第九章 十度目
今年も白い花が咲く。
自分の管理する植物に巻きつく蔦を見つめて、ディーは深く息を吐いた。
「もうすぐ目覚める」
呟いて小さくうずくまる。
ディーにとっては自分の身体も管理する植物も、たいして大切なものではなかった。
フゥと一緒にいるために身体が弱るというのなら弱れば良いし、棘の痛みを感じれば我慢すればいいだけのことだった。
「……どうして」
前回の目覚めを思い出して呟くと、涙を落とす。
不幸にしたくなかった。
泣かせたくはなかったのに。
フゥに出会うまで、ディーは長く続く自分の運命に絶望していた。
花を管理するためだけに産まれる花迎え。管理する植物から離れることもできず、植物が死ぬと共倒れになる脆弱な生物。
自由もなく、自分の管理する植物の花期は長い。
何もない生活が続く日々に、心底うんざりとしていた。
そんな時に出会ったのがフゥだった。
灰色の空は雨を落とし、長く降り続いていた時のこと。
「どうしてそんなつまらない顔をしているの?」
少し離れた場所から声をかけられて、声のした方に驚きながら視線を向ける。
輝くような笑顔がこちらを見ていた。
「どうでもいいだろ?」
「いいけど……今日なんて雨でとっても楽しいのにつまらなそうだから」
そういってフゥは小首を傾げると、ビシャビシャと足踏みをする。
正直、最初は変な奴だと思った。
それ以上に自分の管理している植物が寄生生物だと知らないことに、のん気過ぎる奴だと感じた。フゥは、自分の名前以外なにも覚えておらず、子供のようにいつも笑っていて、自分はいつもそれを呆れて見ていた。
けれど、どうしてだろう。
惜しげもなく差し出される好意に、自分は惹かれていた。
泣けるほどに純粋な心、相手を理解しようとする深さがフゥにはあって、自分はそれを欲していたのだ。
――だが、その弱さが致命的だった。
優しすぎる花迎えに、誰かを食い物にすることなどできるはずがない。
もう少し傲慢でも良かったのだ。傍にいられるほうが大切だという自分に耳を貸せるくらいの強さがあればと何度も願った。
――どうしてフゥがこんな植物を管理しなければならないんだ。
憎々しげに思いながら、ディーは目の前にある蔦を見つめる。
自分達を苦しめる憎い植物。
けれど、この植物がなければフゥに会えないことも確かだった。
一番古い、フゥとの別れの記憶を思い出す。
「フゥ、生まれ変わって忘れても、また会おうね」
あの時も自分は泣いていた。
「会いたいけど、会えないよ。私はディーを傷付けるもの。……どうしたらいいんだろう。辛いよね」
相手のことを考えない言葉に優しく返される言葉。
嗚咽を堪える声は震えていた。
甘い時間の最後は、いつも苦い。
待って欲しいのに、繋いでいる手が、陽炎のように消えていく。
「僕が、なんとかするから!」
悲痛な声に、フゥが顔を上げることはない。
――お願いだから、泣かないで。
記憶の中の自分が泣きながら叫ぶ。
何度も繰り返す記憶は、その度ごとに同じ切なさで自分を苛んだ。
――目覚める。
ふと現実にかえり、近くにある白い花を見つめる。
蕾が大きく広がり、中から白い髪がはらりと落ちた。
ディーは涙をぬぐって、静かにその時を待った。
どうして、自分は誰かといることが許されないのだろうか。
まどろみの中、フゥは考える。
誰かを傷つけたいわけではない。
特別な何かを求めているわけでもない。
ただ、自分を求めてくれる人の傍にいられること。
それだけで良かった。
どうか
それさえ許されないというのならば。
どうか私をここから消して下さい。
もう誰も悲しまないように。
消すということは、生み出すよりも簡単なことでしょう?
