夕映えのジャングルジム
冬の夕暮れ時は車も人も急ぎ足で、何だか酷薄さを感じる。点滅し始めた歩行者と自転車用の信号に、駆け出す人たちと、青信号待ちの商用車。苛ついた方向指示器がドライバーの舌打ちに合わせて、リズムを取っているかのよう。
私は自転車を押しながらドライバーに向かってペコリと頭を下げ、慌てて信号を渡った。ここの道路は狭く、通行人の多さに対して歩道の段差は優しくない。
信号脇の公園は芝生の保全の為、自転車では入れない。駐輪場で自転車を停め、カゴの中のビニール袋を掴み、点灯し始めた外灯の下へと向かう。
ここはマンションが隣接しているから、そこの駐車場の灯りもあって夜はわりと明るい。中央のジャングルジムの上に座る少年の姿を見つけて声をかけた。
「一哉」
「おー、舞子!」
一哉と私はご近所さんだ。中1のときに私がこの地へと引っ越してきて、同じクラスでもあった一哉が世話を焼いてくれた。一哉の世話好きは年が離れた妹がいることもあるが、母親ゆずりな部分もある。まだ知り合ってから5年ほどしかたっていないのに、ウチの母と一哉の母はとても仲がいい。
「よっしゃ、休憩すっかな」
下りてきた一哉とベンチへ座る。一哉は私が差し出したビニール袋から、冷えたスポーツドリンクをさっと出し、一息に3分の2ほど飲んでしまった。
「はーーっ、生き返るーーーーっ」
そう言いながら携帯食料のパッケージをむしって、がぶりと頬張った。
「時間があれば、おにぎりでも作るのに」
「いつも言ってるけど、これで充分。筋肉作りたかったら、ちゃんとご飯を食べろって親に怒られるし。……それより、いくらだった?」
「それどっちもバイト先のコンビニのじゃなくて、日曜に親とホームセンターへ行ったときの特売品だからお金は別にいいよ。我が家も一哉のおばさんにいろいろして頂いてるし」
「そっか、サンキューな」
両家の間はお土産やおすそ分けなど、一年に何回も品物が行き交ってる。物々交換のゴールって存在するのかな?
「それで? 出来るようになったの?」
「んーー、感覚は掴んで来たんだけどなー」
手の中のペットボトルを両手でこねながら、一哉はジャングルジムを睨み付ける。あっという間に夕焼けは消え去り、外灯の周りは空気中の水滴が反射して、白く幻想的に光っていた。
「ま、見るか?」
「うん!」
一哉は私に背を向け、公園の入り口へとゆっくりと歩いていく。その後ろ姿に、私がやる訳では無いのに、緊張感が高まってくる。何度見ても馴れることはない。気づけば自然に両手を握り合わせている自分に苦笑する。
「じゃ、行くぞっ!!」
掛け声と共に一哉が走ってくる。一定のリズムで、息も乱さず。そのままブランコの外枠の鉄製の囲いに飛び乗り、平均台の要領で2メートルほど早歩きし、両手で脇の樹木の枝に飛び移った。その勢いのまま鉄棒競技のように高く長く跳び上がった。着地を決めたかと思うとシーソーを駆け抜け、今度は砂場を覆う壁を両手で掴み、体を跳ね上げる。片足を乗せて壁を飛び越えると、砂地に着地。足元から飛び散った砂が、横倒しの円錐形状にキラキラと舞い飛んだ。くるりと向きを変え、あっという間にジャングルジムを上り詰めたかと思うと両手を放し、背後に向かって体を丸めながら円を描いて飛び降りた。
ドウッと濁った音がして、一哉は着地した。
「いってーーーーっ!!」
「ちょっと! 大丈夫っ!?」
「慣れてるから、どうってことないよ。……あーあ、最後の着地がきまらねぇんだよなぁ」
一哉は胡座をかくと悔しそうに手近の雑草を砂ごとむしり、無造作にそれを投げた。その砂だらけの手で頭をかきむしる。
こっそり、怪我がなくて良かった、と思っていることはなかなか口には出せない。
この競技はパルクールという。元々は20世紀初頭に、元フランス海軍の教官、ジョルジュ・エベルという人が作った、フランス軍のトレーニング法だったらしい。そこから発展して、走る・跳ぶ・登るといった移動所作に重点を置くスポーツ……というか、動作鍛錬というものが編み出された、と以前一哉から説明を受けた。
壁や地形を利用して飛び移ったり、飛び降りたり、回転して受け身をとったり、とダイナミックな動作を繰り返し行う。今では世界大会も行われているらしい。
「ねぇ、改めて聞きたいんだけど、世界大会を目指してるの?」
改めて質問してみる。
「いや~、そこまでは考えていない」
えっ? こんなに練習してて、考えてないの!?
