第11話<上>
幸いにして、そのときの授業は先生の事情か、はたまた単なる気まぐれか、終業のチャイムが鳴る五分まえに終わった。好都合だ。僕は先生が授業の終わりを告げると、すぐさまテキスト類をまとめ、教室を出た。
歩く速度はやや速め。
逸る心が表れているのだろうか? いや、気持ちは落ち着いているつもりだ。
教室を出て向かった先は、また別の教室。辿り着いたときには、時計は授業の終わり二分前を差していた。自分で思っていたのより早い。
その教室の前で待っていると、程なくしてチャイムが鳴った。続けて、あまり間をおかず先生が出てくる。どうやら授業の延長はなかったようだ。好かれる先生の第一条件だな。入れちがいに僕が中へと這入る。
教室の中は授業が終わった解放感に満ちていた。皆、テキストやノートをまとめながら、固まって座った友達同士で話に夢中で、入ってきた僕に気づいたのは入口付近にいた数人だけだ。それもちらとこちらを見ただけで、気にも留めていないふうだった。
教室を見回さなくても彼女――槙坂涼の姿はすぐに見つけることができた。
槙坂先輩は、教室は変われどいつもの場所に座っていた。ほかの生徒と同じように片づけをしながら、話しかけてくる周りの女子生徒に微笑みと相づちを返している。
僕は意を決して足を踏み出した。
早々に教室を出ようとする生徒何人かとすれちがいながら、彼女のもとへと歩を進める。最初に僕に気づいたのは槙坂先輩ではなく、周りにいる女子生徒のひとりである伏見唯子先輩だった。
「おー、藤間君だ。久しぶり」
「どうも」
座った状態から僕を見上げてくる伏見先輩に軽く頭を下げ、挨拶を返す。確かに久しぶりだ。このところ槙坂先輩と顔を合わせていなかったからな。自然、彼女の周囲の人物とも遠ざかる。
「丁度いいところにきたね」
「何ですか?」
と聞き返せば、伏見先輩はイスに座ったまま両手を広げて何やらアピールしてきた。
「ああ、乗り移るんですね」
授業も終わったことだし、そばに置いてある車椅子に移りたいのだろう。そして、それを僕に手伝えと言っているのだ。
「その通りだけど、なんか言い方が怨霊っぽくない?」
「どうせなら飛び移ったらどうです?」
「涼さーん、最近藤間くんが冷たいんだけどー」
伏見先輩は腰をひねり、槙坂先輩のほうを向いて訴える。
しかし、
「そういう子よ」
と、槙坂先輩。どうにも含むところのありそうなニュアンスだ。ため息がここまで聞こえてきそうである。
「ほら、いいから手を貸す」
「仰せの通りに」
僕が伏見先輩の前に回り、顔を寄せるようにして腰を曲げると、彼女はその僕の首にしがみついてきた。「失礼します」と声をかけてから腰に手を回し、抱え上げてそのまま車椅子へと移す。
「おー、さすが男の子、安心感がちがうね」
「というか、これくらいなら自分でできるでしょうに」
伏見先輩は車椅子で日常生活を送っているが、足がぴくりとも動かないわけではない。やろうと思えば自分の足で立つこともできるし、何かにつかまりながらごくごくゆっくりとなら歩くこともできる。イスを移るくらいなら、こういう補助も必要はないのだ。でも、逆に言えば、その程度しかできないのである。
「役得役得。お互いにね」
まぁ、女の子に抱きつかれ、腰に手を回しているのだから、そうと言えなくもないか。
そうしてから僕はようやく槙坂先輩へと向き直った。
「こんにちは、藤間くん」
「……」
普段通りの挨拶に添えられた微笑を見て、僕は何も言葉を返せなくなる。
