第十五話 ひとけのない村
一足飛びに崖を越え、なだらかな下り坂が村へと続く道だと確信したあたりでクェイルは顔をしかめて立ち止まりました。
あたりは花咲くのどかな小道で、ネオルクは始めそんな天使の様子に注意がいきませんでした。
ちらちらと今までは気を使いながら歩いていましたが、目的地がはっきりと目に入ってからはそちらに意識が向いていたのです。
2・3歩進んで、後ろのクェイルの呼吸が遠退いたことに気付きました。
血の気が引く感触を覚え、慌てて振り返ります。もう見失うのは嫌でした。だから、そこにちゃんと「いる」のを見てほっと息をつきます。
しかしそれも束の間。表情の暗さを目に留め、安堵に影が射しました。
「どうしたの?」
「あの村は行かない方がいい」
心に警戒が生まれます。さすがにここまで来た経験から、「恐れ」と「用心」の区別くらいは出来るようになっていました。
「理由を聞いても?」
クェイルはいたずらに怖がらせることは言いません。怖いと思うのは自分であって、結果です。天使は忠告をしてくれているに過ぎないのです。
ネオルクは選ぶように紡ぎ、無言の頷きに体の緊張を解きました。
「……血の匂いがする」
「えっ!?」
ネオルクが改めて嗅いでみても、やはり何も匂いません。
村からはまだかなり離れており、視界にようやく入ってきたところです。天使の五感の鋭さは知りつつ、こんなに差が出るものかと思いました。
「それも酷い。……いや、微かか? よく分からない」
「どうするの? 食料だって買わないといけないし、それに」
「確かに、このまま放っておく訳にもいかないな」
血臭のする村。やっと見つけた村が憩いの場所ではないなんて、どっと疲れを感じます。
体力が付いたと言っても、ずっと歩き詰めだったことに変わりはありません。そんな体に鞭打ち、気持ちをなんとか奮い立たせました。
「とにかく、行って調べて見ようよ」
重々しくクェイルも頷きました。
粗末な門まで行っても無駄だろうと、二人は横からお邪魔することにしました。
人気は感じろという方が難しい、そこまでに生気のない村です。本当に小さく、ネオルクの故郷よりもずっとひっそりとしていました。
村をぐるりと囲む木の柵も、跨げば通れる高さです。
家々は木材で造られ、窓にはどれも厚いカーテンが引かれていました。本当ならもっと暖かい場所でしょうに、その厚い布はまるで外と中とを完全に遮る心の壁です。
つい最近、捨てられてしまったのでしょうか? しばらく歩いて、門のそばにある家に近づこうとしたクェイルが立ち止まりました。
「クェイル、大丈夫?」
慌てて歩み寄り前に回り顔色をうかがいます。小刻みに発せられる呼吸音を感じながら覗き込みました。
「いや」
それにしては随分と血の気が引いています。ここに入る前よりずっと酷いようです。声にもいつものような覇気がなく、肌は湿っているようでした。
せめて苦しみを分かち合えたなら、自分にも出来ることがあるかもしれないのに。
「ここにじっとしていて、中を見てくるから」
「だ、だめだよ、僕も行く」
何を言い出すのかと、彼は驚き慌てました。こんな状態のクェイルを一人で行かせることなど出来るわけがありません。
そのうちに倒れるかもしれないほど、辛そうに見えるのです。
それに、また離れるのは嫌でした。天使もそれを分かっているはずです。しかし首は横に振られました。
「どうしても、ネオルクにはここに居て欲しい」
ゆっくりと、確実に知らしめ納得させるような言い方にどきりとしました。
何故なのか初めは分かりませんでしたが、衝撃が和らぎ、クェイルが家の中に入っていくのを見送っていた時に答えが胸へと降りてきます。
「……『欲しい』って言ったから?」
少し違う気もするけれど、それはクェイル本人の望みを示す言葉でした。
ここに来るまでそれなり会話をしたものの、向こうから何かを求める言動は、個を感じる言葉はほとんどなかったのです。
「なんだろ、何か――」
その先を言うのははばかられました。今まで不自然なほどに感じなかった違和感が頭の隅をかすめていきました。
ドアには鍵がかかっていなかったのか、すんなり入れたようでした。
あとはただただ音のない世界です。あるとすれば、建物のきしむ音が耳をくすぐり、家々の隙間を通る風に何度か髪をもてあそばれたことくらいでした。
「まだかなぁ」
ずっと立ったまま居るのも、何とも手持ちぶさたで居心地が悪いものです。考え事をしてもどんどん暗くなるばかりで良いこともありません。
いつの間にか無意識に「早く帰ってこないかな」と口をついて出ている程に、ほんの少しの時間が長く感じられました。
それにしても何故一人で行ったのかが気になります。血の匂いがすると言っていました。もしかして、中では恐ろしい事件でも起こっているのでしょうか?
居ても立っても居られなくなってきました。同じ所を行ったり来たり、考えばかりが先へ先へ進んでしまい、どうにも止まりません。
「うん、やっぱり行こう。今度こそ、僕も何かの役に立つかもしれないし」
「ネオルク」
やっと決心が付き、立ち止まって足先を家に向けた、まさに同じタイミングでした。行くときと同じ口調で名前を呼ぶ声と共に、天使が家から出てきたのです。
なんとも拍子抜けする体験に、彼はすぐに返事も出来ませんでした。
「? 何かあった?」
「う、ううん。なんでもない。で、どうだった?」
「……」
「何があったの?」
予想に反して静かな空気が流れます。もしかして聞いではけなかったのでしょうか。気まずさを読みとり体が強張ります。
決して人と接するのが怖くなったわけではなく、感情を面にあまり出さないクェイルと一緒にいると、ちょっとした空気の変化にも敏感になってくるのです。
でないと、今にも消えてしまいそうだからかもしれません。
いえ、それにしても今回は何かが違います。天使の纏う「気」に変化が起きているのが分かりました。
とりあえず歩き始めた背中を追って歩き出します。
何かあったんだ、僕に言えない何かが。だから困って、黙ってるんだ。
深刻な表情には、理由は分からないけれども「疲れ」と呼べるものが消え失せ、代わりに別の重い負荷がかかっています。
一度だけ振り返った瞬間、窓の向こうに何かを見た気がしました。
「濃くなる」
「えっ」
二人が足を止めたのは村の一番奥、最も大きい屋敷の前でした。他の家とは明らかに違う荘厳な建物は、まさしく二人の前に「立ちふさがって」います。
存在そのものがここを越えなければ先に進むことは叶わないと告げていました。
「『濃くなる』って、もしかして……血の匂い?」
「平気か」
「うん。変な感じはするけど」
こんなに空気中を漂い、鼻孔を刺激しているのに。
クェイルはまた「人間」を知った気がしていました。知識としては分かっていたはずの事実も実際に目の当たりにするとかなり印象が違うものです。
あえて訂正するならば、血臭ではなく――と言うところか。
「大丈夫? 中に入るつもりなら今度は僕が」
「いや。ネオルクだけを危険なところへ向かわせるわけにはいかない」
天使は言葉を噛みしめるように発しました。声は重々しいのに加え、どこか痛々しくもあります。聞いている方が胸が詰まりそうでした。
「それに、ネオルクのそばにいるだけでも私は恩恵を受けているから」
「え?」
聞き逃してしまいそうな程小さな声でした。
聞き逃してはならない一言でした。
「うん、ありがとう」
今度はその科白にキョトンとしているクェイルが居ました。