「そ、そうなんだ」
「出来なかった技が少しずつ出来ていくようになる、その過程が面白いんだ。熱中できることに全力を注いでるだけ。ってか、……まあ、他に頑張りたいことがあって、そこへの理由付けというか。…………テルさんが「一緒にパルクールをやって、それを動画に撮ろう」って言ったから、その練習ってのもあるけど」
「ふぅん?」
テルさんというのは輝飛さんという名の隣の市に住む大学生で、一哉にとっての師匠みたいなものだ。パルクールを始めてまだ間も無い頃に出会って、アドバイスをしてくれている人。駄目なことは駄目と言い、上手くいくと拍手喝采で褒めてくれる。
どうやら個人的な相談もしているらしく、一哉は兄貴分みたいにも感じているみたい。
「テルさんさ、パルクールの知名度をもっともっと上げたいんだって。それで裾野を広げて、いつかはオリンピック競技になるようにって、そういう活動をしてるらしい」
「へぇ」
俺はオリンピックには間に合わないだろうけどさ、テルさんの活動の手伝いが出来たらなーって思ってるんだ。そう言いながら頬を染めて、でも目は真剣で、照れ臭そうに笑った顔が優しかった。
「そっか。私も何か手伝いたいな」
一哉は更に顔をほころばせ、「そのときは頼むな」なんて嬉しそうに頷いてくれた。本当はテルさんじゃなく、一哉のことを手伝いたいと思ってることは恥ずかしくて、やっぱり言えないままだった……。
☆
今日はついに撮影当日。風も少なくよく晴れて、冬にしては穏やかな日だ。
テルさんの大学の影像研究部の人たちが、ガヤガヤといつもの公園に集まって、ロケの準備をしている。
ビデオカメラだけでなくスマホも活用して幾つもの画像をとって、後で部室のパソコンで編集するらしい。
一哉とテルさんは、眼鏡をかけサンバイザーを被ったお兄さんと何か話している。彼の手先がときどき公園の遊具を指すので、この人が監督なのだろうと思った。
「じゃあ、本番いきまーーす!」
その声にいつも以上に緊張が高まる。心臓が早鐘を打ち、石でも飲み込んだかのように胸が詰まる。
公園の入り口に立ち、深呼吸をしてから二人は駆け出した。そしていつものコースへ……。
昨日、一哉は何度も最後のジャングルジムからの飛び降りを練習していた。その度に首を捻っていた。最後の着地はだんだん上手くなっていたけど、納得出来ないようだった。
今日その努力は実るのか? 私は祈るような気持ちで彼を見つめることしか出来ない。不甲斐なくて、歯がゆかった。
二人は空を切るように次々とアクロバットを決めていく。走って跳んで、掴んで離して。側転やバク転もしながら、また高いところへと伸び上がる。
そして、ジャングルジムへ。運命の結果はーー。
「カットーー!! ……もう一回ジャングルジムだけ行こうか?」
監督の檄が飛ぶ。
「スミマセン! オレ着地で足がぶれちゃって!!」
「一哉、気にするな。流れもあるからジャングルジムだけじゃなくて、頭からやろう」
二人はスタート地点へ戻っていく。その一哉に、……違和感を持った。
「じゃあー、仕切り直してーー、スタートッ!!」
こうしてテイク2が始まったけど、私の中の違和感は広がっていくばかり。
何度目の取り直しなのか。3時頃から広がりつつあった雲が、茜空に美しい夕映えを照らし返す。
