第十四話 自由のかたち
「さ、手を出して」
「うん」
目蓋を擦り、声に応えます。
ずっと二人を見守っていたウィンが、軽く笑って少年を誘いました。精霊自身も外見上は子どもにしか見えないのに、明らかに幾年月を越えてきた空気を纏っています。
さやさやと柔らかい風が傷ついた体を優しく撫でていきました。通り過ぎるとまるで痛みが消えていくようです。改めて向き合い、ゆるゆると右手を差し出しました。
「……怖い? 力を手にすることが」
あ、と声が口をついて出ます。不安の正体を掴んだ気がしました。
クェイルに対して色々と考えてしまう原因の一つは、精霊と心を通わせることで与えられる力にあったのです。
「僕、力をもらうことが怖い」
言葉に出してみて更に気持ちはハッキリしました。
「クェイルに助けてもらっている間は無力がとても嫌だったけど、こうして力を手にしていっても……うまく使えないような、助けにならないような気がして」
「ネオルク……」
天使が何か言いかけたのを遮って続けます。
「力って、誰かを助けるためにあるって分かってるけど、壊すこともできるから」
大切なものを壊してしまう力ならない方が良い、そう言って、出しかけた手をウィンのそれと結ぶのを躊躇いました。
その時、冷えた手にふわりと暖かいものが触れました。
「?」
「天使は、私たちは契約者を守るためだけにいるのではない。……契約者からこの世界を守るためにも存在している」
「この世界を?」
「だから安心して受け取って欲しい」
呪文のように言葉が胸に染み込んでいきました。声だけではない、仕草も表情も何もかもが一つの儀式みたいに感じられます。
「……うん」
ふっ、と風が止みました。気付けば体中に走る傷跡が風と一緒にかき消えています。
「この森の持つ癒しの力を風に乗せたんだ、どう?」
ウィンがこちらを覗き込んできます。彼の言うとおり、もうどこも痛くはありませんでした。
「君にも使えるようになるよ。水と併用すればもっと効果は上がるから」
まじまじと傷のあった場所を眺め、確かめます。怪我を治す力があることはネオルクにとって衝撃でした。
守ったり、壊したりするだけではないのだと。
「ありがとう、もう怖くないよ」
改めてウィンの手を握り、目を閉じました。風が向こうの方から、心の彼方から吹いてくるのが分かります。
暗い空間に光が届けられるように、じょじょに降り積もる感覚がしました。今まで見られなかった部分が鮮明になるのと似ています。
「風はいつでもネオルクのそばにいる。……それを取って」
溢れそうになる何かの流れを体中で受け止めました。柔らかくて暖かい光そのものです。重さは全くないのに、そこに「ある」と感じられました。
何かはネオルクの中に既に存在した別の力と解け合って混ざり合い、やがて一つになりました。色々な感情を含んだ息が軽く吐き出されます。
彼は自由の形を手に入れたのです。
森を抜け、次に現れるだろう光景を想像しては笑みが零れます。
生まれ育った故郷からずいぶんと離れてきた割に、不思議と郷愁には襲われなくなっています。
実感が伴う変化は彼の中に何かを芽生えさせていました。
「……ふぅ」
ここに至るまでの坂道は体力が上がってきていることも関係して、思ったより簡単に登りきることが出来ました。
水の音がどんどん近くなってる。
自然を前よりも身近に感じられるようになったことを感じます。
クェイルに訊ねてみると理由は簡単で、手に入れた力の影響のようでした。精霊の気を身に纏うとは、こういうことなのだそうです。
そんな真新しい感覚に触れて様々な表情を見せるネオルクを、後ろを行く天使は静かに観察していました。
私の方も真新しいのは変わらない――。
途中、ふいに森の息の流れが変わりました。
「え」と小さく発せられる驚きは前を歩く少年のもので、見た物に対して本当に呆気にとられている様子です。
木々に阻まれて分かりませんでしたが、少し進むとそこは切り立った崖でした。唐突に大地が割れ、数メートル向こうへその続きがあったのです。
「待って」
私が、気が付かなかった?
軽い動揺が走ります。ここがどういった地形なのか分かっていたはずでした。そうでなくとも、こういった状況くらい予測できたはずです。
「……」
制止を遠くの方で聞きながら、ネオルクは真下を見たことを後悔していました。すっかり自分が高いところが苦手だったことを忘れてしまっていたのです。
眼下に広がる、怒濤のごとく流れる川との間には、恐ろしいほどの高低差がありました。川の中に小さく見える影は、どこからか流されてきた巨木のようです。
瞬間、目眩と共に恐怖が胸を支配しました。こんな高さから落ちたら……そう思っている内に、足は宙を踏んでいました。
「ネオルクっ!」
痛みを堪えるように硬く瞑った瞳。隅の方で目まぐるしく未来への予想が行われます。
しかし、そのどれもが実現することはなく、着地感を覚えないことにも気付きました。
「大丈夫だ」
「え?」
声に驚き、再び目を開いてみると、風景はいくらか下がったのみでそこに在りました。何が起きたのでしょう?
「僕、浮いてる?」
落下することも、天使に助けられたのでもありません。ならば得られる結論はこれだけ――自分の力で空中に止まっているのです。
絶壁にカラカラと流れる欠片は、時が止まったわけではないことを教えていました。
「風の力を早速モノにしたようだ」
「風の……」
言葉に従って、深呼吸したときのように肌を取り巻く流れを感じます。これがウィンと契約を交わした成果なのでしょう。
「怖い?」
優しく問いかけられる声は、「恐れ」を忘れかけていた自分を驚かせるのに十分なトーンでした。
完全にではないにしても、あれほど目の眩んだ景色を全く違ったものとして認識しています。ふわふわと足下に風が床を作ってくれていました。
「結構、平気。ここは下まで光が届いているから」
そんな状況を楽しむ余裕さえ持ちながら、頭の別の部分では他の思考も進んでいきます。
「闇が怖い?」
どきり。少しだけ間をおいてネオルクは小さく頷きました。落ちると言うことは、闇へと向かうことです。
視界が開けていれば察知できますが、暗闇では叶いません。何が起こるか分からない、見えないものへの不安には人は打ち勝てない。そう、固く信じていました。
それなのにクェイルは笑ったまま言うのです。
「決して敵ではない。……風を読める?」
「え? あ、うん」
もっと知りたくて、どういうことなのか詳しく聞こうとしかけた矢先、クェイルは別の話題を切り出しました。確かに、ずっとこのままではいられないことも事実です。
「流れを感じて、念じれば応えてくれるはずだから」
「風の流れを……」
慣れない感覚に必至で適応しようとネオルクは再び目を閉じました。もっとも、今度は緩く、怖がるものもありません。
やがてすうっと、視界に白い布のような何かが現れました。
「それが風の流れだ」
クェイルにも同じ物が見えているのか、タイミング良く声をかけてくれます。光の布を掴むために手を伸ばせば、応えるように体が前へ移動しました。
一歩を踏み出せば、あとは掴んだばかりのカンのまま、自由に風を操ることが出来ます。ふわふわと確固たる物のない世界、それが空なのです。
上へ飛んで、途中でクェイルの手をさらっていきます。かなり上昇したところで大地の果てとも思える場所が見えました。
「村だ」
森に囲まれた、小さな村が眼下にありました。