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さよなら、シーラカンス

作者: 人野かどで

 もう、部屋は片付いた。まるで他人の部屋のようで、今夜もこの部屋で眠ることに少し抵抗を覚える。ベッドのシーツに、一つもしわをつけてはいけないのではないかと、緊張する。散らかっていたクローゼットの中は最低限度の服が納められているだけで、小物がたくさんあった棚の上にはもう何も置かれていない。

 私は誰に言われるでもなく部屋から出た。

 階段を降りて、リビングへ入った。母がキッチンに立ってせわしく腕を動かしている。手元を見なくても、音だけでキャベツを千切りにしているのだとすぐわかった。母はこんなに軽やかに千切りをこなすのに、私が切ると母のように速く包丁が動かせず、ざくりざくりと重たく動く。

「どうしたの? のど渇いた?」

 母が私を見て尋ねてくる。私は大丈夫とだけ答えて、部屋を見回した。

 ここは、私の家だ。産まれてからずっとここが住む場所だった。帰れば母がいて、待っていれば父が後から帰ってくる。リビングの様子はずっと変わらない。変わらないのは、母がずっと手入れをしてくれていたからだろうか。

 この家は、これから先もずっと、私が帰る場所になり続けてくれるだろうか……。私は不安に駆られながらも玄関に向かった。後ろから母の送り出す声が聞こえる。それに軽く応えてから靴を履いた。


 空にオレンジ色が溶け始めた頃、私はやけにゆったりとした歩みで玄関を出た。二、三歩進んでから振り返ると、小さい頃から変わらぬ二階建ての家がある。ベランダに張り付いたツバメの巣に、いつも家に帰ると目がとまった。今は小鳥の声が聞こえない。

 綺麗に並んだ家々に挟まれた道を抜けていく。外灯も灯っていない道路は、空のオレンジで少し鮮やかに彩られている。左右に見える家たちは密かに呼吸をしているようで、私は彼らに見送られながら堂々と歩いていった。

 かすかな向かい風でさえ、私を歓迎してくれているように感じる。友人に言われて長く伸ばすようにした髪が優しく揺れる。この向かい風を邪魔に感じて、切り裂くように走ったこともあったっけ。あのときの向かい風は、私を落ち着かせようとしていたのかな。

 私はもうすぐ、この町から離れてしまう。私にとって故郷となるこの町が、どのような姿であるかもう一度見ようと思って、私は観光者の気分になって歩いた。


 私が産まれてから二十年以上、この町はその姿を変えることなくいてくれた。子供の頃友達と行った駄菓子屋さんも、小さな学校も、ずっと変わらずここにあった。

 近所にある小さな公園には、まだ子供たちが遊んでいた。たいした遊具も無い寂しげな公園だが、人が集まって遊んでいるのを見ると、豊かな公園だなと感じることもある。ここで遊んでいたのは今から何年前だろう? あの頃はまだスマートホンなんて無かったんだよね。変わっていく世間だけれど、私がたどった子供時代を、同じようにたどっている子供たちがいる。私が駆け回った公園を、今も誰かが駆け回っている。私が登った木に、今日も誰かが登っている。

 公園の横を通り過ぎて、後ろから聞こえてくる賑やかな声を聞く。子供を迎えに来たのであろうお母さんたちが、塾の話なんかをしながら私の横を歩いて行った。

 私が一歩歩くたびに、景色は移りゆく。しかし、この町には変わらずにいてほしいものがたくさんあった。

 私が遠くに行っても、この町は変わらずにいてくれるだろうか。風が運んでくる緑の香りはずっとそのままだろうか。


――私はずいぶん、変わってしまったけれど。


 さほど遠くない山々に沈んでいく太陽の光がだんだん細くなってきて、辺りの家々に明かりが灯り始めた。歩いてきた道を振り返って、物思いにふけった時間が長かったことに気づく。

 ずいぶん歩いてしまったようだ。家に帰り着く頃には日は沈みきってしまうだろう。

 仕方なく来た道を戻ろうとしたとき、私の視界の端にアンティークな見た目をした建物が入り込んできた。町の様相とは全く異なる外見で、遠くから見てもかなり目立つ。まだ明かりはついているようだった。

