禍福は糾える縄の如し
良く晴れた日の朝。そこは青々とした穂が伸び始めた麦畑が広がっていた。
広大な畑の中に、農奴の家屋が点在している。
その中の、とある家の鶏小屋で、農奴の夫婦が腰をかがめて卵を集めていた。
すぐにかご一杯に集まる卵。鶏が突きに来るのを避けつつ、妻が言った。御領主さま、お元気にしてるかしら、と。
「まあ、お元気は有り余ってるようなお方だっから、そっちは大丈夫だろうよ」
と夫がいろんな意味にとれる返事をすると、妻が、そっちの元気は心配していないよと呆れたように言った。
「だいたい、御領主さまは奥様一筋だったんだから。他の女に見向きなんかなさるもんかね」
「しかし男だからなぁ」
そんな世間話をしつつ、やがて二人は腰を上げ、小屋の外に出るとあつめた卵を、藁を敷き詰めた木箱に移し替えた。この卵を今から夫が教会に持って行き、買い取ってもらうのだ。それは彼ら農奴にとって貴重な現金収入であった。
木箱を荷台に積みこみ、馬をつなぐと夫は言った。何か神父様にお伝えすることはないかと。
「そうだねえ。なら、御領主さまがドジを踏まないよう、神様に祈ってやってくださいと伝えておくれ。何せおっちょこちょいが服を着て歩いているようなお方だからねぇ」
妻の言葉に、まったくだと言いつつ夫は胸で十字を切った。
ところで、ここは何処かって?
ゲルマン王国、フランドル地方。もと、アランがおさめていた領地である。
と、噂されている当のアランはというと、職場に来て早々、上司の部屋に呼び出され、その場で盛大にへっくしょいとくしゃみをしてしまった。
くしゃみをもろにかぶることになった上司がハンカチで顔を拭く。
「あ、スミマセン」
「いや、べつにいいんだが」
まあ座れと上司から言われ、アランは恐る恐る腰かけた。上司の顔つきからするに、良い話ではないことは十分見て取れたからである。
「あのー、私に話というのは……」
アランから言われ、上司は辛そうに目を泳がせる。おいおい、そんな怖いもったいぶりは要らないってとアランは心の中でビビりまくった。まさかクビとか?!
「君の、処遇についてなんだが」
アランは椅子から飛び上がった。処遇というからには、続く言葉は決まっている。
「あ、あの」
アランの喉はカラカラに乾いていた。声が上手く出てこない。そんな彼に上司はため息交じりにこう言った。
「その、職場の女性から君へ、苦情が相次いでいてね」
「へ?」
どういうことっすか? と顏中で言うアランに、上司は分厚い紙の束を突きつけた。読んでみたまえと。
は、はあ、とアランがそれに目を通す。そこには……。
「女性にまだ結婚してないの? なんて聞くなんて!」
「女に年を聞くな!」
「勤続何年とか余計な御世話よ!」
「気安く触るなキモイんだよおっさん!」
「なんか田舎臭いと言うか不潔?! 物の食い方なってない!」
このほかにも貧乏ゆすりするな鼻をすするな等々。
アランはそれを見つつ、ボーゼンとその場に立ち尽くした。
「まあ、わしも古い人間だから、今の君の気持ちは分からなくもない。わしもしょっちゅう女房に同じこと言われてるし」
ただ、と上司は言った。
「あまりにこれが続くようなら、君には異動してもらわにゃならん」
「い、異動?!」
「まあその、いま開いてる部署と言ったら清掃係になるかな。そっちに」
アランの体から冷や汗が滝のように流れ落ちた。
「え、えーっとその場合給金は」
「今の半分以下になる」
「は、半分?」
「そう、半分」
上司との話が終わり、持ち場に戻ったアランだったが、正直、その日の職務は何をどうしたのか覚えていなかった。そんな彼が仕事をなんとか終えて家に帰ると、一階にある冒険者ギルドはまだ人でにぎわっていた。客と冒険者らが中々景気の良い話をするのが聞こえてくる。
クビになったらパーティに入るのも悪くないかなとアランは思った。一応剣の使い方は騎士団仕込みだし。
とそこまで考えてアランはブルブルと首をふった。相手は盗賊やモンスターだ。たかが幼少期にちびっと齧っただけの剣技なんぞでモノの役に立つかどうか、である。それこそ、
おまいは追放だぁ! と言われるのが関の山だろう。
「……」
疲れた体を引きずり、二階に上がる。するとドアの向こうから今日も聞こえてきた。
何がって?
