第十一話 心のうつろい
出口は入り口と反対の方角にありました。
こんなに朝早く町を出る人も珍しいのでしょう、門番は不審な表情をしましたが、入る時同様に出るのも簡単でした。
通りからは坂が、そして頂上には城か館のような大きな建物が見えます。きっと、町をおさめる領主が住んでいるのです。
ネオルクはちらりと見ただけで、目線を真っ直ぐに戻して左に折れました。
前を行くクェイルの歩幅は大きくて、ちょっとよそ見をした拍子に遅れてしまうのです。できるだけ迷惑や心配はかけたくありません。
塀の外に人影はなく、そろそろ昇ろうかという朝日が行く先に眩しく煌めきました。森を抜けた歩道がこちら側にも続いていて、迷うことはなさそうです。
こんな清々しいのは、いつぶりでしょうか。
「疲れはとれた?」
「うん、完全じゃないけど。この道を真っ直ぐ行くんだよね?」
長時間寝たのは効果があったようです。歩きながら、んん、と伸びをして固まった筋肉をほぐしました。
「この先の分かれ道までは」
視界の向こう、両側に広がる森林地帯を見やりながら進みます。そうこうしているうちにもその「分かれ道」が目の前に現れました。
すでに町は彼方に消え、両脇に茂る木々は幅を狭めてきます。始めは遠くに見えているだけだったのに、もう目と鼻の距離にありました。
分かれ道はそれぞれ全く違う方向に伸びているようです。右は鬱蒼とした森の中へ進む獣道、左も森には入りますが日が注いで見えます。
「どっち?」
「ネオルクはどちらがいい?」
「えっ? うーん、左がいいかな」
「なら、そうしよう」
どういう意味でしょう。もしかして、クェイルは「右」と言って欲しかったのでしょうか? 勇気を示して欲しかったのでは?
そう考えると、憂いを帯びた瞳に心を見透かされたようで心が苦くなりました。歩み出す背中をほんのしばらく見送ってから、我に返ります。
「待って。もしかして右じゃなかったの?」
「どちらでも同じだ」
「同じ?」
「この道は途中でまた合流してる、右はひたすら森の中だ、左は……」
ほら、やっぱり。彼は肩を落として俯きます。きっと、自分で考えて、きちんと答えを出して欲しかったのです。それなのに。
淡々と語るクェイルの声までが自分を責める口調に聞こえました。胸に痛みを覚えて、彼は無意識に外界の音を遮断します。
たったこれだけのことで取れたはずの疲れが戻ってくるようでした。
森はずっと日光を足下に投げかけており、町の反対側とはかなり違う性質の森林に思えます。
空気にわずかに湿気を帯びているのか、のどに渇きを覚えることもなければ全身に汗をかく不快感を味わうこともありません。
歩くのが楽だと気が付くまでに時間はかかりませんでした。
「ここ、居心地がいいな」
「そう? 良かった」
涼しい風、それに乗る美しい鳥。舞う羽音……。
沈みかけた気持ちが浮き上がってきます。次いで耳には音が戻ってきました。
何やら思い違いをしていたらしいと気付きます。森は怖くて忌むべきところだと思っていたのに、ここは全く違う世界です。
例えるなら、まるで小さな頃に空想した「妖精が棲む場所」のよう。その心にふわりと舞い降りる、記憶の中の声がありました。
――闇の世界。
夜をさしてクェイルが言った言葉です。昼間は光の者の世界ですが、夜には闇の世界になる恐ろしい森の話です。この森にはそんな雰囲気がありません。
光が全体を包んでいて、その光は心を満たしていきました。つられて何かが記憶をかすめます。それは天使の微笑みに似た感覚でした。
「……」
突然、先ほどの気持ちの変化はただの思いこみに過ぎなかったのだろうかと思いました。
深く考えすぎてしまっただけで、クェイルは「勇気を示す」ことなんて求めていなくて、本当に言ったとおりの意味だけだったとしたら。
森に対する思いこみと同じで、自分で勝手に悩み、沈んで、天使の言葉を拒んでしまっていたのだとしたら。
ふっと違和感が身を包みました。正体が分かってから改めて感じる「恐ろしさ」のようなものです。そうして、間をおいて「それ」は襲ってきました。
「……!」
表現するとしたら、後悔の念とでも言うのでしょうか。胸が鳴り始めます。立て続けに不安がわき起こりました。
森は何も変わりません。しかし確実に何かが変わったのです。
「そうだ、僕はクェイルの背中をずっと眺めていたはずなのに、いつの間に抜いちゃったんだろう?」
背中を走る衝動に身を任せて彼は振り返り――驚きで声を失いました。
そこにあるのは延々と歩いてきた道です。
ここに来るまでに道らしき部分はどんどん細くなってしまった上に、くねくねと曲がりくねったせいで向こうは全く分かりません。
もちろん彼が驚いたのはそんなことではなく、あるはずのものがその風景に見いだせなかったからでした。
「クェイル!?」
ざぁっ! 突如として起こった、下から巻き上がるような強烈な風に足をすくわれます。
「うわっ」
転びそうになる視界の中にも探し人の影はありません。一体いつはぐれてしまったのでしょう?
もしかして、置き去りに……。
そこまで考えて、やめました。地面に尻餅を付いたせいもあれば、頭に浮かべてさえいけない思いだったからです。
痛くて俯いたまま、吐き出したい気持ちを押さえつけると、うめき声が漏れました。
同時に、自分に「クェイルがそんなことするはずない」と言い聞かせます。
天使を疑うなんて。きっとどこかで別れ別れになってしまったのです。気が付かないうちに道を外れて――。
「本当に?」
反射的にびくっと体を震わせました。ネオルクは立ち上がるのも忘れて、思わずキョロキョロと辺りを見回します。
眩しい日差しに目を細め、やがては視線を落として手を冷たい土に置きました。
「こんなところに誰かいるわけない、よね」
とにかく探そう、きっとそばにいるはず。そう考えて立ち上がりました。ぱたぱたと砂を払い落として、ほんの少し服が湿っていることに気が付きます。
地面は茶色い土と、苔らしい緑の部分が境界線もおぼろに入り交じっています。道のすぐ隣は高く鋭い草が生え木々の茂る林の中でした。
クェイルがあえて林に分け入ることはないでしょうから、この道にいれば大丈夫。迷うことはありません。そう安心して、ふうと息を吐きました。
「信じてるんだ?」
「!!」
やっと落ち着きかけた心臓が、弾かれたようにどきりと鳴ります。
たった一人で見知らぬ場所にいる心細さと、見知らぬ誰かへの恐ろしさがわき起こって足が竦みます。
空耳じゃ、ない?
胸の中で言い終えてから息を飲み込みました。まるで吐いたばかりの息と一緒に弱い心までも吸ってしまったみたいです。
それから意を決し、どこともつかない方へ恐る恐る声を投げかけました。
「誰?どこにいるの?」
「ここにいるさ」
高い、よく通る声。
ざわざわという森が発する音に紛れず、しかし木々に反響して森自体が喋っているようにも聞こえます。いえ、逆に耳元で囁いているようにも思えました。