 私はそのお店の異質感に惹かれ、帰ろうとしていたことも忘れて、まっすぐにその建物に向かった。

 古くさいレンガ造りの建物だった。大きな入り口には四角い板の看板が立てかけられているが、もう建物の名前さえ、かすれて読めたものではなかった。窓は拭いていないのか、店内の景色が見えないほどに雨の跡が残っている。窓から不気味な大きい魚が目をこちらに向けていた。目を合わせたとき、私は十年ぶりに親友と会ったような気持ちになった。

 住宅街とは少し離れた場所に堂々とふんぞり返っているこの建物は雑貨屋だ。人通りの少なそうな場所ではあるが、時間をもてあました人たちがこぞって訪れる場所でもあった。私はその玄関に立てかけてある看板に触れて、かすかに見える丸いアルファベットの文字列を指でなぞった。私は、このお店の名前を知っている……。


 小さい頃、お母さんに連れられてこのお店に入った。外装の整った厳かな印象とは違って、片付けが苦手な子供のおもちゃ箱のような内装。なんとか種類ごとに分けられているものの、一つ持ち上げるとすべて崩れてしまいそうなごちゃごちゃ具合だった。

 お店を見回すと、見たこともない魚の標本、両手じゃないと持ち上げられそうにないくらい大きい書物、きらきらしたアクセサリーがあった。

 お母さんはお店に入るとアクセサリーを少し見ていたが、すぐに顔をしかめて顔をそらした。後から聞いた話だが、飾り方が好きじゃなかったらしい。

 私はお母さんのロングスカートにしがみついて離れなかった。魚たちのギョロギョロした目がこっちを向いてきそうで怖かったからである。特に、窓の向こう側を見つめているひときわ大きい魚。お母さんがアクセサリーを見ている間も私は魚たちから目が離せなかった。あの口で噛まれたら痛そうだとか、あの背びれに触ったら切り傷ができそうだとか、嫌なことばかり考えていた気がする。

 しばらくそうしてお母さんにぴったりひっついていた。すると、泣き叫びたくなるくらい怯えていた私の肩に、後ろから大きくて温かい手が置かれた。


――いらっしゃい。


 しわがれた声だった。突然のことだったのに、驚きが全くなかったことを覚えている。

 声がしたのは自分の頭の上からだった。私が振り向くと、腰が大きく曲がっていて、ボーボーに生えた白髭が特徴的なおじいさんが立っていた。

 お母さんも驚くことなく挨拶を返していた。少しの間、二人がお店の内装についてお話をしていた一方、私はおじいさんをずっと見つめていた。

 おじいさんはそんな私を見ると、力の無い笑みを浮かべた。


――こんなところに来てくれて、ありがとうね。


 おじいさんはそう言っていたと思う。少しその声は寂しそうに聞こえた。おじいさんはそう言うと、黙って私の頭に手を置いて優しく撫でた。私は不思議に思いながらおじいさんを見ていた。なんでそんなに寂しそうなのだろう。

 私の頭から手を離すと、おじいさんはすぐ踵を返してお店のカウンターへ歩いて行った。私はその様子をずっと見つめていた。するとお母さんが私の肩を優しくたたいて、帰るわよ、と言った。

 私はお母さんに連れられるままにお店を出て行った。お店を出る前、私はおじいさんを振り返ってみたが、おじいさんはこちらを見ようとはしていなかった。ただただ丸まった背中がカウンターの向こう側に見えた。

 お店に入ったときよりも、扉は大きな音を立てて閉じた気がした。お店の中に漂う、おじいさんのにおいを残して。


 思えばあのときは今よりもずいぶん綺麗な外装をしていたなと思う。今目の前に佇むこのお店は、まるで廃墟のようにボロボロだ。年季が入っていることがよくわかる見た目をしている。私には管理がうまく行われていないようにも見えた。窓は長らく拭かれていないのがわかるくらい汚れているし、看板だって修理できるだろうに。お店の周りには雑草が生えていたり、側面には蔦が絡みついていたりして、人が中にいるとはとても思えない見た目をしている。