「もう一回やりなおし!」
妻のマリーの怒鳴り声だ。それに続くジェシカの泣き声。そして母親の、もうそれくらいにしてあげてと言う声。
ただいまとアランが言っても誰も気づかない。
部屋の中は脱ぎ散らかした服が散乱している。スパルタ塾の制服だ。それを上手く脱着できるよう、マリーは毎日ジェシカに練習させていた。
「なあおい、ただいま。飯は?」
アランが諦め気味の声で言う。が、当のマリーは聞いていない。それどころか両手を腰に当てて娘を睨み下ろしていた。
「ほら、もう一回やってみる!」
ひく、ひく、と下着一枚の格好で喉を引きつらせるジェシカ。シェーラがもういいじゃないと止めに入るもマリーは聞かなかった。
「お義母さまは口を出さないでください! これは私とジェシカの戦いなのです!」
マリーの言葉を聞いたアランの頬に光るものが落ちた。
――戦いか……俺も戦ってんだよマリー……少しは亭主を労わってくれ……。
ひと月かかる代金はおよそアランの給与の八割。高いなんてもんじゃない。
しかも説明会で聞かされた金額はパンフのそれと違った。もちろん高い方にである。
ただ、アランの母親の家に住んでいるから、家賃や食費はどうにかなる。シェーラもそこは援助してくれると約束していた。だから金銭面では痛いことは痛いが、夫婦はショックを受けるほどではなかった。
「すみません、もう一回言って頂けますか?」
と震える声で聞いたのはアランだった。説明会のあとの個人面談。そこで夫婦は衝撃の話を聞かされた。
それは――。
「お嬢さんは、三歳児クラスから始めてもらいます」の言葉だった。
「さ、三歳? うちの子は五歳ですよ?」
ショックのあまり声も出ない妻に変わって、精神力を総動員して半ば抗議するかのように言うアランに、講師は辛そうに言った。
「ご両親にはお辛い話かも知れませんが、ジェシカちゃんはかなり難しい子です。まず、最低限のことから始めなればなりません」
着替えることも食事も一人でまともに出来ないジェシカである。そんな子が、受験体制に入っている五歳児クラスでやっていけるかと言われたら、夫婦は何も言えなかった。だって今まで叱らない教育て甘やかし続けてきたのだから。
今でさえ、少しの間もじっとできずにむずがっている。他の子は大人しくしているのに。
「でもそこはご安心ください。もっとすごい子をお預かりしたこともありますから」
慌てたように言う講師の声も、二人の耳には入らなかった。そのあとも入塾する際の注意点等の説明が続いたが、何を言われたのか彼らは覚えていなかった。これか後々えらいことになる原因になるのだが、それはさておき、
入塾手続きが終わり、辻馬車で家に帰る道すがら、夫婦は黙りこくっていた。ジェシカが、ピクニックはぁ? と聞いてくるのにも返事すら出来ない。
そんなわけで、夕刻、仕事がおわって二階にやって来たシェーラが見たのは、魂が抜けたように座り込む息子夫婦だった。
「いったいぜんたいどうしたのあんたたち。一体何があったの?」
マリーから理由を聞いたシェーラは、しっかりしなさいと若い夫婦を叱った。
「子育てなんて、後悔の連続なのよ。まだジェシカは五歳じゃないの。これからもっともっと大変なことが待ち構えているのに、今からそんな弱気でどうするのよ」
「お義母様」
じわ、とマリーの目に涙が浮かぶ。
「ほら、ジェシカを見ててあげるから、ご飯の支度をなさい。アラン、貴方もやるのよ」
「へ?」
「へ? じゃないわよ。こう言う時は夫婦二人で一緒に何かやるの。分かった?」
とそこにジェシカがシェーラの処にやってきて、さっそく、親が嘘をついたと祖母に訴えた。
「ウソついた。パパもママも。ピクニックに行くって言ってたのに」
「はいはい、でもジェシカのために仕方なかったのよ。許してあげて」
「私のため?」
「そうよ、貴方のためなの」
夕飯が出来るまで、おばあちゃんと遊ぼうねとシェーラがジェシカの相手をしてくれたので、アランとマリーは泥にまみれたジャガイモやニンジンを、一階にある井戸まて持って行って二人で洗うことにした。
野菜から泥を落とすだけの単純作業。そうしていると落ち着いてきたのか、どちらからともなく口を開き始めた。
先に口を開いたのはマリーだった。
「本当に、ちゃんとした子になってくれるかしら」
