獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす
宮仕えと一口に言っても色々ある。雑用から国のかじ取りに携わるような重要な仕事まで。
なんの知識も肩書きもないアランにあてがわれたのは、役所の窓口の仕事だった。
ただ、世の中どこもそうたが、激務はたいてい、下っ端に回ってくる。アランのいる場所も例外ではなかった。
「おはよーございます……」
朝。そーっとアランが職場に入るともう緊張感が漂っていた。アランは恐る恐る、同僚の女性職員に話しかけた。
「今日はどれくらい並んでるんだ?」
その職員はしかめ面をして答えた。もう整理券の数字、三桁越えてますと。
まだ受け付け開始時刻二時間前である。
「なー、おっさん、もうちっと羽振りのいい仕事ねえのかよ」
アランの前で、くっちゃ、くっちゃと噛み煙草やりつつ言うのは、おそらくまだ十代の前半かと思われる女の子。
ところでここは何処かって?
職安だ。
正式名称は王立職業安定所。アランが雇われたのはその窓口職員だった。
領主の職を追われた自分がこんなところで勤めるとか、神様の悪意としか思えんとアランは思う。
「そんなこと言われましても」
大漁の汗をかきつつ書類をめくるアランに、相手は覆いかぶさるように身を乗り出してきた。
うぐっ、と引くアランに噛み煙草少女は言った。前みたいなクズ仕事紹介したらただじゃおかねえぞと。
そ、そんなこと言われても、とアランはその少女のいでたちを見る。
多分どこかの冒険者パーティにでも入っていたんだろう。女性用の皮の鎧を付けてる。腰には剣らしいもんを引っ掛けてる。ここに武器をもちこんではいけませんと再三注意を受けているであろうにもかかわらず、こうした人種は言うことをきかない。
そしてこの手の人間は、親の言うことに背いて家を飛び出し冒険者になりたいなんて言ってたのがほとんどだ。だから人の言うことなんぞに聞く耳持つわけがないのである。ましていわんやアランの様な、窓口の役人の言うことなんぞ聞くわけがない。
全身に冷や汗かきつつ、なんとか適当な職を紹介してその場をしのぐと、次も似たようなのがやってきた。しかもそれのパワーアップした奴が……。
――勘弁してくれ!
だが彼の受難はそこで終わらない。なぜならイモの子を洗うように窓口に押しかけているのは、
そんな連中ばっかりだったのだから。
昼間、食堂でソテーしたトマトをつつくアランの脳裏に、故郷のことがよみがえる。アランが治めていた領地は麦の産地で、多分今頃、青々とした麦が伸び始めているころだろう。
帰りたい。アランの頬をつつーっと涙が伝う。
ただでさえ出世からは程遠い職場。それでも一日も早く、なんとかお金を貯めてとにかく故郷に帰りたいアランだったのだが、ここで問題が発生。
教育ママに変貌したマリーなのである!