 あのおじいさんは、今もこのお店の中にいるのだろうか。

 あのときお母さんと行ったきり、このお店には一度も入っていない。小学校に通うときも、中学校に通うときも、このお店の近くを通っていたと思うのだが……。寂しいことに、私はそのお店にはどんなものが売っていて、どんな人が経営しているのかなんて、記憶の隅に追いやってしまっていた。

 毎日を新鮮に感じることができていた私の学生時代は、かえってこのお店の記憶を古いものにしてしまっていた。


 私は、重そうなそのお店の扉に手をかけた。あのときは、お母さんが開けた扉。今日は私が自分から開けようとしている。

 おじいさんに会ったらなんて言おうか。覚えてますか、とか?

 そんなの期待してどうするんだ、何年もお店に来ていないのに。


 よし、と一度心を決めて扉にかけた手に力を込める。思ったよりもすごく軽かった。手触りや見た目は明らかに金属なのに。小さい頃の自分でも、もしかしたら開けることができたかもしれない。

 外から見ると電気がついているのはわかったが、実際に中を見てみると少し暗いと思った。照明はきちんとついているのだが、お店の端から端まで光が行き届いているとは言いにくい。

 こんなに暗かったかな、と疑問に重いながら店内を見回していると、カウンターの方から気怠そうな声がした。やけに若い声だった。

「お客さん? お客さんか……」

 カウンターの向こうから私を見ていたのは、あのときのおじいさんではなく、若いおちゃらけた青年だった。おそらく二十代の、大学生だろうか。髪の毛は金髪で、ワックスでちりちりにセットされている。地味なエプロンこそ着けているものの、上着もズボンも柄物で、遠くから見ても目立つだろう。私からすると印象は良くない。

「もう閉店時間近いんで、俺片付けしてますけど、気にしないでくださーい」

 男はそれだけ言うと、重い腰を上げたようで、カウンターの裏から出てきて掃き掃除を始めた。とても丁寧とは言えないやり方で、埃が舞ってしまっている。

 誰もいなくなったカウンターを見ても、おじいさんがいる様子はない。

 もう、いなくなってしまったのだろうか。そう思うと、記憶の中に穴ができたような気がして寂しく感じた。

 私はとっさに、青年に声をかけた。

「あの、」

「……なんすか?」

 青年は掃除の手を止めることもせず、話しかけるなよとでも言いたげな声を出した。青年の気怠げな態度に少し辟易しながらも、私は言葉を続けた。

「ここって、店長さんとか、おじいさんだったりしませんか?」

「ああ、そうすね。少し前までは、そうでしたよ」

 私は引退したおじいさんを想像しながら青年に続けて質問した。

「今はその方、どうされてるんです?」

「亡くなりましたよ。何年か、前に」

 青年は、さも当然というようにそう言う。


 私は背中に電撃が走ったように感じた。思わずうつむいてしまう。

 もう少し前に、このお店のことを思い出していれば、会えたかもしれないのにな……。

「……どうしたんすか」

 青年が私の様子を不審がったのか、ようやくこちらを見て言葉を発した。私も、思ったよりも悲しんでしまっているようだ。特に深い関係でもないおじいさんだけど、おじいさんの寂しさに気づいてあげて、できることがあったんじゃないかと思うと、傲慢ではあるけれど、悔しく感じた。

「なんでも、ないです。大丈夫」

「……そっすか。じいさんと知り合いだったんすか?」

「いえ、そういうわけでも……」

 青年はすごく不思議そうな顔をしたが、そこで会話を辞めて雑な掃除に戻った。


 おじいさんがいないことがわかってお店を出ようとしたが、思えば私はこのお店をじっくり見たことがないと思い直した。小さい頃に行ったときと内装はあまり変わっていない。少し埃っぽくはなっているが、ほとんどがそのままだ。あの、怖かった魚の標本も窓から外をのぞいている。

 私は、店内を回ることにした。

 入り口の一番近くにあるのは、様々な置物。小さなものから大きなものまで、おじいさんの趣味だろうか。動物も植物もあって、一貫性はない品揃えだった。うさぎが団子を食べている手乗りサイズの小さな置物がかわいかった。眠っている猫もいる。ガーベラの花が木彫りで作られているものもあった。

