシカ、寺子屋にうつったら、いろんな子と沢山遊べるぞ。それにみんなでいろんなところにお出かけできるぞ?」
寺子屋はこの世界では幼稚園より緩い、子供の集まりみたいなところで、幼年学校に入る前に庶民の子が通う場所だった。
そりゃ、いま通ってる塾よりはかなり自由も効く。
しかしジェシカの返事はノーであった。
「やだ」
「でもジェシカ、これからもっともっと大変になるわよ。それ分かってる?」
「ジェシカ頑張るもん」
きっばり言いきる娘に、夫婦はため息をついて顏を見合わせた。
娘の頑張りは分かるが、どうしようもない。
夫婦はあれからいろいろと調べたが、家庭教師をやとったとしても、望みは薄いらしい。というのも、他の子は既に物心つく前から英才教育を受けてきているというのだ。
つまり時間の差があり過ぎるのである。
頑張って、もし結果が得られなかった時のことを思うと、ジェシカが可哀想に思うアランとマリー。
娘の頑張りは尊重したい。したいが、現実は。
「じゃあジェシカ、もし、もしもよ。落ちても、泣かない?」
恐る恐る聞いたマリー。ジェシカの目にたちまち涙が溜まった。
「ジェシカ」
「ジェシカ、侍女になりたい」
ぶわわわわ、と涙が小さな瞳からあふれてきた。
「ジェシカ、お前」
アランの声が、震える。
「ジェシカ、あなた」
マリーの瞳から涙が。
若い夫婦は感動していた。もちろん、我が子の成長にだ。
ジェシカは女の子だが、男子三日会わざれば括目して見よとの諺がある。
子供って、こんなに成長するんだ! と。
ジェシカ、とアランは感極まって娘を抱きしめた。パパは嬉しいぞと。
マリーが言う。ジェシカ、ママにも抱っこさせてと。
塾に入れて良かった!
満面の笑みでそう思いあう夫婦。
娘のやる気は嬉しい限りだが、試験対策をどうするか。
家庭教師の値段を見ると塾の月謝の二倍は軽くする。
食費家賃が浮いてるとしても、これは正直痛い。今ですら節約しているのに。
しかしこれは意外なところから助けの手が伸びることになった。
「まあまあ、そんなことでしたら奥様、ソフィアと一緒に勉強なさるといいですわ」
塾で思わず愚痴ってしまったマリーに、気さくに言ってくれた人物がいた。
フスカ公爵夫人である。
「え?、で、でも」
「遠慮なさらないで。ソフィアもお友達と一緒にする方がうれしいでしょうし」
オホホ、と上品そうに笑う夫人の隣で、ソフィアが腰に手を当てて仁王だちしていた。
「わたくしは不本意だけどあなたがどーしてもって言うんなら一緒に勉強してあげてもよくってよ」
こらこらソフィア、そんな風に言うんじゃありませんとたしなめる公爵夫人。憎まれ口を叩きつつも、なぜかジェシカを期待を込めたような目で見るソフィア。
で、当のジェシカはというと、
五歳児とは思えないほど、頭の中でそろばんを弾いていた。
ドレスを買ってもらうのと、この嫌でたまらない相手と一緒に勉強するのとを天秤にかけるジェシカ。
彼女の頭の中で、しばらくその天秤は揺れ動き、やがて答えを出した。
ドレスである。
「ジェシカ、どうする?」と聞く母親に、ジェシカは小さく、うん、と頷いた。
「まー、嬉しいわ。じゃあ今日から始めましょうか」
帰りは家まで送って差し上げますわと公爵夫人が言うと、ソフィアが言った。私、ジェシカちゃんの家で勉強したいと。
「そんな、恐れ多い。うちは汚いですよー、だって冒険者ギルド経営してるし、汗臭いし、ロクなおもてなしも出来ないと思いますけど……」
マリーがそう言うも、公爵夫人は上機嫌だった。
「そんなこと仰らずに……ソフィアがよそのお家に行きたいなんて言うなんて初めてだわ。奥様さえよかったら娘をお邪魔させてよろしいかしら?」
「それはもう、構いませんけど、本当にいいの? ソフィアちゃん」
うん、と元気良く頷くソフィア。
こうして仏頂面のジェシカの意向は全く尋ねられることなく、ジェシカの家での勉強会が始まったのだった。
が!
