アルバートの噂
昼の休憩時間がもうすぐ終わる。
指定された王宮の配置に向かって、私は廊下を歩いていた。
夕食にいつ誘うか。甘いもの食べたいな。そんなことを頭に思い浮かべ、ぼんやりとしながら、左に曲がる。
「わっ」
トンッと自分より背の高い人にぶつかった。跳ね返りそうになったが、相手が右腕と腰を掴んで引き寄せてくれた。私は転ばずにすんでほっとする。
「すみません」
「大丈夫か?」
聞き慣れた低い声が頭上から聞こえ、ぱっと顔を上げる。
目の前には、蜂蜜色の髪で、淡い青の瞳の青年。綺麗な顔が私を心配するように見ている。
「あ、アルバートさま!?」
「ん、なに? そんなに驚く?」
叫ぶように名前を呼ばれたアルバートは、目を丸くしてきょとんと首を傾ける。
偶然アルバートに会ったことに、自分でも想定外なほどに驚いてしまった。
抱き合うような態勢に、私はカァッと顔が熱くなるのを自覚する。
「えっ、えーと……、その」
どう誤魔化すか思いつかず、意味のない言葉を発してしまう。もごもごと口を動かし、真っ赤であろう私を見て、アルバートは覗き込むように顔を近づけてくる。
「やっぱり、具合悪いのか?」
アルバートは眉を寄せて心配そうな表情で、私のおでこに大きな手を当てる。あまりの近さに、視線を足元に向ける。
「……や、やっぱり?」
今日はアルバートとは話していないはず。会った覚えもない。
「たまたま見かけたんだ。熱はないな。昨日の疲れか?」
軽く口角を上げたアルバートは、おでこに当てていたあたたかい手を私の頭にぽんと優しくのせる。
そんなに心配されると調子が狂う。さっきから心臓がうるさい。なかなか落ち着けないことに、私は眉を寄せる。
「……大丈夫、です。……そ、れより…………ちっ、ちかい、です!」
アルバートのかたい胸を私の腕でぐっと押すが、アルバートはちっとも動いてくれない。
動揺を隠せずあたふたしている私を、じっと見ているアルバートは、頬をほんのり桜色に染める。
「かわいい」
「なっ!? なに言って!」
「あ」
声にした後だというのに、アルバートは手で自分の口を覆う。まるで、うっかり言ってしまったみたいな反応をしないでほしい。
恥ずかしそうに眉を寄せて、耳まで赤くしているアルバートは、いつもより子どもっぽい。可愛いのはどっちだという言葉は空気とともに呑み込む。
「……もう、離れ? ひゃっ! な!?」
突飛な行動に頭が追いつかない。
アルバートは、一瞬、険しい顔をして、私を抱っこして走りだしたのだ。
「ちょっと黙ってて」
色々と文句を言ってやりたいが、しがみつくのに精一杯。騎士服を着た人が追いかけてくるのが、一瞬視界に入った。
アルバートは何度か角を曲がっていく。
廊下にいた使用人は、なにごとかと目を見張り、悲鳴をあげる人もいた。ちょっとした惨事かなと思う。
元いた場所に戻ってきていると分かったところで、やっと止まった。
「…………足、早いですね」
目まぐるしくて、軽く酔ってしまった。アルバートは、顔色を悪くした私を下ろし、左腕で腰を支えてくれる。
「すまない」
申し訳なさそうな表情で、アルバートは謝った。
「……いったい、どうしたんですか?」
眉を寄せている私は、文句を言う気力もなく、覇気のない声で尋ねた。
「最近、ストーカーがいるんだ」
アルバートは、眉間に皺を寄せて、疲れたような、困ったような表情を浮かべている。
「騎士?」
「そう、あそこにいたのは女の騎士が三人。さっきは、こちらに寄って来る気配がしたから、ルーナを抱えて逃げてしまった。巻き込んですまない」
随分と多い。さすがこの顔、この性格だと感心する。寄ってきたということは、私に文句でも言うつもりだったのだろうか。
現在、間者の可能性を考え、訓練場の見学は禁止されている。令嬢の鋭い視線が消えて口には出さないが、内心喜んでいた。しかし、そう簡単に女性の目から逃げられないようだ。
さりげなく、アルバートがルーナと呼んでいるが、先に間違えたのは私だからなにも言えない。
「……なるほど。まぁ、仕方がないことですし、気にしません。それより、アルバートさまは大丈夫なんですか?」
私を気遣って女性を放置してきていいのかと不思議に思い、そう聞くと、アルバートは一層、表情を険しくする。
「まだ実害はないから放っているが、いちいち視線を感じて鬱陶しい」
「え!? 嬉しいんじゃなくて?」
予想に反した返答に耳を疑ってしまう。
「は? なんで?」
アルバートは眉をあげて、こてんと首を傾ける。
言っていいものか迷う。しかし、これは自然に聞けるチャンスだ。
意を決して、顔色を伺いながらおずおずと口を開く。
「……女の方がお好きなんですよね?」
「はあ!? まだそんな噂あるのか」
被せるように言葉を発したアルバートは、はぁ、とため息をつき、信じられないというように眉をひそめる。
「ま、まだ?」
「今は、ここ一年、そんなことはしていない」
どういうことだろうか。眉を寄せてアルバートを訝しげに見る。アルバートは眉間にしわが残りそうなほど、険しく暗い表情だ。
「私に遠慮しなくてもいいんですよ?」
「してない。そもそも、女は嫌いなんだ」
女性が嫌い? 聞いた噂と真逆?