 小さいから見にくいけれど、よく見ると商品一つ一つに名前が書いてある。大きいものには説明書きまで書いてあった。

 陶器の素材で作られた、金色の羽を持つ三十センチくらいの大きなフクロウがいた。特徴的なのは、目が笑っていること。名前はそのままで、「笑うフクロウ」というらしい。印象はとてもいい置物だった。

 しかし、おじいさんによる説明書きがある。


――金の羽を持つこのフクロウは、どこからこんな金をとってきたのでしょうか。このフクロウから感じるのは幸せそのもののような気がしますが、果たして……。


 売る気が無いのか⁉と突っ込みたくなった。思わず頬が緩む。ここには青年と私しかいないから、逆に恥ずかしい。

 おじいさんは、このお店を繁盛させようとしているわけではないのかな。このフクロウはおじいさんにとって、金運を呼ぶフクロウではなく、他人の金で羽を彩る鳥だったのかもしれない。

 なぜこんなものを、お店に置こうと思ったんだろう。


 次に目に入ったのは、大量の書籍だった。でも、何が書いてあるのか私にはわからない。英語とは似ても似つかない言語が表紙などから見え隠れしている。たまに、デカルトとか、アリストテレスとか、見たことがある綴りがあって、少しだけ心が躍る。

 書籍の次には、アクセサリー。お母さんが嫌いな置き方。うん、確かに。お母さん以外の女性も嫌いな人がいるかもしれないと思った。雑に置きすぎて絡まっているネックレス、多すぎて下の方に埋まっているものがあるブレスレットの池、箱に詰め込まれているピアス。おじいさん、女心わかってない。もしかしたらおじいさんの奥さんも苦労したのかもしれないと思って、また笑いそうになる。


 私を横目に、窓の外を見つめ続ける大きな魚がいる。堪らずそちらを見た。こんなに近くで眺めるのは初めてだ。以前家にお母さんが捌く前の魚を買ってきたことがある。それと比べると、やっぱり標本というのは生々しさがあまりなくて、魚が特別好きでない私でも見ていられる。

 外から差し込む光がいつの間にか夕日から外灯の人工的な光になっていることに気づいた。今日は時間を忘れることが多い日だ。そういえば、家への連絡手段を何も持ってきていない。早めに帰らないと。

「その魚、気持ち悪いっすよね。絶対、外から見た人引くと思うんすよ」

 青年がやや遠いところから言う。箒に体重を預けて、魚を見ていた。

「じいさんにいくら言っても、この魚の位置を変えようとしなかったんすよ。何にそんなにこだわってんのか全くわかんねえ。魚はもう死んでるんだから、外なんて見せてどうするんだか……」

 そうか、おじいさんはこの魚に、外を見せようとしていたのか。何を思って?

 おじいさんはもういないから、誰も理由はわからない。私はおじいさんと親しいわけでもないから、その人となりもわからない。

 ふと、その魚の下に、説明書きがあることに気づいた。やけに長文だ。魚の名前は、シーラカンス。


――生きた化石、という文言は聞いたことがあるだろう。学名はラティメリア・カルムナエ。世界のどこかでは、幸せを呼ぶ魚と呼ばれているという。深海に閉じこもってばかりのこいつを、頼んでもいないのに釣り上げてしまった人がいる。


 皮肉めいた言葉を並べるのが好きなんだ、おじいさん。相変わらず全く売る気が無い文言である。

 シーラカンス。ラティメリア・カルムナエ。おじいさんは、この魚に懺悔でもしたかったんだろうか。深海に閉じこもっていたかったこの魚に、外の世界を見せてあげたかったのかな。

 このお店には、シーラカンス以外にもいくつかの標本がある。中には骨だけのものもある。しかし、こんなに長く説明書きが書いてあるのはシーラカンスだけだ。

「私は、このままで良いと思うんです、この魚」

「へ?」

「いいじゃないですか。シーラカンス、きっと外の景色を楽しんでますよ」

 青年は、じいさんみたいなことを言うな、と呟いた。シーラカンスは、表情一つ変えないけれど、きっとおじいさんの思いが届いているんじゃないかと思う。


――深海という故郷から来たシーラカンス。この町は良いところでしょう? でも、故郷に帰りたいという思いはいつまでたってもあるものですか? これから故郷を出て行く私に何かアドバイスはありませんか? あなたは私よりもずいぶん長く生きてるように見えますから。