「私、ぜひジェシカに侍女試験を受けさせて王宮に入れたいんですの」
力説するマリー。彼女いわく、
「王太子殿下に婚約破棄されてしまった公爵のご令嬢、もう縁談がお決まりになったんですって。しかもお相手はトリノ公国の大公殿下の御子息ですのよあなた!」
トリノ大公国と言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いのある豊かな国であるらしい。それだけでなく、文化や芸術の発信地としても名をはせているのだとか。
そしてそのご令嬢が、侍女試験を受けて五歳の時から王宮に上がったという。
そんな歳から? と思われるかも知れないが、その筋の常識では当たり前とのこと。
そしてまだ小さい時からみっちり行儀作法を仕込んでもらい、そのまま幼年学校に、そして中等部、高等部、大学部と進むのが――。
「スーパーエリートへの道ですわ!」
なのだそうだ。
女房の言葉を牛みたいに心で半数しつつ、アランはトマトを口の中に放り込んだ。
ぐしゃ、ぐすっ、べちゃ、となんとも言えない歯触りに、
帰りてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ、と、
心の中て遠吠えするアランなのであった……。
と、言うわけで、
「絶対だめだ!」
ダメだったらダメだ。こればかりは譲れない。アランがそう言うとマリーは言った。なぜですの? と。
「なぜも何も、俺は領地に帰りたいんだ!」
一生懸命金貯めて買い戻したいんだと言うアラン。他に今のところ方法がない。それなのにこの妻の要望である。
そんな夫の切なる願いに、妻の冷酷な言葉が響き渡った。
「それ何年かかりますの?」
「そ、そりゃ、時間はかかるだろうけど」
あんな職場でこの先一生いるとか耐えられんと言うアラン。
「だから無駄なことに使う金は一銭もない! それにお前だって領地に帰りたいだろ?」
「無駄ではありませんことよ?! ジェシカのためです!」
「いや、だからさ」
アランは頭を抱えた。なんでこうこいつは両極端なんだと彼は口の中で言いつつ、
「そんな、そんな、その、馬鹿みたいに高い塾じゃなくてもイイだろ?! 近所に良い寺子屋があるじゃないか!」
「でーすーかーら、私の話お聞きになってまして?! 私はあの子を将来、しっかりしたところに嫁にやりたいんですの!」
貴族の女子の生き方はともすれば平民の女性より厳しいとマリー。
「それとも貴方は私の様な苦労をあの子にさせたいんですの?!」
「ま、まあそれはそうだが……って、ちょっと待て」
それはどういう意味だとアランの表情が物騒なものに変わった。彼は言った。つまり君は俺と結婚して苦労してると言いたいのか?! と。
「この状況のどこが苦労してないと貴方は仰るの?!」
それを言われたら言葉もない……アランはがっくりとうなだれかけ、
チーガーウと叫んで復活。
お前、誰のおかげで飯食えてると思ってんだとアラン。私の実家のおかげで仕事を紹介してもらえた癖に何言ってんのよとマリー。
それを見つつ、その場にいた人々はため息交じりに言うのだった。
「ねえあれいつ終わるの?」
ちなみに彼らが言い争いしている場所は、いま彼らが居候させてもらってる場所。つまり個人経営の冒険者ギルドの店先である。
個人経営とは言え、シェーラの人柄もあって繁盛している店先では、たくさんの冒険者のパーティが、依頼主との商談に来ていた。その中でのこのケンカだ。
仕事にならねえ。とだれもが顔全部でそう言ってる中、二階からシェーラがジェシカを抱いて降りてきた。そろそろ子守を代わってくれと。
「ごめん、あたしもう体力の限界だから……」
顔中、何かをぶつけられたあざだらけでアランの母は言い、パタ、と倒れたのであった。
「そりゃあ、このままでよくないのは俺も分かってるよ」
食事の前の一杯を引っ掛けつつアランは言った。だがそこまでやらなくてもいいんじゃないかと。
「貴方も大概頑固ですわね」
テーブルにお皿を並べつつ妻が応戦する。
「それは君もだろ」とアラン。
「でもアラン、私もマリーさんの意見に少し賛成よ」
膝の上で暴れるジェシカをなだめつつ、今度はシェーラが言った。子供は意外と、同い年の子からの目を気にするものよ、と。
