第三十六話 本当のこと
「私達は旅を続けていく中で、悪魔の正体を知ってしまった。悪魔は、もともと天使だった者が神の意志に抗い堕ちた存在なの」
ここに来るまでにクェイルが教えてくれた、契約者を護れなかった天使の末路が脳裏を過ぎります。
「私が出会った悪魔……マカラも、神様よりパートナーを選んで、自ら堕ちていった。その人……ニズムが本当に大切だったから。でも、ニズムもそれは同じだったから、二人は再会出来たの」
ネオルクの中でそれまでに抱いていた観念が崩れていくのを感じました。
「今は子どももいるんだよ。可愛い女の子がね」
どこか遠いところを見つめるように呟きます。姉の目は幸せそうで、それなのに憂いを拭えずにいます。
「私は、正しくは“神様代理”なんだ」
「……お母さんがね」
言えば深い部分で傷つけてしまうかも知れません。それでも、触れなければならない部分に思えました。
「クェイルが来たとき、すごく怒ってた。ううん、悲しんでた。お姉ちゃんの次は僕かって」
姉の顔は無表情へ、そしてすぐに目元に朱が射すものへと変化しました。
誰のせいでもないことで、誰もが哀しみを抱え込んでいる。それを良くも悪くも象徴していました。
でも、聞かずに終わらせることなど出来はしません。
「ねぇ、僕と一緒に」
「だめ」
返事はぴしゃりと告げられました。
やっぱり駄目なのかな。
一度は描いた家族揃っての風景も、叶わない夢なのでしょうか。
ネオルクが俯きかけると、彼女は手を取って覗き込んできました。自分の手を包むそれは、久しぶりに触れる人の温もりに溢れています。
「ごめんなさい。私は帰れないの。お留守番だから」
口を開いて何かを言おうとするのに、どうしても声は出てこずに唇の隙間からは空気が漏れるだけです。すると、彼女は優しい口調に戻って言いました。
「ネオルクは大丈夫だからね。ちゃんと帰してあげるから」
「えっ?」
あまりに唐突過ぎて、あまりに当然の成り行き過ぎていました。外はしんと静まり返って、二人きりだという事実を強調します。
いえ、鳴っていた小さな自然の音が彼の耳に届かないだけでしょうか。
「ううん、ちゃんと言わなきゃだよね。どうしたい? 望むなら、ずっとここにいてもいいし、お母さんやお父さんのところに帰りたかったら、送ってあげるから」
姉と時間の止まったこの世界に留まるか、欠けていること知っていて、家族の居る故郷へ戻るか……。
考えていたら泣きたくなって、思考を放棄しかけて、気付きました。
「クェイルは、どうなるの?」
気付いたら、そのきっかけを失わないために、舌はそれまで休んでいた分を取り戻すように話しました。
「僕、思うんだ。家に帰っても、クェイルは一緒に居られないって。あの家にはきっとクェイルの」
居場所なんてない。
二人の間に重い沈黙が立ちこめます。それを切り裂いたのは「私なら心配要らない」と言うクェイルの声でした。チラリとミモルに視線を投げかけ、入ってきます。
ネオルクは椅子から立ち上がりました。
「お別れだ。自分の役目が達せされた今、二人の旅も、ここで終わり」
「もう会えないっていうの!?」
何の色もないクェイルの顔は、これまでで一番読めないものです。納得のいかないネオルクは駆け寄って感情をぶつけました。
僕達の間柄はこんなものだった? どうして何も、弁解もしてくれないのかと責めかけてはっとしました。
「もう、隠し事なんて止めて。冷たい顔したって駄目だよ。僕の知らないところでクェイルが辛い思いをするのは嫌だからね!」
尚も黙したままだったクェイルが、思いだしたように口を開きます。そこへ視線が吸い寄せられる一方で、双眸はそれ以上に何かを訴えていました。
ごく小さな音でも、この部屋では耳にはっきりと届きます。
「私は、クェイルでは……ない」
意味が分かりません。突き放そうとする天使の外見はいつもの通りに見えます。なのに、ネオルクの手を離れてミモルの前へ歩み寄る横顔に優しさはありません。
姉も厳しくそれを受け止め、弟へと向き直りました。
「本当の私の姿は、今あるこの姿ではない。ずっと、騙していたんだ。よく見ていて」
先程自分を包み込んだ手を胸の辺りに差し出すと、空間がそこへ引き寄せられていくのが視えます。虚空に何かが生まれようとしていました。
――それを見た瞬間、ネオルクの全身に戦慄が走りました。
「やっ、やめて!」
黒い、全てを呑み込む光球。掌に収まる、負の塊。
忌むべき力であり、天使にとっては存在を傷つける毒です。
そんなものをどうしようというのでしょう。姉の手は止まらず、クェイルも何故か拒みません。
「大丈夫。これは元々、私のものだから」
濃縮された重い鉛が、天使の胸へと静かに吸い込まれていきました。
途端、クェイルを中心にして強い風が巻き起こり、ミモルがネオルクの手を引きました。
「あ、クェイルっ」
ドス黒い風が渦を巻いて天使を包んでいます。一度は辺りに拡散した力の流れが、今度は恐ろしい勢いで収縮していきます。
やがて解けた闇の中に、クェイルの姿はありませんでした。
「え」
「……ごめんね」
か細い謝罪に衝撃を与えられます。
真っ赤な髪と瞳、ネオルクの胸ほどの背丈もない、小さな羽を生やした小さな女の子が、真っ直ぐに少年を見つめてそこに立ちつくしていました。
何がどうなったの? この子は誰……?
理解を超えている、はじめはそう思いました。クェイルは自分よりずっと背が高くて、いつも無表情を顔に張り付けているような天使です。
今、目の前にいるのはそれとは全く反対の、幼い少女です。
でも、この目。クェイルと同じ光を持った目は。
改めて観察して、そこに気が付きました。見た目は本当に別人になってしまいましたが、芯の部分は元のままです。
「クェ、イル?」
「違うよ。もう、ジェイレイ、なの」
喋り方も違います。声も違います。それでも。
ネオルクはその透き通るような白い頬に触れてみました。温かくて弾力がありました。
「ほんとう、なの?」
「ごめんね」
ずきり。ジェイレイと名乗った少女が謝るたび、胸には痛みが感じられます。
そっか。まだ、僕のために我慢して。
ここまで来て初めて、ネオルクは天使の心を知りました。ずっと一人で抱え込んでいたもの。彼女の苦しみ。全てはこの姿に由来していたのです。
この少女がクェイルなら、済まなさそうな表情の裡に隠しているものが何かは分かっていました。か弱い力を包み込むように、細い身を抱きしめます。
「……ありがとう。こんな小さな体で、守ってくれて。気が付いてあげられなくて、ごめん」
「許して、くれるの……?」
「何を? ウソなんかついてないよ。ちゃんと、お姉ちゃんに会わせてくれた。びっくりしたけど、パートナーだってことは変わらないよ」
腕の中にいた天使は一気に涙を溢れさせて泣き出しました。その背中を撫でて顔を向け、赤くなった下瞼を隠すように笑いました。




