第三話 さしだされた手
「……僕の家じゃないみたい」
しんと静まり返った我が家はたった一日――もしかしたら数日かもしれませんが――で変わり果てたみたいでした。
暖かみのある壁も天井も、あのカレンダーと同じで異物を排除するかのように迫ってくるかと思えば、遠ざかっていくような錯覚にも襲われて、まだ足元が覚束ないのかと床に視線を落としました。
ひそひそと聞こえてきた声に、ネオルクはかすかに身じろぎます。
「お父さん、お母さん?」
長年聞き続けてきたものに違いありません。無性に安堵して、彼はキッチンの入口に近付きました。
「もしかしたら……」
「そんなはずは」
何の話をしているのでしょう? ネオルクがひょっこりと顔を出すと、テーブルについていたらしい両親は機敏に立ち上がり、母親が走り寄ってきて両腕を掴んできました。
「ネオルク! 起きて大丈夫なの?」
「う、うん」
自分が熱を出して寝込んだ時に見せるような、心配そうな顔です。しかし、それ以上の何かが若々しい母の顔に似つかわしくない皺を刻み込んでいました。
「僕、どうしたの? 良く覚えていないんだけど……」
「昨日の夕方、お前が倒れているところを、近所の人が見つけて運んできてくれたんだぞ」
ぽんと頭に父親の大きな手が乗せられ、優しく撫でられます。もう十歳になるのですし、普段なら恥ずかしいそれが、今はくすぐったく感じられました。
突き放す冷たさを易々と溶かしてしまう温もりに満ちていたからか、これまで親を心配させまいと口にしなかったことも、自然と話すことが出来たのです。
「声を、聞いたんだ」
『声?』
子どもの真剣な眼差しに、父も母も吸い寄せられます。これから話そうとしていることが大切なことであると感じ取り、じっと聞き入りました。
「少し前から、僕を呼ぶ誰かの声がするんだ」
ずっと夢だと思っていました。てっきり気のせい、勘違いだと。でも、昨日は起きている時に聞こえたのです。
そうなると、誰かが自分を呼び続けている事実をもう夢ではないと認めざるを得なくなりました。
「それで、聞こえたと思ったら、何がなんだか分からなくなって、気が付いたらベッドで寝てたんだ」
「あなた、やっぱり……」
話し終わった途端に母親が強く抱きしめてきました。「わっ」というネオルクの驚きは口が塞れてしまい、発することが出来ません。
「どうしたの。『やっぱり』って?」
「だいじょうぶ。大丈夫よ」
ずっと様子がおかしいと思っていましたが、それにしたって必死過ぎる気がします。まるで何かを恐れているみたいです。
けれど、母親は疑問には答えず、引きつった顔にぎこちない笑みを浮かべたまま、もう一度「大丈夫よ」と繰り返しました。
「心配しないで。私達が必ず守ってあげるから」
「それは私の役目のはずですが?」
凛とした、鈴が鳴るような声でした。高めの男声にも、低めの女声にも聞こえる、不思議な響きです。
けれどもネオルクが息を詰めたような緊張感に襲われたのは、単に知らない人の声だったからではありません。
「だ、誰?」
何度そう問いかけたか、忘れてしまいました。少年は温かい母の腕や父の手のひらから抜け出し、声がした玄関へ向かって走り出します。
両親の制止が聞こえるも、耳をするりとすり抜けていきました。
たった十数歩の距離を走ったところで角を曲がり、ネオルクはその人を見つけます。
「あなたが、僕を呼んでいたの?」
「そうです」
夢で、そして現実で自分を呼び続けていた声に間違いありません。
強い意思の光を宿した青い瞳と、対照的な鮮やかさを持つ髪は短いピンク色で、こうして出会ってなお、男なのか女なのか判別できませんでした。
「初めまして、私はクェイル。あなたを呼び、そして喚ばれ、来ました」
