序章 日露戦争
序章 日露戦争
時は1905年 大日本帝国はロシアに敗北した
1904年2月8日に宣戦布告した日本は
4月29日の鴨緑江の戦いで鴨緑江を防衛していたロシア軍を大日本帝国陸軍第一軍が撃破
その一方で第二軍を遼東半島に派遣し、5月の南山の戦いで勝利を納め旅順要塞を孤立化する事に成功。
初期の日本軍の優勢は明らかだった。
しかし、旅順要塞の救援のため南下してきたロシア軍に対し、大日本帝国陸軍第二軍は得利寺で迎え撃ったが、この戦いで敗北し、ジリジリと撤退、旅順要塞とロシア軍に挟まれる形となった。
これを受けて第一軍は第二軍を救出する為にロシア軍の戦略的重要地である遼陽の奪取を決定、5月21日に九連城を出発、敵地を行軍し、遼陽手前まで侵攻、第二軍を挟撃するロシア軍を挟む事に成功したが遼陽の戦いで第一軍が敗北、出来つつあった包囲網が破壊された。
この知らせを受けたロシア政府は短期決戦で片をつける事を決定、ロシア西側の防衛についていた兵士を投入、6月27日に一斉攻勢を開始、西側の兵士は動かさないと踏んでいた日本軍はこの攻勢を受け撤退、第一軍は朝鮮半島まで戻され、第二軍は完全に遼東半島から撤退した。
日本軍の撤退を受け、旅順要塞からロシア太平洋艦隊が出撃
日本海の制海権を奪取し、朝鮮半島に残る第一軍を孤立化させる事を決定した。
ロシア太平洋艦隊の出撃の知らせを受けた東郷平八郎は、ロシア海軍が日本の朝鮮半島への補給路を断つ為に対馬沖に来ると予想、すぐさま全艦隊に出撃命令をだした。東郷平八郎のこの予測は完璧に的中しており、ロシア海軍を対馬沖で補足、ロシア海軍の進行方向に合わせて出撃し、丁字戦法を敢行
この戦いで日本側は、第一艦隊の春日中破、その他駆逐艦が3隻大破したが、ロシア太平洋艦隊の戦艦5隻、駆逐艦7隻を撃破し帝国海軍の圧勝であった。
この大敗を受けロシアの国内世論が荒れ、9月1日に、首都労働者がサンクトペテルブルクで平和請願行進を行い、それに対して発砲する血の日曜日事件が発生。国内がかなり疲弊し、対日厭戦気分が蔓延し、さらに
日英同盟の影響でバルチック艦隊を日本との戦いに使うのは厳しいと判断したロシア政府は、全体的に見ればまだロシアが有利と判断、この状態での講和条約を申し込む事を決定、日本に講和条約の開催を申し出た、
日本はすでに遼東半島を含む満州の権益をほとんど失っており、これ以上の被害を鑑みてこれを受諾
ロシアのウラジオストクにて日露条約が締結された
日本は完全に遼東半島から撤退し、満州での権益を失い、さらに少額ではあるが賠償金を支払う事になった。しかし、韓国における介入は許された為、ロシアの辛勝といったところであった。しかし、日本の国内世論はロシアに敗戦し、賠償金を支払ったという事実で紛糾、また、日露戦争で大きな勝利を得た海軍の軍役達が議会での力を強めてきている………