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第11話<上>

 夏休み前、最後の日の最後の授業の後、僕は言語学の小教室でひとり後片付けをしていた。


 後片付けといっても、そんなにたいそうなことではない。言語学の教室には各席にカセットテープのレコーダとヘッドフォンが設置されている。さすがに今どきもうカセットテープは使わないが、リスニングなどで何かとこの機械はよく使われる。それの電源がついたままになっていないか見て回っているだけだ。


 加えて、電源を必要とする装置なので、机からコードが伸びている。もちろん、邪魔にならないように床下へと続いているので、教室の床中をコードが這い回っているということはない。しかし、いいかげんそれも乱れに乱れて、けっこう乱雑なことになっている。なので、ついでに足を引っかけてしまいそうな配線も、机の下に潜り込んで直しているのだ。


 また一ヵ所配線を整え終え、曲げていた腰を伸ばした丁度そのときだった。


「あら、まだこんなところにいたのね」


 教室の出入り口にいたのは槙坂涼。


「ついさっきまで僕は、その『こんなところ』で授業を受けていたものでね」

「奇遇ね。わたしもよく利用するわ」


 槙坂先輩はしれっとそう言った後、続けて聞いてくる。


「それはそうと――何をしているの?」


 当然の疑問だろう。夏休み前の最終日、授業が終わったのならとっとと帰ればいいものを、こんなところでひとり居残って何やらやっているのだから。


「見ての通り、授業の後片付けさ」


 僕は電源を見て回りながら答える。


「先生に言われたの?」

「いや、自ら立候補」


 来年か再来年には定年であろう先生がいつもひとりで確認して回っていたのは知っていたし、僕自身今日の授業の開始前に配線で足を引っかけたこともあって、いい機会だからやってみようと思ったのだ。


