第4話<3>
結局、その後、僕と彼女はあまり言葉を交わさなかった。
僕は黙々と勉強を続け、槙坂先輩も静かに本を読んでいる。
シャーペンを走らせる手を止めるとまた槙坂先輩に口出しされそうで、僕はひたすら解ける問題だけをやり続けた。勉強をする上でこれほど不毛なことはない。本来、勉強とは自分の解けない問題に当たり、悩み、解に辿り着くことに意義があるわけで、解ける問題をやり続けることに反復練習以上の意味はない。
槙坂先輩に気づかれないよう様子を窺えば、彼女は澄ました顔で雑誌を読んでいた。
少し前、彼女にボールペンを一本貸してくれと言われた。いったい何をするのかと思えば、槙坂先輩は長い黒髪をくるくると巻き上げると、そこに僕が渡したペンを差し込み、髪止めの代わりにしてしまったのだった。本を読んでいる最中、髪が流れ落ちてくるのが鬱陶しかったのだろう。おかげで今は髪をアップにしていて、普段の彼女とは少し雰囲気がちがっていた。
だからこそ、油断するとすぐに目がそっちにいってしまいそうになる。僕が一心不乱に勉強に打ち込む理由のひとつだ。
不意に入口のほうから電子音が聞こえてきた。
「なに、今の?」
槙坂先輩が驚き、顔を上げる。
「BDSに誰か引っかかったんだろ」
「BDS?」
聞き慣れない単語だったのか、彼女は首を傾げる。
「Book Detection System。無断持ち出し防止のセキュリティシステムだよ」
図書館の資料にタトルテープ(磁気テープ)やICタグを取り付け、貸出処理をしないままゲートを通ろうとすると警告が発せられるシステムだ。BDSは正確には特定企業の商標なのだが、この手のセキュリティシステムを指す一般名称としても用いられる。
「じゃあ、誰かが黙って本を持ち出そうとしたということ?」
「とも限らない」
このBDS、けっこういろんなパターンで引っかかってしまう。
強行突破を防ぐため、駆け抜ける人間に対しても反応する。だから、例えば電話がかかってきたからと、慌てて図書館の外に出ようとした人間が引っかかってしまうのだ。また、そのスマートフォンをはじめとする電子機器にもよく反応する。電源の入っている電子辞書や音楽プレイヤなどだ。あと、なぜか折りたたみ傘や中国製の本も引っかかる。
しまいには『体質』なんていう理不尽なものまであったりする。中学のときの友人、雨ノ瀬がまさしくこれで、高確率でBDSに引っかかっては、涙目の顔を僕に向けていた。
「ま、きっとうっかり何かと一緒に本を鞄に入れてしまったとか、タトルの消磁が弱かったとか、そんなところだろう」
そのあたりのヒューマンエラーがいちばん多いのだと聞く。悪意のある人間などそうそういないと思いたいものだ。
とは言え、とある公共図書館では、市民から利用者を信用していないなどの抗議を受けてBDSを撤去したところ、その直後の棚卸では紛失図書が倍増した、なんて話もあるのだが。
僕は再び勉強に戻った。
槙坂先輩も雑誌に目を落とす。かさりとページをめくる音が聞こえてきた。
§§§
やがて時計の針は午後六時を指し、図書館は閉館の時間を迎えた。退館を促すためのオルゴールが鳴る中、僕たちは荷物をまとめ、図書館を後にする。
外はもう暗くなりはじめていた。空を見上げれば薄曇り。いやな雲行きだ。夕刻を過ぎて多少空気は変わったものの、日中の熱気の残滓がまだ色濃く残っている。今日はいつも以上に湿気を含んでいる気がした。むっとした不快な外気が体を撫でる中、僕たちは歩を進めた。
隣の槙坂先輩がいつも通りに話かけてくる一方で、僕は「ああ」とか「うん」とか、口数が少なくならざるを得なかった。
彼女は、昼間の書架の間での会話をどう思ってるのだろうか。
僕は今日、今まで目をつむって見ない振りをしてきたものを迂闊にも直視してしまい、いよいよ誤魔化しが利かなくなってしまった。そこにあの会話。
槙坂涼はきっと本気だ。
僕はどうしたいのだろうな。
自問自答してみる。
(自問自答?)
僕はその言葉を鼻で笑った。己に問いはしても答えを出そうとしない自分に気がついたからだ。完全に思考停止だ。
と、そのとき、鼻先に何かが当たった。
水滴?