「一哉、ちょっと」
私は一哉の利き脚の靴下をはぎ取ると、コールドスプレーをかけテーピングをした。
「舞子ちゃん、手際いいね」
だって、これくらいしか力になってあげられることが無いんだもん。あとはただ見守ることしか……。
褒めてくれたテルさんには、笑顔で「慣れてますから!」としか言いようが無かった。
「次で最後にしよう。納得いってもいかなくても、これ以上やったところで体が冷えて、疲労するばかりだろうからね」
「はいっ!」
戻ろうとする一哉に声をかける。
「一哉、がんばってね」
「おう! 舞子、ありがとうな」
がんばってね、見てるから。ちゃんとあなたのがんばりを見てるから。
「テイクー、ラストーーォッ!! 用ーー意、スターートォッ!!」
一哉の足音とテルさんの足音が重なる。二人が駆けてくる。良かった、さっきまでの足音とは違う。いつもの一哉の足音だ。たったそれだけのことでホッとして、何だか泣きたくなってきた。
アクロバットも決まり、公園内を駆け回る。飛び上がる。……汗に夕日が煌めく。
本当の意味で最後のジャングルジム。二人が空の赤にシルエットになる。二人を中心にオレンジ色の光線が散らばっていて、その光の中央でコマのように回転する二人……。
それを私は美しいと思った。何よりも美しいとーー。
スタッという音とともに、二人の着地は綺麗にきまった。
「…………はいっ! カーーーーットォ!!」
瞬間、四方八方から歓声と拍手が起こる。気づけば少し離れたところから近隣住民の皆さんが覗いてた。マンションの窓にも人影がチラホラと見える。誰もが笑顔で拍手していた。
一哉とテルさんはその音のする方へ、ペコリペコリとお辞儀をしつつ皆のところへ戻ってきた。
撮影スタッフの女性が一哉に花束を渡す。テレビドラマの出演者が最後の出演シーンを撮り終わると花束を貰うらしいけど、それみたいだな、と思った。
ところが一哉は花束を受け取ると、真っ直ぐ私のところへ来た。そして片方の膝をついてしゃがみ、その花を両手で私に捧げるように差し出した。
「いつも見守ってくれてありがとう。舞子、お前が好きだ。オレと付き合ってくれ」
更なる歓声が起こった。その声に触発されて首筋が熱くなり、顔から火が出そうになる。
歓声は徐々に静まり、誰もが私の返事を聞こうと聞き耳を立てているみたいだった。
「…………はい」
小さな声をしぼりだし、やっとの想いで返事をした。瞬間、撮影スタッフの皆はいつの間に準備したのかクラッカーを鳴らし、口々に「おめでとう」と叫んだ。そして広がる祝福の渦。
私は嬉しいような、泣きたいような気持ちで花束を握りしめたのだった。
☆
それから一週間ほどして動画がアップされた。テルさんがご丁寧にも説明欄に、一哉の告白のことまで書いてくれちゃって、それもあってイイネがたくさん着いたらしい。
それを一緒に見ながら「がんばりたいことって、あのサプライズ告白だったんだよね」と、一哉が呟いた。「たくさんの人に祝福されて、嬉しかったけど、めっちゃ恥ずかしかったんだからね!」と、「だからこれからも練習するときは、日程を教えてくれないと許さないんだから!!」と私が言うと、一哉は嬉しそうに頷いたのだった。
おしまい