第十六話 扉のむこう
足を無理して動かすように、一歩ずつ進んでいきます。それに連れ、砂利を引きずる音が、厚い彫刻が彫られた扉に近づいていきました。
またしても取り残されるネオルクには、その背中を見つめることしか出来ません。奥歯を噛み締めて、クェイルが屋敷の中に入るのを見送りました。
せめて辺りを見張っておこうと、周囲に視線を走らせます。
村は不気味な沈黙の中にあり、決して彼を受け入れることなく存在し続けています。その懐にいては一時も心が安まりません。
最も辛かったのは、ここから村の入り口を見やっても自分以外の生き物の気配を感じないという事実――いえ。
「あれは何だったんだろ?」
今なら確信できます。この屋敷に入る前にクェイルが調べた建物には、何かしらの気配がありました。そして、出てきた天使の雰囲気は変わっていました。
「教えてくれなかったけど、出てこられたなら危険はなかったってこと?」
独り言はカラカラに乾いた風にさらわれ、誰にも届くことはありません。それでも声という方法で己を保っていないと、寂しくて仕方なかったのです。
ここでじっとしていていいのか。ただ守られてばかりでいいのか。自問自答して、その度に自分を案ずるクェイルの言葉を口の中で繰り返します。
「やっぱりこのままは嫌だ」
口に出してみて、改めて決意が固まるのを感じました。
このまま後を追っても、クェイルに戻れと言われるだけなのは明らかです。だとすれば、何かを知るために取れる行動は一つ。
今しがたクェイルが調査したであろう建物を調べることでした。
「よしっ」
一度は怖じ気づいて足を止めます。大丈夫、ここには危険はないはずと何度も自分に言い聞かせて、ネオルクは重い扉に手をかけました。
ひんやりとした冷たさが伝わってきます。強く押すと、ギィという音がしてゆっくりと開きました。
明るいところから暗がりに入ったせいで目が慣れず、しばらく目を凝らしていると、段々と細部までが認識できるようになってきます。
ささやかな玄関でした。家と言える場所に久しぶりに入り、自分の家と家族を思いだしてほんの少し胸が重くなります。
郷愁を振り切って奥を目指しました。クェイルが調べていた時間からすると、そんなに手前ではないでしょう。
薄暗い廊下を進むと空間が開けました。柔らかそうなソファが目に飛び込んできたかと思うと、すぐそばには火が消えて寂しげな暖炉が佇みます。
使われなくなってそんなに日が経つように見えないのは何故でしょう?
怪訝な顔で辺りを観察してから、来た方とは逆の方向に新しい扉を見付けました。
「……誰か、いるの?」
ドキリ。さっきとは別のプレッシャーが胸にのしかかります。
返事はなく、余計に不安が募りました。心臓が一つの生き物みたいに意志と関係なく激しく動機を打ちます。
「だめ、行かなきゃ」
けれど、もやもやしたものを振り払うかのように首を振りました。こんなことで怖がっていては臆病者です。
一人で行こうと決めたのですから、クェイルの助けを借りずに最後まで見届けたいと思いました。ゆっくりと近付いて、ぐっとノブを握ります。
ほんのり、心なしか感じられる温もりはクェイルの残したものでしょうか。
そういえば、埃が積もってない。
触れてみて離します。右手には何も付いていませんでした。改めて見回すと、ソファにも暖炉にも、飾られた金縁の絵画にも埃らしい埃は積もっていません。
ついでにいえば、絨毯に足跡も残っていないのでした。
「だから変な感じがしたんだ」
人が居ないなら建物は荒れます。それがここまで綺麗な状態で残っているということは、つい最近まで人がいたということに他なりません。
直感は間違ってはいなかった。確信がネオルクに勇気を与えました。
再度握りしめると、そこにはもう冷え切って何も伝えてこない木の塊があるばかり。一気に回して開きました。
『おいで』
「え?」
女の人の誘う声が聞こえ、見えかけていた視界が一瞬で真っ白になりました。五感が麻痺して何も感じられない時が行き過ぎます。
『心が』
悲しくて仕方がない、悲痛な叫びが、自分を守る術のない少年に直接的に刺さってきました。
『守ってあげるからね』
ふっと、今度はどこか懐かしい声が耳を通ります。瞬間、安らぎと高揚が胸に留まりました。
僕は、知ってる。この――。
けれど、求めて止まないものがすぐそこにあるのに、手が届かないような感覚に苛まれます。あと少しで、目の前にそれはあるのに。
『……ごめんね』
その暖かいものを拭い去る「哀」が体を貫きました。届きかけた指先をするりと抜けて、それはいってしまいます。
真っ白が真っ黒に変わって、全てが遠退きました。
「……ク! ネオルク!!」
「……?」
ぼうっとしたネオルクに、クェイルの自分を呼ぶ叫びにも似た声が浴びせかけられました。
ここは? 音にはならず空気だけが唇からもれ出ます。それでも伝わったようで、クェイルは安堵の様子で「あの村」と答えました。
視界が光にさらされ身じろいだものの、それが日の輝きによるものだと分かるとぱっと見開きます。
そこはクェイルと別れたところで、天使に介抱されているところでした。
「っ!」
――なに? この感じは?
大切なものを失った時みたいに、ネオルクは訳も分からずわき起こる悲しみに胸を押さえて堪えました。目を閉じたらせり上がった涙が零れてしまいそうです。
「ネオルク?」
覗き込んでくるクェイルの、さらさらとしたピンクの髪が頬に触れます。それはくすぐったくて、この理由の分からない悲しみを癒してくれるものでした。
「僕、どうしたの?」
「……調べ終わって戻ってきたら、ここに倒れていた」
変な感じでした。どうとは言えないが違和感がしたのです。それでも更なる心配をかけたくはありません。
「そう。ありがとう、クェイル。もう大丈夫だよ」
変な夢を見て泣きたくなるほど悲しいなんて、子どもだと思われたくはなかったのです。自力で立ち上がり、「ほら」と笑って見せました。
「良かった。日に当てられたのかもしれない。この先に井戸があるから、少し水でも飲んだ方が良い」
クェイルは何も聞きませんでした。ただ手を引いて、井戸があるらしい方向へ連れていってくれました。
僕は確か、クェイルに黙ってあの家に入って、人の気配がして、ドアを開いたら……。
「痛っ!」
それ以上を思い出そうとしたら突然激しい痛みが頭に走りました。針で刺されるような、細くて幾重にも重なる痛みです。
「ネオルク!?」
頭を押さえてうずくまろうとしたネオルクを、クェイルが抱き留めます。えっと思ったのも束の間、鼓動が密着したところから伝わってきました。
不思議と、痛みが嘘みたいに引いていきます。トクン、と一つ跳ねる度にそれはどんどん薄れていって、しまいには何事もなかったかのように元に戻りました。
安らぎを与える、まさに“天使の癒し”でした。旅をしてきて、こんなに近くにクェイルという存在を感じたことがあったでしょうか。
「あの、ちょっと頭が痛かっただけだから」
「……」
「本当。だから、もう離して……」
このちょっとしたハプニングにびっくりしていたのはネオルクだけではありません。
痛々しい姿を見て、天使の本能でも発現したのか、思わず抱きしめてしまったクェイル自身も動揺を隠せないようでした。