ああ、この笑みは『槙坂涼』のものだ。彼女が『槙坂涼』を演じるときに浮かべる微笑み。普通のやつなら、これで心を鷲掴みにされるのだろう。それほどたおやかで淑やかで魅力的な微笑だ。だが、本当の彼女を知る僕は、もっと別のものに心を締めつけられる。……僕に、そんなふうに笑うな。
だが、この程度で怯んではいられない。
「……話がある」
「そう。でも、わたしにはないわ」
すっ、と槙坂先輩の顔から表情が消え――その口から紡ぎ出された返事は、実にあっさりしたものだった。
「あ、あのさ、涼さん。そう言わずに聞いてあげたら?」
まるで睨み合うようにして対峙する僕と槙坂先輩の間に、狼狽した様子の伏見先輩が割って入る。当然ながら、彼女も今の僕たちがどうなっているかは知っているだろうし、気を遣ったのかもしれない。
槙坂先輩はため息をひとつ吐く。
「どうぞ。……ここで話せるような内容なら、だけど」
「……」
周りを見れば伏見先輩をはじめとして、幾人かの生徒がこちらの動向を窺っていた。確かに人目の多いところでするような話ではないかもしれない。――が、かまうものか。
「僕の留学の件だ」
僕は切り出した。
最初に反応したのは、そばにいた伏見先輩だった。「え、留学!?」と、車椅子の上で体を跳ねさせる。それを皮切りにほかの生徒もざわつきはじめた。「留学?」「藤間君って留学するん。すごーい」「じゃあ、槙坂さんと彼って……?」。
「それはもう終わった話ね」
周囲のざわめきをよそに、槙坂先輩は静かに言い放つ。……やはりもとより聞く気はないようだ。まぁ、想定の範囲内か。
「大事な話なんだ。逃げずに聞いてほしい」
「逃げる?」
途端、槙坂先輩の表情が一変する。
「逃げてるのはどっちよ!? いつもいつも手を伸ばせば逃げてばかりで。今度は本当に手の届かないところに行ってしまおうと言うの!?」
両手で机を叩き、立ち上がった。
「仕方ないだろう。僕にはアメリカでやりたいことがあるんだ」
「だったら、なぜそれをもっと早く自分の口で言ってくれなかったの!? 大事な話なのよね!?」
「それは悪かったと思ってるさ」
切谷さんの口から伝わってしまったのは不慮の事態だったとしても、ずるずると先延ばしにしたのは僕の悪手だった。そこは責められても仕方のないことだろう。
「勝手なことばかり言って」
槙坂先輩は鼻で嘲り笑う。
「わたし今、藤間くんのことがきらいよ」
「っ!?」
思わぬひと言に絶句する僕に、槙坂先輩はここぞとばかりにまくし立ててくる。
「あなたの笑顔が不愉快! わたしだけのものじゃないどころか、わたしにだけ笑ってくれない!」
「……」
「優しいところがきらい! 誰にでも優しくして。さっきだってそう。唯子にはあんなことも自然にできるのに、わたしには甘い言葉のひとつもないわ」
それを聞いた伏見先輩が「あちゃー」と天を仰いだ。いや、たぶん伏見先輩は悪くない。まぁ、間が悪かったのは確かだが。
「それにすぐに女の子と仲よくなるところもきらいよ。唯子に加々宮さんに切谷さん。この前は別の女の子とも仲よく顔を寄せ合っていたわ」
最後のは瀬良さんのことだろう。その場では無視していても、しっかり頭にはとどめていたらしい。
ヒートアップしていく槙坂先輩とは逆に、僕は冷静になっていく。冷静ついでに――改めて聞くとひどいやつだな。何だその男のクズ。どこのジゴロだ。
「バカバカしい。まさか槙坂涼ともあろうものが、そんなわかりやすいものを求めていたわけじゃないだろう」
「当たり前よ。そんなものもう間に合ってるわ」
だろうな。下心からであれ、槙坂涼の人徳のなせる業であれ、彼女に笑顔を投げかけ、優しくする人間はごまんといる。
「だったらなぜ言う」
「言いたくなることもあるわ」