聞きづらいけど、思い切って口を開く。
「なぜですか?」
「少し優しくしただけで、顔につられて、尻尾を振って寄ってくるから信用できない。それに……、いつまでも付き纏ってくるのが面倒なんだ」
心底嫌そうな表情で、疲れたように言うアルバートは、嘘をついているように見えない。しかし、そんなにすぐに信じてはいけない、と頭の片隅で警告している。
なんて声をかければ良いのか分からなくて眉を下げる。
こういうとき、気の利いたことを言えない口下手な私が嫌になる。
そんな私に気づいたアルバートは、空いている右手で私の頬を引っ張る。
「てか、俺が絶対婚約破棄しないって言ったの、もう忘れてる? 俺から言ったんだから、他に目を向けるわけないだろ」
アルバートは、ほほを軽く桃色に染めて、口をへの字に曲げて拗ねた表情を浮かべている。
この顔を見た人は、喜色の悲鳴を上げていくんじゃないかと思う。
間違っても放心しないようにアルバートを睨んで、アルバートの手をパチパチと叩く。
「わかいまひたかや、はなひてくだひゃい」
とっても間抜けで恥ずかしくて、顔が熱い。アルバートは、ふはっと吹き出し、肩を震わせて、くすくすと笑いだす。
アルバートがしたくせに、と内心毒づく。私はむっとして口を尖らせ、ジトっとした目をアルバートに向ける。
「笑わないでよ」
「やっぱ、かわいい」
にこにこと笑顔を浮かべるアルバートを、「このたらしが!」という思いを込めて、目をきつくしてきっと睨む。赤い顔では迫力はないかもしれない。
勝負なんてしてないけど、もう勝てる見込みがないので、撤退しようと決める。
「…………もう時間なので、行きます!」
そう言ってアルバートの腕から逃れ、距離を取ると、チッと小さく舌打ちが聞こえた。
「ちゃんと前に気をつけろ。他の男の胸に飛び込むなよ」
舌打ちを隠すためなのかよく分からないが、アルバートは、微笑んで意地悪なことを口にした。
たやすく挑発に乗ってしまう私は、眉間にしわを寄せて目を吊り上げて、アルバートを見返す。
「なに言ってるんですか! わかってますよ!」
そんな捨て台詞を吐いた私は、ふんっと鼻を鳴らして、上司への礼もせずに走り出していった。
だから、置いてかれたアルバートの「わかってねぇな」という呟きは私の耳には届かなかった。
*
「お疲れ様です」
「お疲れさまー」
ここは自由室。同じ第二騎士団の女騎士が着替えている。
女子用更衣室がないので、自由室が代用されている。
「ルーナ!」
「なに? アリア」
桃色の髪を揺らし、黄色の瞳を楽しげに細めている。アリア・ローレルは、すでに着替え終わったようだ。
「どうだった? 副団長」
「……あっ! 忘れてた!」
持ってきていた水色の襟付きのシャツに着替えながら、アリアに返事をする。
夕食に誘うことを約束していたことを思い出す。アルバートに会う直前まで覚えていたのになと肩を落とす。
「えーー!! 今日話してないのー?」
椅子に座ったアリアは足をぶらぶらさせて、不満そうな声をあげた。
「いや、話したよ。でも、会話と行動が衝撃的で忘れてた」
「もう収穫があるのね! はやい! どんな話だった?」
好奇心という火に油を注いでしまったようだ。アリアは、目を爛々とさせて、話にくいついてきた。
私は眉を下げて、迷いながら、ズボンをとって履く。
「……人に言いふらすのは」
そう言ってから、会話を思い出して首をひねる。
ん? でも、まだ、その噂があったのかって驚いていたのだから、アルバートはどうでもいいのかもしれない。
アリアはパチンッと手を合わせる。
「他の人には言わないから!」
アルバートは噂に嫌そうな顔をしていたから大丈夫か。そう結論付け、アリアに近づいて声をひそめる。
「副団長って、女性が苦手なんだって。一年ほど避けてるって」
アリアは、ゆるりと口角を上げて、視線を空中に彷徨わせる。
「……ふーん? じゃあ、前に言った誘いを断ってたっていう噂は、本当かもしれないのね。ルーナは信じたの?」
「演技には見えなかったけど、半信半疑かなぁ」
腕を組んだ私をじっと見つめるアリアは、首を傾ける。
「そうよねぇ。でも、女性が苦手なら、なんで浮ついていたのかしらね?」
「……おかしいね。気づかなかった」
言われてみれば、たしかに妙だなと首をひねる。ふつう、相手をするのか? 男と女の違いだろうか。
アリアは、今更気づいたのかと言いたげに、はぁとため息を吐く。
「いまからシャノン副団長に会いに行くんでしょ? そのとき聞いてみたら?」
「うん、行く。……そうね、聞けそうだったら」
「ええ。あ! 今日もルイス待たせてるから」
「わかってるよ」
聞けるだろうか。あのとき、気づいてればよかったのに。不自然ではないだろうか。
ぱたぱたと荷物を持ち始めたアリアは、にっこりと笑顔で、私に声をかけた。
「また明日!」
「また明日」
笑顔で返して、手を振る。……さてと、荷物まとめなきゃ。
ストーカーって、勤務外もいるのかな、とふと思った。