第十九話 うみの神殿
段々と光が薄くなってくるのを感じながら水底に落ちていくと、不思議と息苦しさは消え去っていきました。これが死なのだろうか、と狭まる視界の中で感じます。
『ネオルク!』
声が体を貫きました。痺れるように覚醒を促す、ぴんと張りつめた音でした。
大きく目を見開き、自分の体からほとんど抜けきった気泡をかき分けて向かってくる光を捉えます。
海の奥深くに誘う声とは反対に、追ってくるクェイルの姿は天から舞い降りた天使そのもののように輝いていました。ネオルクは柔らかく笑いかけます。
『だい……じょうぶ』
大丈夫、苦しくも辛くもありません。説明出来ない思いだったけれど、確かにこのままどこまでも落ちていきたい気分でした。
クェイルは戸惑っているような表情を見せましたが、彼の笑顔を眺めていたら気が変わったのか、
わ、クェイル……笑って……。
すぐに腕が伸ばされ、しっかりと抱きとめられたので一瞬のことでした。でも、ネオルクの脳裏からは天使の笑顔が消えませんでした。
何よりも安心できる場所で、目を伏せ、すぐにまっすぐ下を見つめます。そのまま二人はどこまでも落ちていきました。
底は真っ暗です。まるでクェイルと会う前に見た夢のような、暗く重い闇が果てなく続いています。
違うのは上下がなんとなく分かることと、一人ではないこと。今は進むべき道を、その足下を照らし、先をどこまでも示してくれるクェイルが一緒です。
胸に小さな明かりを灯したように、明るさと暖かかさが感じられました。
冷たくて踏みしめにくい地面になんとか立つと、ふわりと砂が膝の辺りまで舞い上がって沈みます。ふと、息が出来ている自分に気が付きました。
察したクェイルが少し上から声をかけてきます。
「ウォーティアの加護だ」
「あ、そっか。……忘れてた」
水の精霊を喚べば、溺れることなどなかったのです。藻掻いているうちに無意識に助けを求め、それにウォーティアが応えてくれたようでした。
さて、これからどうしましょう。
彼はクェイルの顔がある斜め上から地面に視線を落とします。はっきりとは見えないにしても、水の流れで波打つその模様くらいは感じられます。
『我が元へ』
再びあの声が聞こえてきました。そしてあの引き寄せるような感覚も。ネオルクはふと、自分はこの感覚を知っているような気がしました。
「あっちだ」
「どうして?」
暗闇を歩み始めると、クェイルが腕を引いて制止をかけてきます。おさまった砂が先程より控えめに上がって浮遊しました。
怪訝な顔の天使に、今度はネオルクがびっくりする番です。お互いをはかりかねる空気が漂います。
「声が聞こえるでしょ?」
「声?」
『我はここに居る』
「ほら」
強い力を含んだ、低い声が三度少年に呼びかけます。
間違いありません。幻聴だと、うやむやに出来る程度のものではないのです。こんなにもはっきり聞こえているのですから。
「……いや」
クェイルは苦しげに首を振りました。その様子に嘘は感じられません。もしかして、これも自分にしか聞こえない声なのだろうかと思い至りました。
「今のネオルクには、普通の人には聞こえないものや見えないものを感知する力がある。これもその一つだろう、気を付けた方が良い」
「あれは湿地帯で聞いた音みたいに怖いものってこと?」
水の中なのに、息づかいや空気の流れが五感を刺激します。ネオルクは天使の忠告に足が竦み、急に闇が濃くなった気がしました。
「ここは精霊の護る地だ。そんな邪な存在がいるとは考えにくいが、用心に越したことはない。こっちへ」
「う、うん」
体に震えが走ります。慌てて頷き、世界を見る目に修正を加えました。
クェイルが手を引いて道無き道を案内してくれます。どこをどう進んだのか分からないなりに、とにかくこの道標だけは信頼できると心で念じ続けました。
胸に灯った光は消えない程度の明るさに落ちてしまい、あんなに輝いていたクェイル自身も闇に蝕まれていくように思えます。
「クェイル、大丈夫?」
天使にとっての闇は命を縮める毒のようなもの。旅の中でネオルクはそう感じていました。
ウォーティアと会った森でも、血の匂いがすると言っていた村でもクェイルは苦しそうでした。ここも、その身にはあまり良くないのではないでしょうか。
「……精霊の守護が弱くなっている」
その声と何かが落ちる音に気が付いて、はっと目を上げました。
いつの間にか、二人の前には白く透き通った建物がそびえ立っています。突然現れた、城にも似た巨大なそれは暗い海の底で淡く光を放っているようでした。
煌びやかというよりは、教会のような厳かな印象を受けます。
「海の神殿……。ここも、力弱い」
「クェイル、凄い汗だよ」
クェイルが呟きます。城の光を反射して、天使の表情がはっきりと浮かび上がったのを見、ネオルクは息を呑みました。
先程の何かが落ちる音は、天使の汗が滴ったものだったのです。
「良くない類の力が強くなってる」
「大丈夫?」
「これくらいでどうということはない」
「どう? もし闇の力がもっともっと強くなったら、クェイルはどうなるの?」
ネオルクにはその言い方に引っかかるものを感じて問いかけましたが、クェイルは何か言おうとして止め、硬く口を閉ざして喋ろうとはしませんでした。
海の神殿はその名の通り海の底にあるため全体的に暗く、放つ空気も重いものでした。
淡い光によって足に迷うことはありません。しかし足音は甲高くどこまでも響き、その度に人気のないことを教えています。
「……」
小さな音一つ立てることさえ憚られるこの場所では、ネオルクは口を開いても声を出すのを躊躇いました。
続く白透の廊下の両脇には一直線に柱が連なり、迷える者を導きます。そこを歩くクェイルの姿はいよいよ白く、神秘的に見えました。
「ネオルク、怖い?」
「えっ」
それまで考えていたことから急に現実に引き戻されたような、まだ半分虚ろな世界にいるような、不思議な感覚です。
心配そうでした。普段の表情とほとんど変わらなくても、ネオルクには分かります。そのために今まで以上に嬉しく思いました。
こうして、ほんの僅かでも感情に触れることが出来たためでしょう。
「私は主神から戴いた光と、現マスターから受ける力によってこの世に身を保っている」
ふっと、クェイルの声の調子が変りました。
「僕のこと?」
静かに頷きます。実感としてわいてこなかったけれど、自分がクェイルを生かしているのだと思うと少しドキドキしました。
鼓動が体の外まで聞こえてしまいそうで、思わず胸を押さえます。
「もし僕が死んだら、クェイルは」
「この世界に留まる力を失って、天に還ることになる」
クェイルが口の中だけで「ただ」と呟いていることには、気付きませんでした。
しばらは淡々とした時が続き、ふとした瞬間我に返ります。先程のクェイルの表情を思い出したのです。
「ここにいると苦しいんじゃない?」
「主神の光はその傍を離れると時に受けられなくなる。濃い闇が光をのみ込むように」
光によって生かされる天使が、その命の根源を絶たれると言うことは。おさまりかけた動悸が早鐘を打ち始めました。