「信じられませんわ。フェルマーの最終定理すら知らなくて今までよく五歳児やってましたわね?!」
ズビシ、とジェシカを指さすソフィア。
「だってそんなの習わなかったもん!」
「習う? こんなの基礎ちゅうの基礎でしょ?! 知らないほうがどうかしてるんじゃなくて?!」
いいこと? と連れてきた家庭教師そっちのけでジェシカに教えるソフィア。それを見て素直に感心するマリー。
「凄いわね……ソフィアちゃんって」
「ま、まあ、十年に一人と言われている才媛でいらっしゃいますから」
家庭教師が汗をかきつつ説明する。
「さ、休憩しておやつはいかが?」
焼きたてのクッキーをマリーが振る舞うと、ソフィアはとても美味しいと手放しで褒めた。
そんなことされて嫌な人間はいない。
「まあまあありがとう、たくさん食べてね」
頭もよく、礼儀もわきまえている(いない)ソフィアにマリーはすっかりコロッとやられてしまった。
「いい? ジェシカ。しっかりソフィアちゃんを見習うのよ」
母親にそう言われ、ジェシカは力任せにクッキーをかみ砕いた。一緒に啜るココアが彼女にとってはなぜか苦い!
模試対策として、試験当日まで塾はお休みだった。だからソフィアと一日中顏を突き合わせる羽目になったジェシカ。毎日毎日ことあるごとに機関銃のように小ばかにされた彼女は祖母に泣きついた。
「おばあちゃん、ドレスに一杯宝石付けて!」
「はいはい、分かったわよ」
可哀想にと孫を慰めるシェーラに、ギルドのパーティメンバーはひそひそと囁いた。
「大丈夫なんですか女将さん。そんな約束して」
するとシェーラは言った。大丈夫よ、どうせ受かりゃしないわと。
そして模試の結果が出た。
マリーは目をまんまるくして結果を食い入るように見た。
「ウソでしょ?」
結構いい数字を叩き出している。
塾の掲示板に張り出された順位表。ジェシカのそれは真ん中よりチョイ下くらい。それでも大健闘だと講師も褒めた。
「ジェシカちゃんスゴーイ」
と言ったのは子爵家令嬢のリンダだった。ちなみに彼女も同じくらいの順位である。
「リンダちゃんだってすごいよ」
「私はずっとやっててこれだもん。でもジェシカちゃんは模試やったことないんでしょ?」
「まあね」
「まあ、私の指導あってこその順位ですわね」
後ろでふんぞり返る声。
「ソフィアちゃんまた一位だねすごいね」
リンダが素直に褒める。ジェシカはフンッと顏を背けた。まあ当然ですわねとソフィア。
「まあまあすっかり仲良しになってしまって」
そんな有様を見て嬉しそうに言う公爵夫人。マリーもうんうんと頷いた。
その日の晩飯はご馳走だった。マリーが腕によりをかけてつくった料理に、奮発して買ったワイン。アランはご機嫌で杯を重ねた。
「一時はどうなるかと思ったけど、何とかゴール見えてきたんじゃねーか? マリー」
「そーよねぇあなた!」
さー、飲んで飲んでとマリーは夫のグラスに盛大に注いだ。ジェシカが口いっぱいにケーキをほおばる。
塾の講師の話だと、今の成績なら、十分合格は狙えるとのことだった。模試は本試より難しく作ってあるので、だいたいこれだけ取れればいいのだそうだ。
あとは実技と面接で差をつければいい。そこはお任せくださいとのことだった。
「あれ? お義母様、どうなさったんです? お食事進みませんね」
「あ、いや、そんなことないわよ」
オホホと言いつつ、ちびちび酒を飲んでいたシェーラは、さりげなく嫁にこう尋ねた。
「ねえ、あの、有名なブティックのドレスの値段っていくらくらいだっけ?」
「へ?」
「だ、だから、ほら、ジェシカがほしいって言ってたドレスのことよ」
「ああ、あれでしたら確か五十万クラウンだったと思いますわ。それがどうかしまして?」
「な、何でもないのよ」
オホホと笑うシェーラに、酔っていたアランが急に真顔になった。
「もしかしてオフクロ、ジェシカの合格祝いをもう考えてくれてるのか?!」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
「オフクロ」
じわ、とアランの目に涙が。
俺は嬉しいよぉぉぉと号泣する単純男に、良かったですわねアナタと同じく純粋な妻は感涙にむせぶのであった。
順風満帆だ。
領地経営で躓いてからこの方、良いこと一つなかったハーヴェイ一家。
しかしここにきて一発逆転の可能性が出てきた――。少なくともハーヴェイ夫妻はそう思っていた。