 お店の中を端から端まで見終わって、カウンターまでたどり着いた。どの種類の商品たちも、おじいさんの思いにあふれたものがあったと思う。もっと早くこのお店に来たかった。でも、今だからこそ価値というか、良さがわかってきたようにも思う。

「……ずいぶん長いことみてましたね」

 青年はカウンターで座っていた。机に肘をついて私を見ている。

「ええ。ごめんなさい、お邪魔しちゃって。……あ、」

 よく見れば、カウンターの上にも一つ魚の標本がある。手のひらにのる、小さな丸い魚。金魚に模様は似ているが、たぶん、違う種類。

「ああ、こいつっすか。こいつも一応売り物っすよ。じいさんがいた頃からカウンターにあったやつ」

 なるほど、と言ってしばらく見つめていた。かわいらしい見た目をしている。おじいさんはこの魚がお気に入りだったんだろうか。こんなお店の奥にしまって。シーラカンスとは違う扱いだ。この小さな魚には、外の景色は見せてあげていないのか。

「これ、買います」

「え?」

「買います。この魚。いくらですか?」

 自分でも、やけに強気な声が出たなと思った。でも、思ったのだ。この魚にも、外の景色を見せてやろうと。私と一緒に旅をさせようと。私と一緒に故郷を離れ、新しい地で新しいものにもまれようと。私は向こうに行って、自分の部屋に入るたびにこの魚を見て思い起こすだろう。故郷の景色の中に溶け込まない、このお店の存在を。

 きっと、家に帰るとお母さんとお父さんに、なんで買ったのかと聞かれるだろう。そのときなんて答えようか、今から悩む。


 お店を出ると、もう夜だった。外には月の光と外灯しか明かりがなく、周囲にも歩いている人はいなかった。元々人通りの少ない通りだから当然かもしれない。

 手に持った袋に入っているのはさっきの魚。勢いで買ってしまったが、これから新しい私の暮らしを象徴するものになる。

 この魚は、故郷の思い出であふれたアイテムである。私だけにわかる価値を持っている宝物である。もう、私は故郷のことを忘れない。あの雑貨屋のことを忘れない。

 やけに軽やかに足が動いた。暗くてこわい道のりであるはずなのに。歩むたびに変わる目の前の情景も、今は私に不安をかき立てない。

 学校も、公園も、息をしていないかのように静かだが、恐ろしくはない。きっと明日には、また賑やかで豊かな場所になるだろう。

 あの雑貨屋のように、変わってしまう場所もあるのかもしれない。私が知っている故郷がなくなってしまうことだってあるかもしれない。そんなときは、この小さな魚がもつ大きなエネルギーをみて思い出そう。


 私には新しい物ばかりに釣られていた時代があった。ひたすらまっすぐ走っていた時代があった。でも、今後ろを振り返って、私が歩んできた道がちゃんとあることに安心を覚えた。

 あのシーラカンスの魂は、深海に帰っていったかな。今もずっと、悠々と泳いでいるのかな。魂同士で話してほしい。こんなに綺麗な場所があったんだって。

 私は息を切らしながらずんずん歩く。進み続ける。

 さよならシーラカンス。またいつか君を感じる日が来るだろう。

 さよなら故郷、いつでもあなたはそばにある。


 2017年に描いたこの作品。まだまだ今よりも未熟だった自分が描いた作品ですが、それ故にピュアな作品となっております。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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[良い点] 主人公の心情が移り変わる様子が丁寧に描かれていてとても良かったです。 [一言] ノスタルジックな雰囲気が好きです! 優しくて少し切なくなるような、でも希望に満ちた物語ですね。名前も知らない…
[良い点] 故郷から一人で旅立つ主人公の不安な気持ちから、寂しさを感じながらも前に進んでいこうという前向きな気持ちへと変わっていく様子が、とても丁寧に描かれていたと思いました。 [一言] 郷愁を感じる…
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