ジャガイモを洗うマリーの指先は震えていた。それは水の冷たさだけではないだろう。
「なってくれるさ」
アランが同じく、泥にまみれたニンジンを洗う。
「でももし、なってくれなかったら?」
「マリー」
「私のせいで、私のせいで、あの子が」
マリーの手からジャガイモが落ち、また泥にまみれた。むせぶように泣く妻を、アランは優しく抱き寄せた。
「君のせいじゃない」
「私のせいよ」
「君のせいじゃないよ。それに塾の先生も今ならまだ間に合うと言ってくれたじゃないか」
アランが慰めるも、マリーはアランの腕の中でしゃくりを上げ続けた。
とそこにシェーラがジェシカを抱っこしてやって来た。
「少しは落ち着いて?」
「俺はなんとか……」アランの視線が、泣いてるマリーに向く。シェーラは小さくため息をついた。
それから、夫婦の悪戦苦闘の日々が始まった。とにかく今まで何もかもやってもらっていたから、ジェシカも簡単に言うことは聞いてくれない。時にハンストまでされて、一家で困り果て、一緒に飯抜きになったこともあったし、塾に行くのを嫌がり、家を飛び出してしまうこともあった。シェーラのギルドに所属するパーティの人達と総出で探し回り、見つけ出すも、小さなお姫様の機嫌はいつも最悪だった。
まちがってしまった子育て。いくら塾の手助けがあっても、子供には親しかいないのである。二人はへとへとになりながらも……特にアランは仕事で疲れ切っていても……ジェシカをまっとうな子に戻すために必死だった。
そして、事態がすこしずつ明るい方に変わりだした。
ジェシカが、がんばり始めたのである。
小さい子の中に放り込まれ、プライドも傷ついたのかも知れない。
結果、ジェシカは三歳児クラスを、周りが思っていたより早く脱出することに成功した。
今では自分で何かが出来ること、特に着替えが出来ることがうれしくて仕方ないらしく、用もないのに塾の制服に着替えては、褒めろと親に言ってくる。
そこは盛大に褒めてあげてくださいと言われているのて、アランとマリーは多少大げさなくらい褒めた。
「ちゃんと出来たら褒めてあげて下さい。間違っていらちゃんと注意してあげて」
塾の講師から言われている言葉。よくよく考えたら当たり前のことだ。それを今までしていなかっただけで、子供の成長は止まってしまうのだと夫婦は改めて知った。
ジェシカは次に四歳児のクラスへと進んだ。そこでは基礎的な読み書きを習う。
筆すら持ったことがないジェシカにとって、紙に書くことが新鮮だったようで、落書きをしては先生に怒られていた。
だがしかし、今までじっと座ってることすら難しかった我が子が、机に向かい、先生の話を大人しく聞いている姿は夫婦にとって感動ものだった。
「今日はアルファベット全部言えましたのよ貴方!」
なんてマリーから報告を聞くたびに、アランの頬は緩むのだった。
そして彼は神に祈るのだった。どうか、清掃係に回されませんように……と。
「あー、ぺー、つぇー、でー」
たどたどしい発音ではあるけど、一生懸命なその姿にアランとマリーは思う。
たけ―月謝払ってるだけはある! と。
それにここ一か月というもの、良いこと続きだった。一時、女性職員からの苦情で掃除に回されそうになったアランだったが、
「ジェシカが頑張ってるのに、俺が頑張らなくてどうする」と一発奮起。
マリーに手伝ってもらい、なんとか見苦しくないふるまいを身に着けることに成功。
マリーの方はというと、勤め先が決まり、家計がかなり楽になりつつあった。
そしてジェシカはというと、今日から五歳児クラス。
ようやく、みんなと同じスタートラインに立てる。
「まー、でもここまで行儀良くなったんだし、無理して試験うけることないんじゃないか? マリー」
「バカにされて悔しいと仰ったのは何処のどなたでしたっけ? もう趣旨替えなさるおつもり?」
いや、ちょっと言ってみただけじゃんそんな怖い顔すんなとアランは言い、マリーを抱き寄せた。
「でもほんと、見違えたよ」
鼻歌を歌いつつ着替えるジェシカ。確かにほんの少し前とは別人のようである。
「あなた」
「君の努力の成果でもあると俺は思うぜ。毎日毎日よく頑張ったじゃないか」
まあその間俺も大変だったけどとアラン。
「貴方には迷惑をかけてしまったわね。ほんとにゴメンナサイ」