晩飯のご馳走をお腹いっぱい食べ、ベッドで満足そうな顔で眠る娘。我儘放題だったのがこんなにもイイコになってくれて、おまけに頭まで良くなってくれて。言うことなしとはこのことだろう。
この調子で侍女試験にもしも。もしも合格したら。
超難関と言われている侍女試験。それに合格した娘の父としてアランだってきっと今よりもっと出世するだろうし、そうすれば領地も、いやいやもしかしたら爵位が上がって――。
夫妻の夢は膨らむ一方だった。
ただ、彼らの夢の中には一つ重要なファクターが欠けていた。それはジェシカの性根である。
全く変わっていないのだ。
塾に入る前と。
しつこいようだが、今のジェシカのやる気を支えているのは何か。ドレス買ってもらうことである。
合格したらキラッキラのを買ってもらうんだもん。である。
決闘でもケロッとしていたのは動機が動機だったからに過ぎない。
そしてなお悪いことに、そこに負けず嫌いが加わっていた。
人から褒めてもらわないと我慢できず、そこに負けず嫌いが加わり、そして万が一、侍女試験に合格しようものなら権威まで加わってしまう。
まさにモンスターである。誰の手にも負えない人間が出来てしまうのだ。親ですら解けない問題で、難関を突破したなんて実績をこんな性格の子に与えようものなら。
それは、シェーラの懐具合よりも深刻な問題で、しかもマリーもアランも気づいていなかった。
人生、そうそううまく行かない。特に自分が順風満帆だと思ってる時は。
主はちゃんとご覧になっていて、その人間にふさわしい運命をご用意される。
アランが上司に呼び出されて執務室に赴くと、とんでもない人物が待っていたのである。
それは国王陛下と、追放されたはずの王子だった。
「へ、陛下!?」
慌てて膝をつくアランに、楽にせよと命じるフリート一世。
となりで、ドラ息子がふくれっ面で座っていた。
「これは、殿下、お久しぶりでございます」
挨拶するアラン。それを無視するロベール王子。
ちゃんと辞儀をせぬかと叱る王。
「すまんな、突然こんなことになって」
アランの上司はなにやら言いづらそうにアランを見た。
――何か嫌な予感がするんだが。
その予感は的中した。
「実は、殿下を部下として使ってやってくれないかと思ってな」
予感的中。
なんだかそんな気が、したアランだったのだ。
「いや、でも、恐れ多くも殿下を部下としてだなどと」
「そんなことを言わずに頼む」
フリート一世がアランに頭を下げる。やめてくださいそんなこととアラン。
じゃ後は任せたよと上司は逃亡した。
うぞぉと半泣きのアランに、国王の顔が間近に迫る。
「頼む。そちしか頼める相手がおらんのだ」
「そんな、何も私じゃなくても」
「わしもよくわからんのだが、そちが他人に思えなくてな……こんなこと、ほかの誰にも頼めぬ。頼む、うちの息子を使ってやってくれ!」
他人でいいです。
というかとアランは思った。
粗大ごみ押し付けんな!
しかし、自身も似たような子供を持つ身として、フリート一世の気持ちは痛いほどわかるアラン。
ここに預けに来たのも、断腸の思いだったろう。
どのみち、主君からの頼みは断れない。
かくしてロベール君はアランの部下として働くことになったのだが――。
「ねー、台帳に昨日の分の受け付けが記載されてないんだけど」
台帳とは、受け付けに来た人の名前と住所、紹介した仕事を記した帳簿である。
名前書くだけだから簡単と、アランがロベールに任せたのだ。
それが真っ白だと言うのである。
「殿下、あの、仕事は……」
「あんな地味な仕事は嫌だ」
「そんなこと仰せになられましても」
「高等貴族大学を首席で出た私にあんな単純作業をしろというのか貴様!」
「わ、分かりました、では私が代わりに記載しておきます」
書類を返してくださいと言うアランに、ロベールは衝撃の言葉を放った。
「捨てた」
「はぁ?!」
「ムカつくから捨てた。あんな仕事を任せたお前の責任だ」
ナン、デス、トーと叫ぶアラン。
それがないと仕事先でのトラブルにも対応できないし何よりアランの部署の信頼にもかかわる。
幸い、控えをとってくれていた女子職員がいた。それでその件は事なきを得たのだが……。
一応デスクを与えられてはいるが、その上には何もない。そりゃそうだ。そんな人間怖くて仕事なんぞ任せられない。