いや、雨だった。
「藤間くん、傘は持ってきた?」
槙坂先輩もそれに気づいたらしく、問うてきた。
「いいや」
「そう。わたしもよ」
天気予報は何と言っていただろうか。基本的にニュースで天気の話が出たら頭に入れるようにしているのだが、今日は聞いた覚えがなかった。とすると、にわか雨か。家に着くまでもってくれたらいいが。
そう不安とともに空を見上げていると、僕のささやかな願いを嘲笑うかのように雨滴はすぐに大粒になった。アスファルトの上にまだら模様をつくったのは一瞬のこと。瞬く間に雨はどしゃ降りへと変わった。さすがにこれは想定外。家まで走るとかコンビニで傘を買うとかいう前に、今すぐ避難しないといけないレベルだ。
「あそこに入らせてもらいましょ」
槙坂先輩が雨宿り先として指さしたのは、本日の診察を終えたクリニックの玄関ポーチだった。
僕たちはほかに選択肢もなく、ばたばたとそこに飛び込んだ。
降り出してからほんの数分しかたっていないのに、髪から服から、全身びしょ濡れだった。これが噂のゲリラ豪雨というやつだろうか。まさか久々の雨がこんなものになるとは。
「あ、あまりこっちを向かないでね……?」
槙坂先輩が不安げに声をかけてくるので横目で隣を見れば、彼女はシャツが体に貼りつかないよう胸元を指で引っ張っていた。……理解した。しかし、『あまり』というのだから、それ以下でなら見てもいいということだろうか。まぁ、言葉の綾なのはわかっているが。
今ここに僕たちと同じように誰かが雨宿りにきてそれが男だったら、僕はその人物を排除しなくてはいけないところだ。なに、カルネアデスの板の話もあるし、緊急避難は法律でも認められている。
僕は目を正面に固定した。
大粒の雨は真っ直ぐ叩きつけるようにして降り、砕けて散る雨滴がまるで煙のようだった。排水が追いつかず冠水気味の道路の上を、車が水飛沫を上げて走っていく。みんなどこかで雨宿りしているのだろう、街からは人の姿が消えていた。
「……」
空はいったい誰に味方して、この雨を降らせたのだろうか。
僕か、彼女か。
それともふたりのためか。
一度目を閉じ――気持ちを落ち着けてから、再び目を開けた。
「家が、すぐ近くなんだ」
僕は切り出した。
「え? ええ……」
わかりきったことだった。僕の家から図書館まで歩いていき、今はその帰りなのだから。槙坂先輩は、何を言っているのだろうといった様子で、戸惑いがちにうなずく。
僕だって同じ思いだ。いったい何を言おうとしているのだろうな。
「ひとり暮らしで家には誰もいない」
これもまたわかりきったこと。
「そうね」と静かに答えた彼女は、すでに僕の言葉の意図を察していた。その上で次句を待つ。
「うちにこないか?」
「意味はわかってくれると思う」
「……」
槙坂先輩は無言だった。
うるさいほどの雨。
車のエンジンと水飛沫。
音はあふれるほどあるのに、僕たちだけが無言。
槙坂先輩の長い沈黙に僕は、後悔交じりの不安を覚えはじめていた。……ああ、バカなことを言った。これは言うべきじゃなかったんだ。
彼女は今、何を考えているのだろう。
先の僕の言葉をどうかわそうか考えているのだろうか。調子に乗ったこの僕に心の中でため息を吐いているのだろうか。
怖くて彼女の様子を窺うことができなかった。
僕は沈黙を埋めようと試み――やめた。濡れた服のままじゃ電車に乗れないだろうからとか、うちで夕食を一緒に食べないかとか、今からどうとでも誤魔化せただろう。その気のない彼女も喜んでその誤魔化しに乗り、なかったことにしたかもしれない。――でも、僕はすべて飲み込む。
不意に雨音が小さくなった。
どうやらにわか雨だったようだ。ツイてないな、こんな十分少々の雨に遭うとは。この雨さえなければ僕も間違えることもなかったのだろうに。
と、そのとき、まるでこれを待っていたかのように、槙坂先輩が口を開いた。
「そうね。行くわ、あなたの部屋に」
その言葉は何の気負いもなく、ごく自然に発せられた。
驚き、ようやく隣に目を向ければ、彼女もこちらを見ていた。目が合い――槙坂先輩は微笑んだ。僕はどんな顔をしていいかわからず、ただただ戸惑うばかり。
ふと、槙坂先輩が空を見上げた。
「やんだわね」
「あ、ああ、本当だ」
確かにいつの間にやら雨はやんでいた。
「行きましょ」
彼女はそう言うと、躊躇いもなく足を踏み出す。
水たまりの水が跳ねた。