「一度、親の手から離させるのもいいんじゃない?」とシェーラ。
「お義母様……」
「それに私も休めるし」
苦笑いするシェーラにアランは頭を抱えた。
このままでは、良くない。
「それにもし学費の心配でしたら私も仕事をしますわ。もうすでに何件かいいお話しを頂戴してますの」
シチューを注ぎつつ言うマリーにアランは仰天した。なんだって? と。
「貴方ばかりに負担を押し付けるつもりはございませんことよ」
娘のためですもの、とマリー。
「君が仕事?」
「そうですのよ。何かご不満でも?」
あ、いやと答えるアランの表情は不満と言うよりは不安だった。そんなアランは知らないうちにこうつぶやいていた。君が働くとか厄介ごとが増える予感しかしないと。
「何か仰いまして?」
シチュー入りの皿かアランの前にドンと置かれる。い、いや、何でもないとアランはビビりつつ、妻に気付かれないようにため息をついた。
そのあとなんやかやと話し合い、結局結論が出ないまま、一日が終わった。
マリーがジェシカを寝かしつけるのに格闘し、そのまま寝落ちしてしまったので、アランが一人台所で寝酒をやっていると、シェーラがやって来た。
「オフクロじゃないか。まだ寝てなかったのか?」
シェーラは言った。ちょっと聞いてほしいことがあって、と。
「ジェシカちゃんのことなんだけどね」
シェーラはテーブルまでやってくると自分の分も酒を注いでアランの向かいに腰かけた。
「俺は反対だからな」
「分かってるわよ」
でも、とシェーラは言った。私は、そんなに悪い話じゃないと思い始めてるわと。
「別にジェシカの子守りが嫌だって言ってるんじゃないわよ」
シェーラは継いだ酒を一口煽った。
「母さん……」
「かわいい孫ですものね」
シェーラはカラになったアランの杯に酒を注ぎたした。
「ただ、マリーさんの気持ちも分かるから。将来不安になる気持ち、凄く分かるからね。そこは、分かってあげて」
それに、とシェーラはまた苦笑いを浮かべた。
「やはりちょっと他人から叱られることも必要なんじゃない? ジェシカは」
「どうしてだ?」
「だってあの子、完全にあなた方のことも私のこともなめてかかってるわよ」
だから言うことをきかないとシェーラ。
「マリーさんがあの子を宮廷に上げて侍女にしたいって言ったのも、そう言うところを治したいんじゃないかしら」
侍女として王宮に入れば、いろいろと他人様の命令を聞かなければならないことも増えよう、というかそれが日常になる。それは確かに子供にとってつらいことも多いかも知れないが、この世で私が一番偉い、みたいな状況から抜け出すには一番いい方法なのかも知れないわよと。
「そんなもんかね……」
ふー、と酒臭い息を吐きながら言うアランに彼の母は言った。あなたも一時、騎士団に放り込まれたじゃないと。
「んな昔のこと言われても……」
物心つくかつかないかくらいの時に、アランは父親……今はもう鬼籍に入っているが……に、近隣に駐在する騎士団に放り込まれたことがあった。アランにとってもうその時の記憶は定かではないが、毎日毎日、体に傷をつくって泣きながら家に帰っていたことだけは覚えていた。
「良い機会じゃないかしら? ジェシカのために少し考えてみたらどう? アラン」
そう言ってシェーラは残りの酒をのみほし、部屋に引き上げた。
アランも残りの酒を飲み干すと、顏を洗い、寝室に入った。そこにはマリーとジェシカが丸くなって眠っていた。
「……」
アランはそんな二人に毛布をかぶせると、ベッドの脇に置いてあった、スパルタ塾のパンフレットの一つをとり上げ、パラパラとめくり始めた。
「パパ、ママ、早く早く!」
辻馬車にご機嫌で乗り込むジェシカ。
彼女は両親から、今日はみんなでピクニックに行きましょうと言われて……もしくは信じ込まされている。
まさかこれから、彼女にとって地獄に向かうとは夢にも考えていないであろういたいげな少女である。
はいはい、と苦笑いして荷物とともに乗り込むマリーとアラン。
ジェシカはご機嫌だった。両親の間に座って鼻歌をうたっている。ピクニックに行くにしては親も自分も物々しい服装なのだが、そこは子供、気付かないようだ。
ところで今からどこに行くのかって?