書類のはんこ押ししか出来そうにない。でもそんなのは嫌だと言う。
「私を愚弄するつもりか!」
書類と一緒にハンコをひっくり返し、幼児のように暴れるロベール。耐えきれずにアランは王に連絡を取った。
「申し訳ない……」
平謝りする王に、アランは力なく言った。とてもじゃないけど手に負えませんと。
「そんなこと言わずに、どうか息子を頼む」
そんなこと言われたって泣
さんざん考えたアランが出した答えは、こっちから仕事を紹介することだった。
頭がいい事を自認しているのだから、研究所なんかが意外といけるかも知れない。
こう言う難しい人間は向いてるのかも知れない。
一縷の望みを託して魔術研究所に無理くり入れてもらい、
そしてその日に返品となった。
「二度と連れてこないで! 人の研究勝手に盗んで自分のだって言うんだよこの人!」
殿下と涙目で言うアランに、それの何が悪いのだと言う殿下。
いや、だからそれは人の研究ですよねと言うアランに、煩いとロベールは怒鳴った。
そんな状態なので、最近のアランは食欲もなく、夜も眠れない日々が続いた。
「貴方、一体何があったんですの?」
なんでもないよと言うアランに、何でもない顔じゃありませんよとマリー。
事情を話しても心配するだけなのでアランは何も家族に相談していなかった。
人生、これだと言う時が必ず来る。それは大抵、とんでもなく厳しい状況の時だ。
人は麗らかな昼下がりや穏やかな時に、人生の決断を下すことはない。
そしてその日は、アランにとって決断の日でもあった。
「責任者出てこい!」
職安の窓口で、阿修羅のような顔で怒鳴り込んできた男がいた。
アランが慌てて駆け付ける。
「どうなさいました?」
「どうもこうもあるか! こいつがうちの金を持ち逃げしたんだ!」
そこに、殴られてボロボロの状態のロベールが、その男の部下らしい人間に首根っこ掴まれて現れた。
「おい、ハーヴェイ男爵! こいつらを一人残らず縛り首にしろ! 身の程知らずにも王太子の私に手をあげたんだぞ!」
殴られた口で叫ぶ王子。まだ言うかと男の部下に殴られ、口から血を吐いた。
「お前が紹介するから信用して雇ってやったんだ! なのにこのありさまだ! どう責任とってくれるんだ?!」
聞いた話だと、金は既に使い込まれてしまっていたと言う。
使い道は、一緒に住んでいる子爵令嬢……もうすでに身分ははく奪されているが……のドレス代だというのだ。
「仕入れ先に払う金もない、こっちは首を吊るしかない……本当にどうしてくれるんだよ!」
茫然とするアラン。話はすぐに国王の処に行った。職員の一人が知らせに走ってくれたのだ。
現場に着くなり国王は関係者に詫びた。そして即賠償すると約束し、息子を怒鳴りつけた。
「この愚か者が!」
だが話はそこで終わらなかった。誰かが責任をとらなければならない。
それは主任のアランに向けられた。
「そんな」
だが職を紹介したことへの、現場の監督官のような役割をしていたのは彼である。
責任は逃れようもない。
かくして今の職場をクビになることになってしまったアラン。だが国王が助け舟を出した。王宮で直接抱え込んでやろうと言ってくれたのだ。
「心配いたすな。わしの近習に取り立ててやる」
「しかし、陛下」
「こうなったのもワシの責任だ。これくらいのことはさせてくれ」
国王にそう言われて断り切れず、また断る理由も無かったアランだった。それに王の近習となれば、今より給与は上がる。
後味の悪い辞め方だが、これも人生と割り切るしかないとアランは思った。
そんな彼の傍で、王子は親から、ワシの傍で働けと言われていた。
「こんどこそ僕にふさわしい仕事なんでしょうね? 父上」
「ああ、そうだ。お前にふさわしい仕事だ」
息子の顔を見ずにそう言う国王陛下。アランはそのお顔を見て思った。もし今この場に誰もいなかったら多分この人は絶叫し、自らの頭を掻きむしっていただろうと。
やるせないとか、情けないなどと言う半端な感情ではない。とんでもない怪物を育ててしまった。話が通じない、人間でない何かに育ててしまったのだ。
その時のアランは、気の毒にとしか思わなかった。
そう思う彼も、その時はまだ、この怪物に、そして怪物を生み出した何かにとらわれていた人間だった。
「でもそれって、ある意味昇進ですわよね?」
マリーが言う。