クェイルと名乗った相手がそう告げると、ネオルクの心で重く沈んでいた霧がさぁっと掻き消されていきます。
「どうして?」
クェイルはほんの少し表情を和らげて言いました。
「あなたを守るために」
ほんのりと甘い香りが漂っています。簡素ながら小奇麗に掃除された玄関には、母親が好きな赤い小さな花が慎ましく活けてあります。
端正な顔立ちのクェイルが傍らに立てば、引き立てあって玄関が一気に華やかさを増しました。
「守る?」
ネオルクは首を傾げて聞き返します。一体何から守るのか、どうして自分を守ろうとするのか、そもそも何者なのか。
一つ思うと別の疑問が幾つもわいてきて、難解なパズルに挑戦してでもいるような気分になります。しかし、それらに応えたのはクェイルではありませんでした。
「やめて!」
後ろから腕を掴まれたと思ったら、ぐんと強く引っ張られます。転びそうになるのをなんとか堪えて振り返ると、鋭く叫んだのは母親で、引き寄せたのは父親でした。
「あなたにこの子は渡さないわ」
「このまま帰って貰いたい」
息子の前に両親が立ち塞がる形で立ち、ネオルクには何が起きているのかいよいよ分からなくなってきます。それに、と母親は激しい口調を崩さず続けました。
「あなた達が奪った『あの子』も返してちょうだい!」
――あの子。初めて聞く話に少年には誰のことかと問い正したくなりましたが、両親の緊迫した雰囲気がそれを許しません。
「戻らないのは、あのひとの意思です。私の及ぶところではありません」
「嘘言わないで!」
「そんな話を我々が信じるとでも?」
父親も普段家では出さないような声音で凄みます。クェイルはそれをも「事実ですから」と切り捨て、白い手をネオルクに真っ直ぐに差し出しました。
「知りたいのでは?」
「え……」
「一緒にくれば、疑問に答えてあげられる。どうする?」
問う声は優しく、彼は伸ばされた手をじっと見つめます。
何も強制はしてきません。全ては自分の意思で決めて良いのだと言っている一方で、同時に抗い難い誘惑も感じました。
「僕は」
「駄目っ」
「やめるんだ、ネオルク」
すぐ近くにいるはずの両親の制止がやけに遠く聞こえます。差し出された手を取ることがどういうことか、薄々理解していました。
「クェイルって言ったよね。あなたは何者?」
「私は、あなたのためだけにこの世界に遣わされた天使」
ばさりと音がして、ピンクの髪以外に目にした、ただただ真っ白なものの正体がやっと分かりました。それは紛れもなく、純白の一対の翼でした。
「てんし? 本物の天使様? ……僕をどこに連れて行くの?」
「あなたの姉、ミモル様の元へ」
今この人はなんと言ったのでしょう? ぽっかりと空いた穴の底が見え、どうしたらいいのか分からないような気分です。
「ぼくの、お姉さん?」
ふわりと翼を消してしまったクレイルは頷きます。そこで、先ほどの「あの子」のことかと思い至りました。
振り返ると、両親の悲しみと戸惑いが混ざった瞳が目に飛び込んできます。
「僕は一人っ子だっていってたよね?」
「……」
もう一度、クェイルの手に視線を落としてから顔を見上げます。そこにはなんの感情も浮かんでおらず、ただ静かに少年の決断を待っているのでした。
「行けば、分かるんだよね? 僕は……知りたい」
代わりに今ある生活や家族を失うとしても。それが決別を意味すると分かっていて、口にするのを止められません。
掴んでいた父親の手が力を失い、するすると抜けていきました。
「あなたが望むなら」
恐る恐る触れた指先は、白さから予想していた冷たさではなく、自分と同じだけの温度を保っていました。そのことにびっくりしながらも、意を決して手を乗せます。
「だったら、行くよ」
一歩、また一歩。母が飾った花の横を抜ける瞬間、甘い香りが鼻をくすぐりました。