第二話 曖昧なきおく
「ふぅ、もうこんな時間だね、そろそろ帰らなきゃ」
駆け回って遊んだ子ども達の顔に夕日が赤く射していきます。噴水広場で話し込んでいた大人達も、段々と足を遠ざけていく時間です。
青いはずのフィーナの髪も赤く見えました。
「ネオルク、一緒に帰ろ」
「うん」
帰り道は風が吹いて少し冷えていました。少女が腕をさすります。
ふと彼女が立ち止まって「ねぇ」と呼び止めてきます。俯き加減でじっと見つめてきて、ふうと一息、勇気を振り絞ったかのような表情をしました。
「何?」
「はい、プレゼント。今日、お誕生日でしょ? ……おめでと」
おずおずと言って、ポケットから取り出した物を手渡してきます。
ネオルクは突然のことに呆気に取られました。そういえば今日一日みんなに「おめでとう」を言われたけれど、フィーナはその時輪の外にいました。
彼女は機会をうかがっていたのです。それにようやく気が付いたネオルクは、紙の小さな包みを見つめ、胸が温かくなるのを感じました。
「開けるね」
可愛い柄の小さな袋にはハンカチが一枚入っていました。白地で縁が青い、シンプルなデザインです。いかにも彼女らしいプレゼントに、ネオルクの顔も綻びます。
「ありがとう」
フィーナも俯いたままでこくんと頷きました。
「何にしようか迷ったけど、良かった?」
「うん。大切に使うよ」
二人の間に緩やかで穏やかな時間が流れたその時です。突如、ザァッと強い風が吹き、彼の手からハンカチがすり抜けて飛んで行ってしまいました。
「あっ!」
まるで生き物みたいにヒラヒラと宙を舞うそれを、ネオルクは追いかけようと走り出します。せっかく貰ったプレゼントを、その日のうちに失くしてしまったら最悪です。
「ごめんっ、絶対に取り戻すからフィーナは先に帰ってて!」
でも、と言おうとしたフィーナを、次の強風が遮りました。思わず目を閉じて再び開いたら、すでに彼の姿は町に消えていたのでした。
『ネオルク』
「まただ」
ハンカチを追う間にあの声が再び頭に響き、彼は立ち止まります。ちょうど裏路地に入り、人の流れから抜けたところでした。
探して空を仰ぐと、高い屋根の隙間を縫うように飛ぶ何かが目に入ります。沈みかけた赤い夕日を浴びても、それは真っ白な光を放っていました。
「ハンカチ、じゃない?」
そう思った瞬間、あれほど少年を翻弄した風が突然止みました。何かが起きようとしている予感に立ち竦んでいると、目の前に薄い布きれが現れます。
「あっ」
反射的に手を伸ばして掴み取れば、確かに探していたプレゼントに違いありません。汚れてはいないかと開いた瞬間、中からはらりと何かが滑り落ちました。
「え……」
それは軽くて真っ白な一枚の羽根です。さっき飛んでいたのはこれだったのでしょうか。
「ネオルク……」
またあの声がして首を巡らせました。今度はとても近くで呼ばれた気がしたのです。足元に落ちた羽根を拾い上げ、彼は空へ向かって呼びかけました。
「僕の名前を呼ぶのは誰?」
途端、眩暈が少年を襲い、世界が揺らぎます。彼の問いに応えるように、強い光がこの空間ごとすっぽりと包みました。
からだがフワフワとした感覚に包まれ、体が浮き、足が地を失って遊ばれます。
「ネオルク」
耳元で囁くのは、厚みのある肉声です。そっと後ろから二つの手に支えられ、前に回された腕にぎゅっと抱きとめられました。
顔を見ようとして視界に入ったのは、さらさらと流れるピンク色の何かで、あとはただただ白に埋め尽くされたままです。
「だれ……?」
意識が遠のいていく中で発した問いに、相手が答えようとする息遣いを感じました。
◇◇◇
ハンカチが飛んでいます。せっかく取り戻したと思ったのに、また風にさらわれてしまったのでしょうか?
「待って、待ってよ」
少年は夢中で追いかけましたが、ふいに足を止めました。ここはどこ? という当然の疑問が、不思議と後からわいてきたのです。
そうしてキョロキョロと辺りを見回した彼の口からは、ありえない言葉が零れました。
「景色が、ない?」
そこは背景が描かれる前のキャンパスみたいに白い世界だったのです。家も木々も人さえも、全てがきれいに洗い流されたように何もありません。
かろうじて見つけられたのは、自分の足から伸びた灰色の影だけです。いつの間にこんなところへ迷い込んでしまったのでしょう。
何もない、誰もいない場所にひとりぼっち。寄る辺ないその事実は、最近感じたばかりの孤独感を年端もいかぬ少年に強く思い出させました。
「っ!」
唐突に、目の前に自分以外の何かが現れます。それはこちらに背を向けた、ひとりの少女でした。
白さで目が痛くなる周囲を押しのける程の存在感を、黒々と輝く髪が放っています。
自分よりも年上に見えました。幾らか背が高くて、二つに分けた髪をそれぞれきっちりと三つ編みに結った女の子です。
けれども、服装は背中から下をすっぽりと覆う黒いマントのようなもののせいで分かりません。
「……?」
眺めているうちに湧き上がってきた感情に、ネオルクは戸惑いました。後ろ姿からは会ったことのない相手だと思ったはずでした。それなのに、何故か。
「懐かしい?」
向こうがこちらに気付いて振り返ろうとする気配を感じ、少年は目を凝らして一歩踏み出しました。
◇◇◇
目を覚ますと、背中がじっとりと濡れています。見慣れた天井に、自分が自室で寝ていると理解するまでに数秒を要しました。
「あれ、なんで」
ベッドにいる理由を思い出そうとして、幼馴染みと別れたあとからの記憶が曖昧であることに気付きます。
飛んでいくハンカチを追いかけて、確かに掴んだはずの自分。そこへ夢のあの声がしたと思ったら、意識が薄れて――あとはよく分かりません。
「倒れちゃったのかな、僕」
でも、夢とも現ともつかない場所で誰かに会ったような気がします。
薄れゆく記憶は、この瞬間にも零れ落ちる砂のようにどんどん逃げて、そのうち「誰だったのか」は「本当に会ったのか」に変わっていってしまいました。
カーテンに透ける太陽はすでに空高く昇っていて、今は何日の何時だろうと壁にかかったカレンダーを見ながら思います。
「誕生日、終わっちゃったのかな」
そっと、楽しく過ぎるはずだった日に記された赤い丸を指先でなぞると、突き放すような冷たい感触がしました。
一年で一度だけ訪れる特別な日。誕生日だけは遅くまで起きていても怒られません。
両親はご馳走とプレゼントを用意してくれ、顔を綻ばせる息子をいつまでも愛おしそうに眺めては微笑みあいます。今年もきっとそうなると信じて疑わなかったのに。
とにかく事情を確かめようと、ネオルクは家族を探して廊下へと出ました。