「だから君は悪くないって。まったく。今度ゴメンナサイって言ったら無理矢理口を塞ぐぞ」
やぁだあなたったらもうっ、と照れる妻。そんな妻を見て君は可愛いなという夫。
いちゃつく二人にジェシカが、ママ、塾に行こうよと駆け寄って来た。
ジェシカは綺麗に制服を着こんでいた。はじめて着れた時はしわだらけだった靴下も、今やシワ一つなく履けるようになっていた。襟元で結ぶリボンも上手く蝶々結びが出来ている。
「じゃあ行ってくるわね」
「分かった。気を付けて。今日は何時くらいになるんだ?」
「そーねえ、五歳児クラスになるともう夕方近くまでお稽古するらしいから、御夕飯ギリギリの時間かしら」
ちなみに、授業の間は親がずっと後ろで見ていなければならない。
これは、べつに安全のためではなく、主導権を握るのは親でなければならないと言う、塾の方針なのだそうだ。
途中の休憩は挟むとしても、待っていることは結構体力を使う。
あまり無理するなよというアランに、貴方こそとマリーは言い、彼らは家の前でそれぞれの行き先に向かって歩き出した。
この先、とんでもないことが起きるのだが、今の彼らにはそれを知りようも無かった。
ところで……。
何故、ジェシカがやる気を出すようになったのか。それにはちゃんとした理由と、そして駆け引きがあった。
よく考えて見てほしい。人が、自分の生き方は間違ってたなんて、おいそれと認めるものではない。それは子供も同じだ。よほど火傷でもしない限り人は自分の意志で生き方を変えられない。
ではなぜ頑張りだしたのか?
そこには、影の実力者との取引があったのである。
その実力者とは……。
「ねえジェシカ。侍女試験に合格したら、おばあちゃんがジェシカがほしがってたドレス買ってあげる」
そう。シェーラである。
シェーラは言った。ただし、ママとパパには内緒にねと。
そんな、モノでつるとかいいのか?
いや、イクナイ。
ただ、祖母にしてみれば、毎日毎日泣いてばかりの孫を見るに見かねたのだろう。
というわけで、目的が出来たジェシカ嬢。一発奮起して頑張ったというわけである。
「今日から一緒にお勉強することになりました。ジェシカ・ハーヴェイちゃんです」
今日から五歳児クラス。ジェシカはやや緊張気味だった。
仲良くしましょうね、と講師から言われ、クラスのみんながハーイと言う中、ジェシカは指定された席に座った。
「こんにちは」
隣にいた子が、はきはきとした口調で挨拶してくれた。目鼻立ちがくっきりとした、かなりの美人さんである。
ジェシカが返事をせずに黙ってその子の顔を見ていると、相手の顔が一気に不機嫌なものに変わった。
「何あんた。人が挨拶してるのに返事もしないの?」
「え?」
もう知らない。とその子はプイとジェシカから顏を背けた。
もちろんこれは、後ろから見ていたマリーがすぐ知ることとなり、パニくった彼女がすぐに講師に相談したことで事なきを得た。マリーから話を聞いた講師は、そのかなりの美人さんの子に、ジェシカちゃんは今まで、同い年の子と遊んだことがないこと、挨拶を返すことを知らなかったことなどを説明し、仲間に入れてやるように頼んだ。
「これからは、挨拶されたら返しましょうね。ジェシカちゃん」
さ、謝ってと講師から言われ――もちろんその美人さんの子にだが――、ジェシカはムスッとした顔をしかけたが、祖母が、ジェシカがイイコでいるかどうか、お空から見てるわよと言ったのを思い出し、素直にゴメンナサイと謝った。
マリーが胸をなでおろしたのは言うまでもない。ちなみにジェシカが失礼をかましてしまった子は、フスカ公爵家の娘で、名をソフィアと言い、彼女の母親はボスママだった。
「いいわ。許してあげる」
人から謝罪してもらうのは好きらしく、上機嫌でソフィアはジェシカを許した。ジェシカは何で謝らなきゃいけないのか分かっていなかったから内心かなり不機嫌だったが、これもドレスのためと我慢した。彼女の本音を言うと、なんだかふんぞり返ってるように見えるこんな子の近くになど、砂時計の一粒たりともいたくなかったのだが。
さて、その日の昼食の時間。ジェシカはソフィアの取り巻きの子と食堂に一緒に行くことになった。ジェシカにとっては初めての塾の食堂だった。なぜなら四歳児以下は昼までだったから。
食堂につくと、取り巻きの中でも一番おとなしそうな子が、席とっとこう、とジェシカに言った。