けれど、消せない記憶はいつまでも私の大切な人を傷付ける。
だから、どうか私を消して下さい。
私が消えれば、いつかは思い出に変わるから。
叶えられない願いだと思いながら、ただ一心に祈った。
泣きながら十度目の目覚めを迎えた。
目を開けた視界に蔦に巻きつかれた植物がみえて、気持ちが沈む。
結局、自分はまたディーを傷付けているのだ。
「……フゥ」
声をかけられた途端、差出される優しい手。
蕾の中に横たわったまま見上げると、悲しそうに笑うディーの姿が見えた。
「ディー」
どうか、そんな顔をしないでほしい。
心の中で何度も悲しまないで欲しいと願うが、どうにもならないことは分かっていた。
差出された手を掴んで、蕾から抜け出る。
二人とも、何も話せずにいた。
ディーが以前と同じように抱きしめるので、フゥも何も言わずに胸の中におさまり、腰を下ろす。
抱きしめていた腕がほどけて、肩を掴まれる。
流されるまま後ろを向くと、自分の唇にディーの唇が重なった。
意味が分からないまま呼吸もできず、弱く胸を叩く。
途端、頭を優しく撫でられて、唇が僅かにはなれた。
大きく息を吸って、薄く目を開ける。
自分を見つめる瞳が、間近に見えた。
「フゥ」
名前を呼ぶ、優しい声。
髪を撫でてくれる優しい手。
なぜか突然、悲しさと愛しさが溢れて、涙が頬を伝った。
「泣かないで」
優しく涙をふかれ、目を開けるとディーも泣いている。
「それなら、ディーも泣いちゃダメだよ」
涙を落としながら笑うと、答えるように相手も泣きながら笑った。
どうにか、自分の管理する植物を枯れさせたかった。
けれど、それを阻止するようにディーがずっと私を抱きしめていた。
蔦に触れていなければ数分で死ぬはずで、その時に自分がいる場所の管理する植物だけは道づれに枯れさせることができるはずだったが、それもすぐに知られてしまい失敗に終わった。
きっと、昔にも同じ事をしたことがあるのだろう。
記憶がなくても結局考えることは同じなのだ。
「お願いだから、自分を傷付けないで…僕はフゥのいない日々なんて考えられないんだ」
そのうち成功するかもしれない、と何度も同じことをくりかえしていたある日、ディーは泣きそうな顔で、そう言い聞かせようとした。
けれど、弱っているディーをこれ以上傷つけることの方が、自分には辛い。罪悪感に苛まれて生きることが辛いのだ。
「どうしてダメなの? 好きな相手を傷付けて生きるなんて堪えられないのに。どうして邪魔するの」
胸の中から身を捩り逃げ出す。
空は重く雲が覆っていて、自分の身体も相手の顔も、暗くのっぺりとしていて、心の中を現しているようだった。
枯れてしまったのか、もう涙を流すことはない。
死ぬのは怖くなかった。
ただ生きているのが辛かった。
それ以上に、もう何も考えたくはなかった。
「じゃあ、僕は自分のために何度も死んでいくフゥを見なければならないっていうのか?! 今回死んでも、一緒にいることになれば、フゥはまた死ぬだろう……僕は、それを見なければならないのか!」
悲痛な叫び声で我にかえる。
相手に自分の行動がどんな傷をあたえるかなんて、考えていなかった。
静寂が辺りをつつみこむ。
同じことをくりかえす。
当たり前のことさえ、よく理解していなかった。
今を逃げても自分が記憶を忘れたら、同じことを繰り返す。
その度に私はディーを傷つけ、シシィを傷つけるのだ。
言葉が出なかった。
上手く思考が働かず、自分の足元を見つめる。
「もう、いい…解放してあげるよ」
ぽつり、と呟く声が聞こえた。
意味が分からず、顔を上げる。
「今回会えても、会えなくても、フゥを永遠に解放してあげようと思っていたんだ…方法はあったんだよ。だけど僕は、フゥがいない日々なんて堪えられなくて…だから、再会した時に我慢していた分だけ、離れたくないと欲が出た」
寂しそうな顔がこちらを見ていた。
最後は自嘲的な笑いを含み、顔を手のひらで覆う。
「だけど、やっぱりフゥは泣く…隠していても、真実を知るんだ…」
隠した顎の下から、涙の雫が落ちた。
あぁ、この人を追い詰めたのは、私だ…。
不意に気付いて、ふらりと前に足を進める。
「泣かないで」
声もなく涙を流す愛しい人の頭を、抱きかかえた。
――これ以上、悲しまないで。
どうにもならないことを言うほど、愚かではない。
だから、かわりに耳元で小さく囁いた。
「もう、逃げたりしないから」
花迎えの役目が終わるまで、この人を守りたい。
辛くても、悲しくても、それがいつか終わりを迎えるのなら、優しいこの人と共に生きよう。
心から、そう思った。
種の時期を向かえ、カーに種を渡す。
「これで二度と他の花迎えと会えなくなるが、いいんだな」
カーの言葉に、小さくうなずく。
「いい。これで誰も傷つかなくなるなら、それでいい」
「……フゥ」
寂しげな言葉に、後ろにいたディーが名前を呼ぶ。
フゥは後ろをふりむいて、ディーの手を握った。
「自分で種を渡せて良かった。もうギリギリだよ」
カーに微笑む顔は、透けていた。
笑うこともできずに、カーは「ああ」と答える。
「ねぇディー、私達が出会ったことは余計なことだったのかな……悲しさを増やしただけのことだった?」
透けた手を繋いだまま、問う。
「余計でも無駄でもない。会えて嬉しかったよ。フゥに会えなかったら、僕はもっと辛い日々を送っていたよ……それを辛いとも分からずにね」
幸せを知れば、失った後の世界が辛くなる。
幸せを知らなければ、喪失感は酷くない。
だが、一時期の幸せでも、知っていた方が幸せなのだろう。
「良かった」
泣きそうな顔でフゥは振り返ると、精一杯の顔で笑う。
「ディー、これからは幸せにね」
「……これからも、だよ」
ディーの言葉に耐え切れない涙を落として、うなずいた。
「うん、これからも……!」
その声を残して、フゥの姿は完全に消えた。
フゥ消えた世界にディーは立ち尽くす。
「こうするしか、ないのか」
ポツリと呟いて項垂れると、その場に膝をつく。
本当に、フゥを幸せにするには、この方法しかなかったのだろうか。
共に生きていける方法は無かったのだろうか。
無かった。
無かったから失った。
ディーの目から、涙が溢れる。
自分のそばで、幸せにしたかった。
フゥが傍にいることが、自分の幸せだった。
呼吸が荒くなる。
息が苦しい。
涙が止まらない。
それでも、自分は生きていかなければならないのだ。
「お前等は、出会って良かったんだ……きっとな」
優しげなカーの声が聞こえる。
ディーは、うずくまったまま、その声を聞いていた。