「そうよアラン、昇進だと思えばいいのよ!」とシェーラ。
ジェシカだけは何が何やら分からないと言った顔をしている。
「あ、いや、こんな形で俺も複雑だよ……」
ピールの泡が喉を通る。苦いとアランは思った。
アランを元気づけようと言うのか、食卓には彼の好物が並んでいた。それを何気につつく彼に、マリーが言った。お城の近習ともなれば、フスカ公爵様と同じ職場になるんじゃありませんこと? と。
フスカと名前を聞いた途端、ジェシカが飛び切りいやそうな顔をするが、マリーは気づかず続けた。
「せっかく向こうのお嬢様とうちの子が友達になれたんですから、貴方頑張ってお近づきになってくださいね!」
あ、うん、と頷くアラン。
ぷすん、とフォークでスモークした魚をさして口に運ぶ。
もしゃもしゃとそれを味わいつつ、アランは思った。結果こうなったとはいえ、ジェシカのためにも、家のためにも良かったのかな……と。
その日の夜中のことである。
夕食で酒を飲み過ぎたせいか、アランは用を足しに階段下に降りてきた。その時だった。
ギルドの受け付けの処から明かりが漏れていた。どうやら誰かが残っているらしい。
そっと踊り場からのぞくと、シェーラと、彼女が仲がいいギルドのメンバーが数人いた。
カウンターに酒とつまみが並んでいる。
「それにしてもよかったですねぇ女将さん。ほっとしてますでしょ」
ここのギルドのSランク冒険者のミリアがシェーラのコップにワインを注ぐ。
「えーえ。ほっとしてるわ。これでもし万が一、試験に受かったらドレス買ってあげられそうよ」
アランの給与も上がることだしとシェーラ。近習ともなると小規模ながら土地も貰える。そこからの税収も見込めるのだ。
「ジェシカにやる気出してもらうためにあんなこと言ったけど正直、とてもじゃないけど高すぎて買えないもの」
デスヨネーとパーティメンバーたち。
「もので釣るのは良くないけど、他にやりようもなかったし」
はあ、とため息をついてシェーラはコップの酒をあおった。
「でも結果良ければ全て良しですよ。女将さん」
そういわれ、そうよねと肯くシェーラだった。
彼らの話を聞いたアランは何も言わずに、気付かれないように二階に上がった。そして丸くなって眠り込んでいる娘と嫁の隣にもぐりこんだ。
「今、なんて?」
シェーラが驚愕して言う。無理もない。だって息子が冒険者ギルドに入ると言ってるのだから。
「だからオフクロ、オフクロの顔で、どこか大手の処に紹介してくれ」
「でもあなた、そんなことしなくても」
「紹介してもらいたいのは俺だけじゃないんだ。こいつも一緒に頼む」
そう言ってアランが連れてきたのはなんと王子だった。なぜだと喚き散らしている。
「なぜ貴族高等大学を出た僕がこんな薄汚い……」
「薄汚いとは御挨拶だな!」
野太い声がシェーラの後ろから響き渡る。
やがて彼女の後ろから、ぬっと姿を現したのはスリーエスランクの冒険者パーティのボス、ハンスだった。
まるで重戦車の様な風格がある男だ。
「女将さん、こいつらは俺のところで使ってやる。紹介状は要らねえぜ」
「でもハンス、こんなお荷物を」
「お荷物とは言ってくれたねオフクロ」
アランが苦笑いした。
「いえ、貴方のことじゃないのよアラン、その」
「いいんだ。俺だってお荷物だ。この人と変わらない」
たのむ、とアランはハンスに頭を下げた。
「よかろう。俺のところで使ってやる。何、テメエらみたいなゴミが紛れたところで俺たちは痛くもかゆくもねえ。但し、裏切ったらその場でぶった切る。いいか」
「き、きさま、王太子の僕に向かって」
「てめえこそ、人を捕まえて薄汚いと言っただろう。礼儀を知らんのか!」
幾多の修羅場を潜り抜けたパーティのボスの怒鳴り声。我儘王子はひっと叫んでその場にへたりこんだ。
「あなた、一体どういうつもり……」
「マリー、俺はやっとわかったんだ。子供に何を見せるべきか」
それは畏怖され、仰ぎ見られる存在になることだった。
そうでなければ、親は子供を守れない。
「俺は、その答えを見つけに行く。そのために冒険者になることを選んだ。分かってくれ」
ジェシカのために。そして、哀れなおのが主君のために。
そして何より自分ために。
そう言ってアランは踏み出した。人生の一歩を。
外れかけていた道が、ようやく元に戻る。
ハーヴェイ一家の進む道が。
それは、主の指し示す、心正しきことへの道であった。