第一話 青いひとみ
森の中にある動物の集まり場。
湖の水面に鮮やかに映るのは一人の子どもの姿です。
「本当にいいの? 戻れなくなるんだよ」
「もう決めたの」
なおも止めようと説得するのを、声がさっと遮りました。
決意を込めた瞳の少女は優しく笑って、両手を差し出します。
小さな白い手。その掌で、途方もなく重いものを掴み、抱えようとしていました。
「何かしたいの。――のために」
不安は隠しきれず、唇が震えています。
「分かった」
ゆっくりと頷いてみせた彼女の髪が風に揺れ、空気は空へと吹き抜けます。
「ありがとう」
「でも、一つだけ約束して。絶対、帰ってくるって」
水面はまだ穏やかさを保っていました。
◇◇◇
少年は何かから逃げていました。
息を荒くして走っていました――真っ暗な中を。
闇が広がるその場所には、右も左も上も下もありません。
感じるのは、足の裏に伝わる地面の硬さだけ。目を凝らしても視界は目の前すら開けず、ひたすらに孤独でした。
「ここ、どこ? みんなは?」
彼の問いはむなしく闇に飲まれるだけです。泣いても喚いても、誰もそこにはいないのですから。――ところが。
『……ク』
何かが耳を貫きました。咄嗟に立ち止まって耳を澄ましてみると、
『……ル……』
また聞こえます。声です。それも聞き覚えのない、男とも女ともつかない誰かの声。少年に聞き覚えはありませんでした。
「だれ? 誰なの!?」
『ネオルク』
今度は声が彼の名をはっきりと呼びました。
「……?」
鳥の囀りが聞こえ、目は光を捉えます。カーテンの隙間からこぼれる朝日でした。体を起こしてみると、そこは自分の部屋の、ベッドの上です。
母親が洗ってくれたシーツも、壁にかかる父親が買ってくれた皮鞄も、昨夜眠った時と何一つ変わりません。
「ユメ?」
あれほど現実らしい幻が存在するのだろうかと少年――ネオルクは思います。けれど、確かにあれは夢でした。
「ネオルクー、早く起きていらっしゃい」
「あっ、はーい」
キッチンの方から母親が呼ぶ声がして現実に引き戻されました。妙な夢が抱かせる不安を吹き飛ばす、明るい調子にほっとします。
彼は10歳の誕生日の朝を迎えていました。黒い短髪に青い瞳、どちらも両親から受け継いだ物です。
「どうしていつも僕を呼ぶんだろ……」
前にも、それも何度も似たような夢を見たことがあるのを思い出しました。ベッドから出て、覚め切っていない頭をすっきりさせるために裏手へ向かいます。
水瓶には澄んだ水がなみなみと溜められていて、それを小さい容器に移すと、自分の顔を水面に映してしばらくの間黙っていました。
「つめた」
ぱしゃっ。水で顔を洗います。凍るほどではありませんが、冬も終わろうとしている時期とはいえ水はまだ冷たく、掬った手を軽く麻痺させました。
その時です。どこかで誰かの気配がしたのです。
『ネオルク』
びくりと肩が震えました。あの声、夢の中の声が自分を呼んでいます。今は現実のはずなのに?
「誰? どうして僕を呼ぶの?」
『ネオルク、よんで……』
「呼ぶ? 呼ぶって、誰を?」
そこで声は遠ざかり、気配も消えてしまいました。ネオルクはしばらく突っ立って、その言葉を繰り返します。
それも食卓から立ち上る良い香りが漂ってくるまでのことでしたが、朝食の席についても、頭は聞こえてくる声のことでいっぱいでした。
「おはよう、ネオルク。……十歳のお誕生日、おめでとう」
黒髪を後ろで束ねた母親は、近所でも美人の若奥様と評判です。エプロン姿で家事をしていても、とてもこんな大きな子どもがいるようには見えません。
「あ、ありがとう」
ネオルクは気恥ずかしげに礼を言って、上気する頬を隠すようにミルクのカップを口に運びました。
ふいに呟いて窓から庭へ目をやります。母親が趣味と実益を兼ねて育てている花や野菜が色とりどりに咲いたり実ったりしていて、命が輝きを競っているかのようです。
「……」
『ネオルク』
再びびくり、と肩が震え、あたりをきょろきょろと見回しましたが、やはり何も変わったところはありません。
「どうしたの?」
母親がきょとんとした表情でネオルクを見ていました。やはり彼女の耳には届いていないのです。
「な、なんでもないよ」
気のせいでしょうか。そうでなければ、どうして自分を呼ぶのでしょう。
『ネオルク……呼んで……』
またです。それも、頭の中に直接響いてくるみたいです。
「……ク、ネオルク!」
母親の声に弾かれて気づくと、父親までが、怪訝な顔つきで息子を見ていました。父親は母親より頭一つ分背が高く、本好きで物知りな人です。
「どうしたんだ。せっかくの誕生日なのに朝からボーっとして……」
「あ、あれ? 僕、寝ぼけてた?」
ネオルクは嘘をつきました。心配そうにしている両親に「知らない人の声がする」などと言えるわけもありません。
心配性の両親には、病気だと思われて医者を呼ばれるだけです。
「行ってきまーす」
せっかくのお祝いの日に心配をかけるわけにはいかないと、努めて元気に振る舞って、そそくさと遊びに出かけました。
ネオルクが住んでいるこの町は周辺の村に比べると大きく、交通の要所でもあることから他の町からの人や物の流通も激しいところです。
馬車がひっきりなしに行きかう通りには、大人に交じって走り回る子ども達の姿が絶えずありました。
「ネオルクーっ」
「あ、フィーナ」
両手をいっぱいに振って合図してくるのは、幼馴染みのフィーナでした。長く伸びた青い髪と緑の瞳が印象的な女の子で、ネオルクのことを良く分かってくれる友達です。
「フィーナ、こっちこっち!」
この町の子どもは奔放に育ちます。朝から夕方近くまで、悪いことや危険なことをしない限りは文句も言われずに遊んでいられるのです。
ネオルクの家は他よりも躾にうるさい面もありましたが、本人は別にこれと言って変わったところもない普通の家庭だと思っていました。
「でさっ、そしたらあの子がね……」
「ええ、そうなんだ?」
フィーナとお喋りをしつつ、友人達の元へと急ぎます。息を切らして走ったこの日がこんなにも大切な一日になるだなんて、まだ彼は知りませんでした。
外伝の開始です。よろしくお願いします。