そのおとなしそうな子はブラント子爵家の令嬢でリンダという。すこしぽっちゃりとしていて、気弱そうな顔立ちをしていた。
席をとっておこうとのリンダの言葉に、二人分しかとらないジェシカ。するとリンダは言った。みんなの分取っとかないと、あとで怒られるよと。
「どうして?」
「どうしてって言われても、だってそうなんだから仕方ないじゃない」
「……」
「ジェシカちゃん」
「ねえ、それってイイコがすること?」
ジェシカの問いに、リンダは困ったような顔をしながらも、うん、と頷いた。
「うん。たぶん。良い子がすることだと思うよ。私の母様も言ってた」
だったらする、とジェシカ。張り切って人数分の席をとった。
とそこに、ソフィアら他、三人ばかりが食堂にやってきた。取っておいてくれた席を見て、あら、窓側じゃないのねとソフィアが指摘すると、リンダがすまなさそうに謝罪した。
「申し訳ありません」
「まあ、いいわ。今日は新入りもいることだし」
と言ってソフィアはちらりとジェシカを見た。
「何突っ立ってんの?」
「え?」
「私のお食事をとってきて。他の子の分もよ」
と言ってソフィア嬢は優雅に席に腰かけた。何を言われているのか、すぐに理解できないジェシカをしり目に。
――こんなものなんだろうか。
子供心に、疑問に思うジェシカ。
身分制度のある社会なのだから、子供の間でも、それは歴然として存在する。
その事をジェシカは理解していなかった。今まで父と母と祖母。城にいる間は、ばあやとじいや、わずかばかりの召使しかいなかったのだから無理もない。
それに、父親のアランが、そういった形式ばったことを嫌う人間だったからなおのことである。
奇妙なこのルール――とジェシカは思っている――は、食事の時だけではない。教室に入る時、授業の時、こまかいところで常に存在する。そのたびに、私はアンタより上なの! と大声で言われているような気がするジェシカなのだ。というか実際そうなのだが、
――何でこんなことしなきゃいけないの?
しかし周りを見るとジェシカだけでなく、他の子もそんな目にあわされている。
「……」
やっぱ、こんなもんなんだろうか。
それにこの様子は、後ろから母親のマリーも見ているはずである。
「ねえ、ママ」
塾の帰り道、辻馬車の中でジェシカは思い切って母親に聞いてみた。毎日毎日こんなことやらされてるの、と。
彼女の母親の返事はこうだった。
「そう。それで? 貴方はちゃんと上手くやってるの?」と。
ジェシカはしばらく黙り込み、ややあってうん、と小さく頷いた。
アランは何度も頬をつねった。夢じゃなかろうか。
いや、夢ではない。
「アラン・ハーヴェイ君。今日から君を主任に抜擢する」
所長から呼び出され、ビクつきながら行ったら言われたのがコレだ。
アランの頬に光るものが流れた。嬉しい……。彼は素直にそう思った。
ちなみに主任になると給与が倍になる。
というのは言い過ぎだけど、倍近くになる。
塾の月謝を抱え、領地に帰ることを絶望視していたアランにとって、それはまさに天の助けであった。
おめでとうございますハーヴェイさん、おめでとう、と職場の人に祝福され、アランは幸せの絶頂だった。
いやーども、ども、真面目に頑張った成果です、どーもーと言いつつ、彼は主任の席に座った。こころなしか椅子がフカフカしている。机もどっしりとして立派に見える!
「お茶でーす、主任」
お、悪いねとアランは女の子が入れてくれたお茶を受け取り、ムフフと笑いつつ啜った。
と、その時だった。
「あなた! 大変よ!」
窓口にマリーが飛び込んできた。
真っ青になっている。
「なんだよどうしたんだ。そんなに慌てて」アランには余裕があった。マリーから事情を聞くまでは。
そして数分後。
なんだってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ?!
アランの絶叫が職場に響き渡った。
「それ、ほんとか? 嘘だと言ってくれ」
「ほんとなの貴方。もう、どうしたらいいのか」
マリーが泣き崩れた。アランも茫然となってしまっている。
マリーが持ち込んだとんでもないこと。それは、ジェシカが塾で、公爵家の娘、ソフィアに、あろうことか……
決闘を申し込んだということであった。