「相変わらず妙なことばかり進んでやるのね」

「なに、やってると何か新しい発見も出てくるさ」


 今のところは何もないが。


 なお、槙坂先輩も迎えにきてしまったことだし、配線のほうは次の機会にすることにした。さっさと電源のオフだけ確認して終わりにしよう。


「そっちこそ、何か用か?」

「ええ、そうよ。それなのにいつも見かける場所に藤間くんの姿がないから、こっちまで見にきたの」

「まさか僕の授業の時間割りを覚えてるのか?」

「だいたいはね。あなただってわたしの時間割りを把握してるでしょ?」

「残念ながら、僕は自分の人生に必要のないことは覚えない主義なんだ」


 もちろん、嘘である。


 円滑で愉快な人間関係のためにも、僕は主だった友人の時間割りは把握するようにしている。


「せっかくきてくれたところ悪いが、この通り忙しい身でね。先に帰っててくれないか」


 条件反射的に軽口を口にする。


「用があると言ったわ。それに――わかってる? 明日から夏休みよ」

「ああ、そうだった。お互い夏休み明けには元気な姿で会いたいものだな」

「まるで終業式の日の小学校の担任ね」


 槙坂先輩は呆れたようにため息を吐く。


「夏休みが明けるまで会えないのよ? それでもいいの?」

「僕はいっこうに困らないが?」


 ぜひともそうなってほしいものだ。


「ダメよ。スマホがあるからいつでも連絡はとれるけど、どうせあなたのことだから、わたしからだと電話もメールも、テキストチャットも一度は無視するでしょう?」


 ひどい男もいたものだ。


「そうなったら、いきなりあなたの部屋に押しかけるしかなくなるわ」

「……」


 怖い女もいたものだ。


「だいたい、そろそろ決めておかないといけないことがあるでしょう」

「ああ、そうだ。どうせならこえだも呼ぼう。休み中どこか遊びにいくにしても、仲間外れはかわいそうだしな」


 僕は槙坂先輩の言葉に間髪容れずそう言うと、さっそくスマートフォンを取り出し、こえだに電話をかけた。


『あ、もしもし。真?』


 僕と同じく本日の授業が終わっているこえだは、すぐに電話に出た。


「こえだか? 今から夏休みの計画について話し合おうと思うんだけど、こっちに合流できるか?」

『え、ほんと? あ、でもなぁ、うーん……』


 何やら歯切れの悪いこえだ。


「どうした?」

『あ、いや、いま友達と一緒にいるんだよね。最近知り合った子』

「そうか。それじゃ仕方ないな」


 交友関係は大事にするべきだ。


『あ、うん、ごめん。何か決まったらおしえて』

「了解だ」


 そうして通話終了。

 たいへん遺憾なことに、援軍は呼べなかった。


「……」

「……」


 短い沈黙の後、槙坂涼は静かに口を開く。


「さ、そろそろ大事な大事な話をしましょうか」


 槙坂先輩に背中を向けていたが、僕にはわかった。今、彼女が勝ち誇ったように笑みを浮かべているであろうことが。


「忘れたとは言わせないわよ? ヨーロッパ旅行のこと」

「……」


 やっぱり覚えていたか。こえだをこの場に呼んででも、どうにかその話にならないようにしたかったのだが。……まぁ、遅かれ早かれではあるのだが。




「ホテルはダブルとツイン、どっちにする?」




「シングルがふたつに決まってるだろう」


 大事なのはそこかよ。いや、まぁ、僕にとっても大事だが。


「あら、わたしの希望は聞いてくれないの?」

「あいにくと僕の希望が最優先でね」

「仕方ないわ」


 と、彼女はため息ひとつ。


「あなたには、旅行中もぜひダブルベッドでって言い出すようになってもらうわ」

「……」


 ()って何だ。ああ、僕の部屋のベッドか。どんな過程を経てそんなことになるのか、考えたくもないな。


「そろそろ戸締りして帰らない?」

「ああ、そうだな」


 丁度すべての席をチェックし終えたし。


「話は歩きながらしましょ」


 そう言って槙坂先輩は踵を返して最初の一歩を踏み出し――そして、飛び出ていた配線に足を引っかけてしまった。


「きゃっ」

「危ないっ」


 僕は咄嗟に彼女を後ろから抱き支えた。


「……」

「……」


 訪れる静寂。


 抱き支えた? いや、これは『後ろから抱きしめた』と表現するほうが正しい状態なのではないだろうか。


 それは驚くほどやわらかかった。


 誤解のないよう言っておくと、特定の部位がではなく、彼女の体が、存在そのものが――いったい何でできているのかと思うほど、とてつもなくやわらかかった。女の子とはこれほどまでにやわらかいのかと衝撃すら覚える。


 が、いつまでも感動しているわけにもいかず、


「うわあっ」


 遅まきながらようやく自分が何をやらかしているか気づき、慌てて槙坂先輩から離れる。


 と――、


「しま……っ」


 今度は僕が配線に足を取られてしまった。


 後ろ向きに倒れる体。


 その僕に、何を思ったのか槙坂先輩が手を伸ばした。腕をつかむ。が、彼女の力で倒れる僕を支えられるはずはなく、結局、僕たちはもろともにひっくり返ってしまった。


「痛ってー……」

「……」


 僕が槙坂先輩を抱きかかえるようにして倒れたかたち。咄嗟に顎を引いて頭を床に打ちつけることは避けられたが、力いっぱい背中を強打してしまった。


 まったく。さっきから何をやっているのだろうな。コントかよ。


「大丈夫か?」

「……」


 すぐ目の前に槙坂先輩の顔があった。吐息がかかりそうなほどの距離はまるで恋人同士の抱擁のようで、僕はその距離を意識しないよう努めて冷静に問う。――が、彼女は黙ったまま。


 やがて槙坂先輩は 顔を赤くしながらようやく口を開いた。


「あなた、今日はずいぶんとサービスがいいのね」

「は?」

「さっきは後ろから抱きしめて、今度は――気づいてる? 藤間くん今、手でわたしのお尻を鷲掴みにしてるわよ。それも、たぶんこれ、スカートの中ね」

「え?」


 言われて意識してしまったせいだろう、反射的に手に力を込めてしまった。槙坂先輩の口から「ん……」と艶めかしい声がもれる。


 それは驚くほどやわらかかった。

 今度は感覚的なものではなく、もっと直接的な意味で。特定の部位が。


 ついでに体を密着させているせいで、重なっている彼女の女性的なやわらかさを、文字通り体で感じている。


「わ、悪いっ」


 僕は慌てて手を放し、寝たままの姿勢で両手を頭の横に上げた。


 万歳。

 もしくは、降参。


「……」

「……」


 再び沈黙。


「あ、あー……、とりあえず僕は手を放したので、今度はそっちの番だと思うのだが……」


 まったく動く気配を見せない槙坂先輩に、ひかえめに行動を促してみる。


 すると彼女はようやく両手と両膝を使って体を浮かせた。僕の体に覆いかぶさるような四つん這いの状態のままで、ひとまず乱れたスカートを直す。


「そうね。今度はこっちの番ね」

「……引っ叩くなら好きなだけやってくれてもいいが、できれば死なない程度に頼む」


 僕は彼女の言葉に不穏なものを感じ、そう言ってみた。むしろそれくらいですむならまだマシだ。僕の第六感が告げている。


「まさか。そんなことしないわ」


 そう。もっとおそろしいことが起こると。




「唇がいい? それとも首筋? 耳も意外と感じるらしいわね」




「……いったい何の話だろう?」


 僕のあまりにも愚かしい質問に、彼女は艶然と微笑んだ。


「スキンシップは相互であるべきだわ。そう思わない?」

「……」


 不意に槙坂涼のしなやかな手が、指が、僕の頬や首筋を撫でてきた。


 まるで甘い愛撫。

 或いは、牙を突き立てるのに最適な個所を探す獣の――。


 その手つきと凄艶な女の笑みに、ぞくりと鳥肌が立った。


 別に押さえつけられているわけでも、のしかかられているわけでもないのに動けなかった。辛うじて動くのは口だけ。


「待て。ここは教室だぞ」

「知ってるわ。キスくらいで場所を気にするなんて、意外とロマンチストなのね」


 おかまいなしかよ。そして、どうにもそれだけでは終わらなさそうな迫力があるのだが。


 ついに彼女の顔が僕に迫ってきた。


 こうなったら僕も覚悟を決めるか――そう思ったそのときだった。


「誰かいるのか?」


 教室のドアが開き――声。


 僕と槙坂先輩は弾かれたように体を起こし、出入り口を見る。そこに先生がいた。何度か見かけたことがあるだけの、僕が受けている授業とは関係のない先生だ。たまたま通りかかって、ドアを開けたのだろう。僕たちが床でふざけ合っていたせいで、外からは照明が点いているわりには、人の姿がないように見えたに違いない。


「そこで何をやっているんだ、お前たち!」


 先生は見過ごせない何かを見つけたように、激しい詰問の言葉を発した。

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