第四話 静かな夜をこえて
「わ……」
外に出ると、やけに眩しさを感じます。同じ景色なのに、世界が変わって見えました。
どことは言えないけれど、慣れ親しんだはずの敷石も花壇も妙によそよそしく、ネオルクを追い出そうとするかのようです。
しばらく歩き出すのを躊躇っていると、閉じた扉の向こうから啜り泣く母の声が聞こえてきました。
「お願い、行かないで。あなたまで、失いたくないの……」
嗚咽に混じって聞こえてくる声を背にしながら、自分は何をしているのだろうとぼんやり思います。
育ててくれた親を捨てるような真似をしてまで、やりたいことなのかと。それでも、戻ろうという気にはなりませんでした。
見上げると、空色の瞳が深くこちらを見据えています。
「僕、お姉さんに会いたい。会わなくちゃいけない気がするんだ」
ざわざわとした喧噪が満ちています。移動し、宿を取ったその町は、ネオルクが10年住んできたところとはかけ離れた常識が支配しているところでした。
「もう夜なのに、外が明るいね」
酒場の灯りや雑多なざわめきを抜けて泊まった簡素な部屋に、今はクェイルと二人きりです。
緊張した少年には、何の変哲もない台詞でさえ、勇気を振り絞った一言でした。
「ここは夜の町だから」
クェイルは無表情のままで淡々と返事をしただけだったけれど、ネオルクの胸をどきりと強く打ちます。
もしかして別々の部屋が良かったのでは? 浮かんできた思いが新たな疑問を生み、彼はドキドキしながらも思い切って聞いてみることにしました。
「ねぇ、クェイルって男の人? それとも女の人?」
天使はとてもスレンダーで、声も中性的だったため、ネオルクには分からなかったのです。するとクェイルはにこりと微笑み、「どっちがいい?」と逆に聞いてきました。
「あ、あの、ごめんなさい」
少年は慌てて謝りました。聞いてはいけないことだったのだと感じたのです。性別を訊ねるなんて、とても失礼なことだったと。
「いや、怒った訳じゃ」
クェイルはそう言いましたが、彼はこの話題を続ける気にはなれず、代わりにこれからどうするのかを訊ねました。
「僕は……お姉さんに会いたい。居場所を知ってるんだよね?」
ゆっくり、窓から漏れ出る町の灯りに照らされながら、クェイルが頷きます。
その輪郭が淡く光を帯びると、まるで今は見えないはずの翼が浮かび上がるかのようでした。
「契約者としての目覚めの時を迎えれば」
「契約者? 目覚め……?」
耳慣れない言葉にネオルクは首を傾げます。同時に、ため込んでいた疑問が一気に溢れてきました。
「契約者とは神に選ばれし存在。神の残り香」
「カミサマ? そっか。クェイルは天使なんだから、神様の使いなんだね……」
それを聞いたネオルクには大きな「何か」が見えた気がして、胸のつかえがとれて息がしやすくなりました。
目の前にいるのは人ではなく、汚れ無き神の使者。そう思うと、鼓動も自然と収まりました。まるで、自分がこの相手と出会う運命だったような気持ちになってきます。
「さぁ、もう眠って」
他にも色々なことが聞きたかったけれど、月の傾きを仰いだクェイルが眠りへと誘いました。
意識する以上に疲れていたのか、ネオルクは横になるとすぐに睡魔が襲ってきます。
両親と離れ離れになってしまったのに、不思議と寂しさに苛まれはしませんでした。
「あれ……?」
翌日は前夜よりももっとネオルクを驚かせました。いつものように目覚めたのに、不思議と何の音もしないのです。
少しして、そこが家でないことを思い出しましたが、それでもこの静けさを説明するには至りません。
天使の温かい腕の中から抜け出し、木のドアを慎重に開き、廊下をしずしずと歩いて洗面所に向かう間も、音を立てるのがまるで非常に悪いことかのようでした。
もちろん誰とも会うことはありません。
「みんなまだ起きてないのかな? もう朝なのに……」
「ここは夜の町だから」
どきっ! 顔に冷たい水が触れたことよりも、静寂の中にぽっかりと現れた声の方が、与えた驚きは何倍も大きいものでした。
鏡で確認すると、すぐ後ろにクェイルが立っています。しかも、すでに着替えも済ませた姿です。
ネオルクは水に濡れた顔のまま、鏡に映るクェイルに向かって微笑みかけました。
「おはよう。いつ起きたの? さっきまで寝巻きだったよね?」
「私の服は私そのものだから」
それがどういう意味かを問い直そうとする前に、天使はぽつりと呟きます。
「ネオルクは、ミモル様と良く似ている」
感情に乏しいその表情が少しだけ嬉しそうに見え、少年はタオルで顔を拭いてから振り返りました。
「そんなに似てるの? 姉弟なんだから、おかしくないかもしれないけど」
「見た目だけじゃない。瞳に映る物が似ている」
今度も意味を推し量ることは出来ません。クェイルも深くは言わず、考え事をする少年を優しく見つめるだけでした。
「お姉さんて、どんな人?」
純粋に興味が沸きました。姉というよりも、この天使が焦がれてでもいるような視線を送る人にです。
「優しい人」
「ふぅん?」
未だ幼い彼の想像する“優しさ”が、クェイルの言うそれとは微妙にずれていることに気付いても、天使は何も口にはしません。ただ、きゅっと軽く唇を噛み締めます。
自分は連れていくだけなのだと、心の中でただ念じているのでした。
宿を出た二人が向かったのは、街道をそれた森の中でした。
「一体どこへ?」
導かれる先が鬱蒼としているのを見、町育ちのネオルクは不安になります。どうしても我慢できず先を進むクェイルに尋ねました。
生い茂る木々も葉も、そして時折ぽつぽつと咲いている花さえ、どれも彼にとってあまりいい印象をもたらす物ではありません。
「この先の滝へ」
「滝?」
それは今まで見たことのない景色の名前でした。本や話で見聞きしたくらいで、ほとんど知識がありません。水が激しく流れ落ちていて、そして、その先は……?
ぼうっと考えている間にも腕を引かれ、気付けばすでに草地へと足を踏み入れていました。
「え、あ、ちょっと待って」
引き留めても無駄だろうと分かっていて躊躇したのは、単純に怖かったからです。
森の中で遊び回ったりした経験がありませんでしたし、森という場所に棲む者たちが決して優しくないこともすでに肌で感じていました。
クェイルはそんな少年を持て余し、少々困ったようです。
「ならあとはやはり、飛ぶしか」
「そ、それはダメ」
返事は重なるほどの早さで繰り出されました。実はこの提案は宿でもなされたものでしたが、どうしてもネオルクが受け入れなかったのです。
「どうして?」
「……」
けれども問いの返事は沈黙で、首を傾げるしかありません。少年の意外な頑なさに、天使も戸惑うばかりです。
何故、今仰いでいる空に向かうのが嫌なのでしょう。生まれつき翼のある者に理解できる問題ではありませんでした。
「はぁ」
しばらくの後、しかたなく一息吐き出して、おもむろにネオルクが顔を上げます。
「……分かった。行くよ」
それは森に入ることへのしぶしぶの了承、という意味でしょう。
他に道はありません。となれば、駄々をこねても結果は何も変わらないのです。出来るのはただ一つ、このまま森を突き進むことのみ。
幼い決意をする少年を見るクェイルの瞳には、どんな感情も映りませんでした。