第八話 やみと影
宿屋は本通りに近い場所に建っていました。通りに見えるように出ている、ベッドをモチーフにした絵柄の看板が風を受けてカタカタと鳴っています。
板には“ユウゲ屋”と銘打ってあり、客を歓迎するかのように揺れていました。
「こんにちはー」
中も十分に明るい空間でした。窓が多いからで、それはこのあたりの気候が穏やかな証拠とも言えます。
手前には食事をとるスペースがあって、その向こうにカウンターが見えました。昼前で誰もいないテーブルを眺めてからそちらへと進みます。
受付にも人はいませんでした。こんな時間に来る客は少ないのかもしれません。どうしたものかと視線を合わせたところにやっと、奥から宿の者らしき人物が現れました。
「お待たせして申し訳ありません」
受付が板に付いたような男性で、謝ってから本題に入ります。
部屋はどこでも自由に選べましたが、クェイルが「一番手前の部屋を」と決めてしまいました。ここから左手に扉が見える場所です。
「?」
ネオルクに文句はありません。でも、その行動がなんとなく気になりました。
部屋へは赤い絨毯が敷かれ、壁は薄い緑で気持ちを落ち着かせる雰囲気です。
「ご用がございましたらお呼び下さい」
丁寧に男性が案内してくれ、扉を閉めました。部屋は適当な広さで、四角いテーブルが壁に向かって一つ、向かい合わせにベッドが二つ並べられています。
大きめの窓が付けられており、全身をうつす鏡もありました。
「どうしてこの部屋にしたの?」
ベッドに持ってきた荷物を置いて座り込むと、ぐっと体が沈む感じにほっと息をつきます。
遠ざかっていく足音を聞きながら、ネオルクは先程気になったことを聞くことにしました。窓から外を眺めていたクェイルが振り返ります。
「ああ、それはいざというとき出口が近いから」
「いざという時?」
物騒な響きに驚いたけれど、答えの代わりに返ってきたのは苦笑のような声でした。
「2階では飛ばないといけないから」
「あ……そっか」
今度はネオルクが苦笑を零す番となりました。自分が高所恐怖症であるのを考慮してくれたのです。
高いところから下を見ると目眩がします。現実で夢のように落ちれば怪我をしたり、場合によっては死んでしまうかもしれません。
想像しただけで少し青ざめるのが自分でも分かりました。
「心配しなくていい」
「ありがとう」
横になると、さっき起きたばかりだというのに再び睡魔が襲ってきます。おりそうになる目蓋と戦っていると、クェイルがくすりと笑って言いました。
「契約してしばらくは体力を消耗しやすくなる。さ、もう眠って」
「う、うん」
寝返りを打つと、微睡みはすぐに訪れます。落ちる寸前、彼はふと思いました。姉もこんなふうに旅をしていたのかと――。
ふっ、と何かに呼ばれるように目が覚めました。
「あれ?」
かなり寝入ってしまったのか、外はすでに真っ暗です。明かりは枕元にあるランプが一つあるきりでした。それにしても、こんなに眠り続けたのは初めてです。
横のベッドではクェイルが寝ていました。規則正しい寝息と共に、腹の辺りが上下しています。
「……?」
しかし、今感じた違和感は何だったのでしょう。確かめるようにゆっくりと起きあがって、靴を履きます。
何気なく周りを見回し、異変の正体にやっとネオルクは気が付きました。全身鏡に、部屋の光景が映っていなかったのです。
部屋が暗いせいだろうとも思いましたが、その考えもすぐに捨てました。何かの気配が鏡の前に立ちふさがるようにあったからです。
「だ、誰? うわっ!」
立てた声に弾かれるように黒い影がこちらへ跳びかかってきました。反射的に後ろへのけ反ります。けれど、その程度では逃げられそうもありません。
――やられる! そう、ぎゅっと瞳を閉じました。
でも、いつまでたってもその瞬間は訪れません。
「え? ……クェイル!」
ゆっくり瞳を開くと、視界に飛び込んできたのは背中でした。
差し出された手から光の壁のような物が生まれているのが分かります。その仄かな光は暗がりに潜む存在を照らし出し、目撃したネオルクの目を見開かせました。
「何、あれ」
それは人でも動物でもなく、この世の生き物でさえない何かに思えました。人形のような輪郭はあってもおぼろげで、揺らめく炎のような全身には邪悪さが満ちています。
一言で表すなら――闇の化身でしょうか。
ぐっとクェイルが奥歯を噛みしめる音がしました。酷く苦しそうです。もしかすると、天使はあの「闇」と相性が悪いのかもしれません。
「だ、大丈夫?」
震えながら守られているだけの自分の無力さに、ネオルクは悔しさが込み上げます。だからと言って、どうすればいいのでしょう。
天使がめまいに襲われたようにふらつきました。闇に気圧されているのです。同時に光の壁が消え、室内がすぅっと暗くなりました。
「逃げろ、ネオルク」
「一人でなんてだめだよ!」
策などありません。ただただ「助けなければ」との思いだけでクェイルの間に出て、闇の前に立ちふさがりました。その瞬間、頭の奥で光が閃きます。
これ、この気配……、森で僕たちを追いかけてきた奴だ。
あの、背筋に走る恐怖の正体はこいつだったのです。何故あの時消えたのかは分かりませんが、こうして再び襲ってきたと言うことは二人が目的なのでしょう。
「ぼ、僕が相手だ!!」
声に力が入らないのを情けなく思いつつ、クェイルを庇うように両腕を広げて叫びます。後ろで天使が何か言っていますが、緊張しきった耳には全く入りません。
「……」
闇には言葉はないのか、強烈な視線を感じるだけです。対峙しているだけで足がガクガクと震えました。
「っ!」
やがて、闇が黒いインクをじわじわと広げるかのように迫ってきました。形があるのならまだしも、ないものをどうやって防げば良いのでしょう。
やはりダメだ、そう思った瞬間、ぐいと体を強く引っ張られます。バランスを崩し、後ろへ倒れ込んでしまいました。
それでもなんとか上体を起こすと、一瞬前までネオルクがいた場所を影の持つ鋭い何かが掠めていきました。
爪でしょうか。あのままだったら自分は引き裂かれていたと思うと背筋がぞっとします。
「時に勇気は必要だが、それは今じゃない」
「でも」
「大丈夫だから」
言うと、天使が今度は強めの光を発する球体を手のひらに出現させました。「喰らえ!」と声をあげ、闇へとぶつけます。
パン! と弾ける音が響いて闇がたじろぎ、効果があったかに思われました。が、すぐに何事もなかったかのように向かってきます。
これでもだめなんて、一体どうすれば……!
その時、ガシャーン! と何かが盛大に割れる音がしました。咄嗟に窓の方へと意識を向けます。
「今度は何!?」
月光がガラス越しにではなく、直接に部屋へ入り、カーテンがバタバタとたなびきます。
下には割れたばかりの窓だった物が散らばり、枠だった木屑も混じっていました。
その手前に誰かが居ます。シルエットが次第にはっきりして、突然現れた二人組を浮き上がらせました。