まるで八つ当たりだな。
とは言え、きっと言わせてしまったのは僕なのだろう。
「そうか。あなたが僕を嫌いと言うなら、僕も言わせてもらおう。……僕はあなたが好きだ」
「え……?」
槙坂先輩の口から小さな声がもれた。
彼女の頬がかすかに赤くなり、目も居心地悪そうにわずかに泳いでいた。ずいぶんと珍しい反応だ。尤も、言った僕も恥ずかしくて――おかげで互いにこうして次に口にすべき言葉を見失ってしまっているのだが。
「……言いたくなることもある」
その沈黙を埋めるように、僕はようやくの思いで発音した。
槙坂先輩がはっと我に返る。
「じゃあ、どうしてつれていくって言ってくれないの!?」
どうやら先のひと言は槙坂先輩の神経を逆撫でしてしまったらしい。彼女の語気がまた荒くなる。怒って照れて、また怒って。忙しいことだ。そして、らしくない。
「わたしは前に聞いたわ。つれていってって。でも、あなたは……っ」
「……」
そうだ。確かに聞かれた。明慧大の図書館で、「わたしもアメリカにつれていってくれる?」と。冗談めかせて。でも、彼女は本気だったのだ。それに対し僕は、ろくに考えることもせずに拒絶した。
今にして思えば、あれが決定的な決裂の瞬間だったのだろう。
それでも、
「それでも僕の答えは変わらない。――無茶を言わないでくれ。今の僕にそんな覚悟ができるわけがないだろう」
そして、おそらく今のらしくない彼女も、本音を吐いているのだ。
「いいわ。なら勝手についていくから」
「勝手に決めてくれるな。それこそ勝手な話だ。人に言えた義理かよ」
再び僕たちは睨み合う。
本当に勝手だ。それでこそ槙坂涼と言うべきか。
しかし、それなら僕にも考えがある。
「やれるものならやってみればいいさ。そこまで勝手なら勝手を貫けばいい」
「いいのね?」
「ああ」
挑戦的に問い返してくる彼女に、僕はうなずく。
「だけど、僕はそんなことをさせるつもりはないよ。勝手についてこられるなんてたまったものじゃない。……だから―― 一年」
僕はそこで言葉を切った。
一拍。
その一拍で次の台詞を吐く決意を固める。
「僕が卒業するまでの残り一年で、僕は覚悟を決めてみせる。槙坂先輩をアメリカにつれていく覚悟を」
槙坂先輩が目を丸くする。
「それでもし、僕にそれができなかったら、そのときは槙坂先輩の勝手にすればいい」
「……」
まだ固まったままの槙坂先輩。
やがて彼女は、ぷっ、と噴き出し――腹を抱えて笑い出した。その様子は可笑しくて可笑しくてたまらないと言わんばかりで、僕はもちろんのこと、周りにいた生徒も呆気にとられる。誰もこんな槙坂涼は見たことがないにちがいない。
そして、そこからはあっという間の出来事。
「それでこそわたしの藤間くんだわ」
どこか誇らしげにそう言うと、彼女はいきなり唇を重ねてきた。
衆人環視の中でのキス。
僕はいったい何が起こったのかわからず、頭の中が真っ白になった。
周囲の「えっ?」や「あっ!」の驚きの声に混じり、「きゃー!」といった歓声にも似た声も上がったが、それらもどこか遠くのもののように聞こえる。
やがて顔が離れ――彼女はいたずらっぽくも艶めかしく、舌で唇を舐めた。
そこでようやく僕は現実を取り戻す。
「こんなところで何を!?」
「そうね。じゃあ、外に出ましょう」
僕の文句などどこ吹く風で、テキストやノートを手に取ると、槙坂先輩は颯爽と教室の出入り口へと歩き出した。僕がついていくことをまるで疑いもせずに。おとなしく従うのも癪なのだが、しかし、この場に残ったところで針のむしろは必至なので、僕は逃げるようにして足早に彼女の後を追った。