第六話 水底でのであい
「さぁ、ネオルク」
溜め息が零れる光景に、触れるのが怖くなります。それでも手を引かれ、おそるおそる歩き出しました。
丸く切り取られた森の一角にこんな場所があることなど、地元でも知らない人は多くはない気がします。
「え、入るの?」
「この場には守護者がいる。彼女と会うんだ」
「守護者?」
一本だけ、滝の受け皿とも思える場所から細い川が流れていました。それを見ながら靴を脱いで、冷たい水に足を入れます。
クェイルは微かに笑んだように見え、すぐに元の表情に戻ると言いました。
「人間で言うところの『精霊』だ」
「精霊……?」
絵や本で見たり聞いたりしたことはありましたが、いたら良いなと考えるだけの存在です。しかし、現にこうして天使がいるのだからと、ネオルクは疑いませんでした。
「ネオルクなら、精霊と心を通わせることが出来る」
「僕が?」
クェイルが頷き、滝に手を差し出すと、この場にいるという精霊の名を静かに告げます。
「水の精霊・ウォーティア」
『我を呼ぶのは誰だ』
「声……?」
耳に何か届くのを感じます。聞いたことのない、抑揚のない女声です。
狼狽えるネオルクの前に水の柱が現れ、中が仄かに光を放ちました。
やがてその光は失われ、影が見えたかと思うと柱がはらはらと落ちていき、最後には水そのもので作られた肉体を持つ女性が立っています。
「ネオルク、前に出て」
「あ、うん」
ぼうっとしているネオルクの背を天使が押します。小さな波を立てながら滝の前にいる精霊のところまで、彼はゆっくりと一人で歩いていきました。
「あの、僕、ネオルクです」
『我はウォーティア』
たどたどしく自己紹介すると、精霊の水で出来た口から透明な声が響きます。向こうから透けた顔からは表情を読みとることは出来ませんでした。
「お願いします。僕はどうしても力を手に入れたいんだ」
『何故』
「なぜって……」
言われてドキリとしましたが、その問いの答えなら分かりきっています。ぐっと握りしめた拳に力を込めて、勇気を振り絞りました。
「知りたいから。それに、知らなくちゃいけない気がするんだ。今まで知らなかったこと、……お姉さんのこと」
両親が姉の存在を隠してきた理由や居場所を会って、確かめたいのです。
答えを待つ間がとても長く感じられ、そうしてしばらくしてから、ウォーティアが不意に呟きました。
『ミモル様か』
「知ってるの? ねぇ教えて! どんな人なのか、どうすれば会えるのか」
精霊の口から姉の名前を聞くとは思わず、ネオルクは意気込みます。彼女の腕を掴んで、そのひやっとした感覚に驚き、相手が水であることに改めて気が付きました。
「ご、ごめんなさい」
「導かれるまま進めばいい。その先に……」
「わっ!?」
次の瞬間、急に冷たさが全身に伝わって呼吸が止まります。
――水に、取り込まれた?
肌に触れていた岩が消え失せ、底へと落ちていきます。もがいても上には上がれず、されるがままにゆるゆると暗がりへ向かいます。
月のおぼろげな光が消えていくほどに恐怖が心を占め、唐突に思いました。これが精霊の仕業ではないと。
「ネオルク!」
それを証明するように、天使の叫びにも似た声が遠くで聞こえます。やがて、とうとう視界が真っ暗になった時でした。
「誰?」
底の底、闇の中に「それ」はいました。何も見えないのに気配を感じるのです。そして、その存在は森で追いかけてきた者のようにネオルクには思えました。
「え、あれ……?」
ところが、手を伸ばして探ろうとした途端、何故か睡魔が急激に襲ってきます。今度は水ではなく、眠りへと落ちていってしまいました。
「……ク」
冷たい……?
「ネオルク!」
誰かが呼ぶ、その声に答えるように目蓋を開きます。頼りがいのない光がぼんやりと視界を照らし、自分の顔を誰かが覗き込んでいました。
「……クェイル?」
真っ白な翼が目に飛び込んできました。心配そうな瞳が真っ直ぐにこちらを見つめています。
「僕、一体?」
起き上がろうとして呻き声が零れます。まだ体が怠くて、思うようには動かせません。疲れ切ってしまったみたいでした。
「ウォーティアが助けてくれて……」
言って、クェイルが草場から滝へと視線を投げます。どうやら水の精霊が少年の体を引き上げてくれたみたいでした。
「そうだったんだ。あれは何だったんだろう」
「あれは誰でもない、そして誰でもある」
「どういう……」
しかし、クェイルは黙り込んでしまいました。仕方なくもう少し寝ころんでいると、ネオルクは自分が全く濡れていないことに気付きます。
脱いだはずの靴が足にはまっているのは天使が履かせてくれたのだとして、着ている服が自分の全く知らないものだったことは説明が付きません。
「この服、もしかしてクェイルが?」
それは白と黒で彩られた動きやすい衣装で、とても着心地が良いものでした。
「あぁ、契約者の修行衣のような物だ」
「ってことは、僕、『契約』したの?」
ネオルクは内側から湧き出る力を感じながら、今は姿を消したウォーティアと交わした言葉を、しばらく唇の奥で繰り返していました。
少し時間が経つと、夜空は星でいっぱいになりました。クェイルが前触れもなく少年の軽い体をヒョイと持ち上げます。
「わっ。と、飛ぶの?」
「そうだけど」
前は嫌がりましたが、今回ばかりは自分で歩くことが出来ないために従う他ありません。せめて暴れないで大人しくしていようと心に決めます。
「帰ろう」
「う、うん」
考えてみれば今まで実際に飛んだところを見たことがありません。綺麗な羽が生えているのに使えないのは、自分の我が儘のせいなのでした。
ふわり。音もなく空中に浮いたことが肌で分かります。びっくりすると同時に、全く感じたことのない浮遊感にどきどきしました。
そうして柔らかい羽音がして、二人は空へと舞い上がります。
怖々下を盗み見ればどこまでも続く森が眼下に広がっていて、ここを歩いて進んできたのだと思うと本当に驚きです。
「震えて……?」
「うん、ごめん。怖かったんだ」
ずっと言えなかった、飛ぶのが嫌な理由をネオルクは静かに語りました。
「小さい頃から良く見る夢があってね。暗闇でふっと地面が無くなって、どんどん落ちていく夢なんだ」
非常にリアルな夢でした。幾晩も幾晩も見てはうなされ、途中でハッとして目が覚めるのです。その記憶が話しているに呼び起こされ、彼は強くクェイルにしがみつきます。
「大丈夫、これからは落ちても私が必ず引き上げるから。たとえ夢の中でも」
諭すように言って、抱える腕に力を込めます。頬を撫でる冷たい夜風には夢とは違い、柔らかさと優しさがありました。
「……うん」
二人を月と星だけが見ています。どこからが夢でどこからが現実なのかは曖昧で、解け合って混ざり合い、世界全てを覆っているように思えました。
再び訪れた眠気と脱力感がそうさせるのか、瞳には涙が滲むのでした。