第九話 対峙するもの
少しばかり怖い描写があります。大したことはありませんが、ホラーが苦手な方はご注意ください。
「誰……?」
一人は濃い色の髪を輪状に結った背の高い女性です。鋭い瞳の光にはクェイルと同じような強さが宿っています。
もう一人はやや低めの身長の、といってもネオルクよりはいくつも年上らしい、こちらも女の人、いえ女の子です。女性の手を借りて床へと降りるところでした。
「なに、あれ」
女の子の方が状況を見回し、感想を漏らします。見た目の通り、子どもと大人の中間のような声色でした。
「あれ」とは闇のことに違いありませんし、どうやら敵ではないようです。
「凝視してはいけません」
今度は女性が制する声をあげて腕で遮ります。あれに近づくのは確かに危険でしょう。はっとしたように少女も慌てて引き下がりました。
「引き寄せられた?」という、言葉と共に。
ネオルクには不思議でした。自分は嫌悪しか感じないのに、あの子は魅せられる物を感じたのでしょうか。
そうして、ふいにクェイルの視線が動いたのに気付きます。その先には女性の瞳があり、二人は意志の疎通をしているように見えました。
「知ってるひと?」
「……」
しかし答えは返されません。女の子も妙に思ったらしく、はっきりとは聞こえないまでも二言三言連れに問いかけています。
クェイルはなおも黙ったまま敵を凝視していました。じょじょに距離を詰めていきます。すると、ようやくネオルクは女の子を間近で認識することになりました。
最初に受けた印象の通り、大人の一歩手前くらいの年齢です。顔には化粧っ気がなく、茶色い髪の色もあってさばさばした感じです。
向こうもこちらが気になるのか、視線が合いました。途端、彼女はただでさえ大きな瞳を更に見開きます。
え、何? 僕がどうかした?
初対面のはずです。それとも忘れているだけで、どこかで会ったことがあるのでしょうか?
心の中だけで首を傾げいていると、彼女の口から言葉が零れるのが分かりました。吐息のようなか細い囁きです。
「み――」
けれども、全てを聞き終える前にざわめきがその場にいた4人を襲いました。割れた窓から入ってくる風とは違う、胸騒ぎに似た感覚です。
全身が総毛立ち、ノドの渇きを覚えました。必死に唾を飲もうとするのに、すぅすぅ息が通る音だけが耳の奥で反響します。
「!?」
異変は闇ではなく、正確にはその後ろ――真っ暗な姿見で起こっていました。
月明かりを反射して良いはずの全身鏡は闇に閉ざされており、そこから白く細長い物が伸びて影をしっかりと捕らえました。
「う、腕……?」
そう、腕です。暗い中で2本の腕は白く浮き上がって見えます。しかし驚きはしましたが、不思議と怖さはわいてきませんでした。汚れ払う清らかさが感じられたのです。
腕はその細さからは想像もつかない力で影を引き込んでいきます。ずるずると嫌な音を立てる忌まわしき者を、鏡に封ずるのだと言わんばかりに。
外から現れた女性が前へ歩み出ました。彼女が腕をはらったかと思うと、たった今クェイルが作りだしたものと同じ光が生まれ、今度は敵を包みます。
もしかしてあの人も?
続いてクェイルも同調するように力を使い、白い光の壁が強められるのを感じました。
神様、いるならどうか僕たちをお救い下さい。
敵を出さないためのものなのだと分かり、ネオルクは思わず祈っていました。そうして全員が鏡を中心にして起こった出来事の終結を見守ります。
「……! …………!!」
次第に飲まれていく影が、声を発さずに叫んでいるように見えました。渇望したものを目の前にして、寄越せ、邪魔をするなと言っているように聞こえた気がしたのです。
闇の願いのなんと邪悪さに満ちていることでしょう。
お願い、神様。あと少し、あと少しで……。
誰もが息をするのを忘れていました。背筋が凍り、逃げ出したい衝動がわき起こるも、足は動きません。すでにわずかな部分を残して恐怖の固まりは消えつつありました。
ネオルクが一心に祈る様を、クェイルは複雑な心で見詰めていました。
「お客様?」
強い衝撃が全員の胸を貫きました。一瞬何が起こったのか分からず、反応が遅れます。中でもネオルクが最後でした。
ようやくそちらを見た時には、扉のところに立っている店員らしき女性の人の長い髪と白いエプロンの裾が四方にわき上がっていました。
「きゃあっ……!」
甲高い悲鳴も、語尾は薄く消えていくほどのか細さです。けれど彼女に起こったことを思えば恐怖は減るどころか、何倍にも膨れ上がりました。
有り得るはずのない陰影がぼんやりと見えます。明らかに月明かりとは違う物で出来た影です。はっきりと感じました。
闇が女の人に乗り移ってる……!?
自分だって現状に困惑したままだというのに、その自分達を狙って来た何者かが別の誰かに危害を及ぼすなんて、黙って見ては居られません。
けれども、体は心とは反対に動いてはくれませんでした。……怖いのです。絶対にあれには勝てないと、誰かが耳元に囁きます。
店員はそのままフラフラと部屋を出ていきます。既に人間ではない何かに変貌しているのが、肌で感じられました。
「待ちなさいっ!」
皆数秒間そうしていましたが、やがて呪縛から解き放たれたように誰からともなく走り出します。
夜の静寂を破って叫んだのは果たして誰だったのか、ネオルクには判断している間もありません。ドアを最初の一人がすり抜け――
『えっ?』
ドスッ。鈍い音が鼓膜を震わせ、ネオルクは思い切って扉から廊下へ出ました。
廊下にはキョトンとした表情で立ち、拳を握りしめた女性が立っています。出ていったはずの店員ではなく、別の人です。
今までに見たこともない鮮やかなオレンジの髪をおだんごにまとめた、とても綺麗な人でした。
「オーブ!」
茶色い瞳をした女の子が声を発し、それが彼女の名前なのだと直感します。と同時に、オーブの足元に宿の女性がバッタリと倒れているのが目に飛び込んできました。
どうやら先ほどの音は、拳を叩き付けて気絶させる音だったようです。
その身からはもう恐ろしい感じはしていません。一瞬の間に、抜けてどこかへ消えてしまったのでしょうか。
「カナン、一体これってどういうこと?」
「それが聞きたいのはこっちよ!」
カナンと呼ばれた茶髪の女の子がいきり立ちます。こちらにも分からないことだらけです。
押し問答をする二人を放って、未だ名前も知らない紫の瞳の女性が倒れた店員の元へと歩み出ました。今はそれどころではないと言って、しゃがみ込みます。
「……この人は大丈夫です。少々精神を荒らされたようですが」
次いでこちらに一礼を送ってきました。
「あ……」
ネオルクには聞きたい、知りたいことがいっぱいあるのに、声をかけることは躊躇われます。女性達も何も言わないまま、薄闇へと消えていきました。