その、スパルタ塾である。
塾の名は、ゴールドウィン塾。塾長であり講師のミセス・ゴールドウインはこの道ン十年のベテランで、宮廷で長年侍女を勤め上げた人物だった。
とりあえず説明会だけでも行ってみるかとアランが言うと、マリーは飛び上がって喜んだ。
「説明会は夫婦そろって行くのが良いらしいですから、その日は休みを取ってくださいね貴方」
鼻息荒く言う妻に、へいへいと夫は返事をした。
そして今に至る。
馬車が軽快に街中を進む。ジェシカはまだ気づいてない。着いてからが大変だといささかゲンナリして思うアラン。
馬車はやがて街の中心街にある塾の前までやって来た。ジェシカが不審そうな顔をして外を見る。こんな場所でピクニックなんかするはずがない。着きましたよと辻馬車のオヤジが声をかけてきた。緊張した面持ちのアランが代金を払い、さ、降りるぞと娘を促した。
すると事態を察したジェシカが降りたくないと言いだした。
「ジェシカ、降りなさい!」
マリーが言うも、やだやだやだと馬車の座席にしがみつくジェシカ。帰りは必ずピクニックに連れて行ってあげるからとアランがなだめたが駄目だった。まるで牡蠣のようにへばりついて離れない。
「困ったな……これからまだ仕事があるんですよ旦那、早く降りてもらわないと」
「そんなこと、言ったって」
ジェシカはやがて床にひっくりかえって暴れ出した。マリーが声をからして言うことを聞きなさいと叱りつけるもおさまりそうにない。
アランは頭を抱えた。こうなることは分かり切っていた。いきなりこんな場所に連れて来られ、今まで甘やかされ放題だった子供が言うことを聞くわけがない。
「なあ、マリー、今日はもう帰ろう。急にこんなことしても無理だったんだよ。だって」
と、その時だった。
「お母様見て見て、あの子すごくみっともないよね」と言う声が聞こえてきたのは。
まるで赤ちゃんみたいとクスクスと笑う声。何ぃ?! とブチギレてそっちを見たアランが、次の瞬間フリーズした。
「こ、これは」
「あ、あなた」
夫の腕に縋りつくマリー。その後ろから恐る恐る外を見るジェシカ。
外は、物々しく正装した貴族の御一家であふれていた。
馬車も辻馬車ではなく、家の紋章入りのがずらりと並んで止まっている。
マリーはそんな彼らと自分たちを見比べた。
彼らに比べたら、自分たちなんかまるで……まるで……
「案山子だわ」
マリーが呻くように言った。
着ているものも、何もかも、格が違い過ぎた。雰囲気も。
辻馬車のオヤジがやきもきして一家を見守る。重たい沈黙に包まれたハーヴェイ一家。もはや妻も帰りたいと言いだしそうな顔をしていた。その時だった。
「行こう。マリー」
そうアランが言ったのは。
マリーは驚いたような顔で夫を見た。
しかし肝心のジェシカが、癇癪こそおさまったものの、まるで怯えたように馬車の奥に引っ込んでしまった。おそらく同い年の子の好奇の視線に恐怖を感じたのだろう。そんな娘にアランは静かに言った。
「ジェシカ。お前、悔しくないのか?」
「パパ?」
「あんなに笑われて、お前は悔しくないのか?!」
みんなしゃんと背筋を伸ばし、誰の助けを借りることもなく堂々と歩いていた。その顔は自信に満ち溢れていた。
アランの目から涙がこぼれ落ちた。ジェシカとマリーがびっくりしてその顔を見る。
「パパは、お前がバカにされて悔しいよ」
でも、馬鹿にされても仕方ない。
今のジェシカと、いつも自分が職場で相手にしている連中とどこが違う?
同じだとアランは思った。そしてシェーラから言われたことをアランは思い出していた。ジェシカは他人に叱られることも必要ではないかと。でもそれは同時に自分たちにも必要だったのだ。
あの子赤ちゃんみたい。それは自分たちがちゃんと子供と向き合わなかった結果を、その言葉で叱られているのだとアランは思った。
アランは自分の娘を見た。ジェシカの目からも涙がこぼれていた。子供は親が泣くとつられて泣く。そして何かよく理解もせぬまま、ゴメンと謝るのである。そんな娘を抱き寄せるとアランは言った。謝らなくていいと。
「いいんだ。ジェシカは何も悪くない。な? これからだ。そうだよ。これからだよ」
そんな夫に、マリーは言葉に出さずに心の中でそっと呟いた。
あなた、ありがとうと。
一家は、馬車から降り立った。
大黒柱の大きな手が、妻と子供の小さな手をぎゅっ、と握りしめる。
彼らは未来に向けて一歩を踏み出した。。それは困難ではあったけれども、神の言う、狭き門へと続く道であった。